父の国――スペイン戦
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七月五日、バルセロナ。カンプノウ。
準々決勝、イングランド対スペイン。
スタジアムへ向かうバスの中で、ニコラスは窓の外を見ていた。
バルセロナの街が流れていった。スペイン語の看板。石畳の道。テラスに座っている人たち。
父の国だった。
父がプレーしていた国だった。でも父がどの街でプレーしていたかは知らなかった。スペインの2部リーグだった。どの街かまでは調べなかった。
今日、この国のスタジアムでプレーする。
それだけのことだった。でも何かがあった。
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ウォームアップ中、スタジアムの空気を感じた。
カンプノウは改修工事を終えていた。十万人近く入るスタジアムだった。スペインのサポーターで埋まっていた。赤と黄色の旗が揺れていた。
イングランドのサポーターもいた。でも圧倒的にアウェーだった。
「すごい雰囲気だな」とベリンガムが隣で言った。
「そうだな」
「ここでゴール決めたい」
「俺も」
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スペインは予想通りだった。
4-3-3でハイプレスをかけてきた。イングランドがボールを持つと、前線から激しく追いかけてきた。パスコースを素早く消して、中盤でボールを奪おうとした。
ニコラスがボールを受けるたびにDFがすぐに寄せてきた。
十七分、スペインが先制した。
ラミン・ヤマルが右サイドで受けた。縦に仕掛けた。キャッシュが対応した。ヤマルが内側へ切り込んだ。ミドルシュートを打った。
マルティネスが弾けなかった。
スタジアムが揺れた。
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ハーフタイム、ロッカールームでトゥヘルが言った。
「スペインのプレスは前半で慣れた。後半、一本目のパスを速くする。プレスが来る前にはたく。ニコラス、ケインの動きを見て逆を取れ」
「わかった」
ケインがニコラスの隣に来た。「今日はプレスが速い。受ける前に次を決めておけ」
「わかった」
「スペインのCBはラインが高い。裏を狙う場面も来る。そのときは俺じゃなくてお前が走れ」
「走る」
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後半、イングランドのテンポが上がった。
パスが速くなった。スペインのプレスが空回りし始めた。
五十九分、ライスが中盤でボールを奪った。前へ出した。
ケインがニアへ動いた。DFが二枚ついた。
ニコラスは裏へ走っていた。
ボールが来た。
GKと一対一だった。
右足で流し込んだ。
同点。
スタジアムが一瞬静まった。イングランドサポーターの声が上がった。
ニコラスは右手を上げた。
その瞬間、何かがあった。
ゴールを決めたとき、特別な感情が来るかどうかわからなかった。でも何かはあった。
言葉にしようとした。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。
「ここでプレーしている」という感覚だった。父がプレーしていた国で、自分がゴールを決めた。それだけのことだった。でもそれが、今日この場所にいる意味のような気がした。
チームメイトが集まってきた。ベリンガムが肩を叩いた。ケインが頷いた。
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七十四分、ベリンガムが逆転ゴールを決めた。
スペインのプレスの裏を突いたカウンターだった。メイヌーが奪って、サカが右へ展開して、ベリンガムがゴール前に走り込んでいた。
二対一。
スタジアムが静まった。
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スペインが攻勢に出た。
ヤマルが右から仕掛けた。ニコ・ウィリアムスが左から仕掛けた。イングランドのDFが押し込まれた。
その時間帯、ベンチではアリスターが前のめりになっていた。
スペインの中盤にペドリがいた。二十七歳になっていたが、動きは全盛期と変わらなかった。狭いスペースで受けて、ワンタッチではたいて、また受ける。相手がプレスに来る前に次のパスを出す。ボールが止まらなかった。
受ける前に決めておく。
それはブルーノを見ていれば知っていた。ユナイテッドで四年間、同じピッチに立っていた。頭ではわかっていた。
でも今日、ペドリを見て、初めて体に落ちた。
ブルーノのそれは速くて力強かった。でもペドリのそれは違った。もっと軽かった。もっと自然だった。まるでボールが自分から次の場所へ行きたがっているようだった。意識してやっているのか、体が勝手にやっているのか、境目が見えなかった。
自分が目指しているのはそっちだ、とアリスターは思った。
ブルーノのプレーは尊敬していた。でも憧れていたのはペドリの方だった。同じことをやっているのに、こんなに違う。それはスタイルの違いだった。そしてアリスター自身のスタイルは、ペドリに近かった。
「それだ」とアリスターは思った。
知っていたことと、できることの間にある距離。その距離を今日、少し測れた気がした。
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八十二分、スペインが同点にした。
コーナーキックから高い選手がヘッドで合わせた。
二対二。
延長戦へ入った。
膠着した試合だった。両チームとも足が止まりかけていた。
延長前半が終わりに近づいたとき、トゥヘルがアリスターを呼んだ。
「行け」とトゥヘルは言った。「中盤で試合を動かせ」
アリスターはピッチへ出た。
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アリスターがボールを受けた。
プレスが来た。
受ける前にすでに決めていた。
ワンタッチではたいた。
スペースが生まれた。
また受けた。また決めていた。
またはたいた。
中盤のリズムが変わった。
イングランドがボールを持てるようになった。スペインのプレスが空回りし始めた。
アリスターのパスが通るたびに、相手のブロックに少しずつ穴が生まれた。
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延長後半百十六分、ニコラスがゴールを決めた。
スペインのCBがボールを持った瞬間、ニコラスが前からプレスをかけた。CBがパスを出した。ライスが奪った。アリスターへ出した。
アリスターがワンタッチでニコラスへ縦パスを入れた。
ニコラスがDFと入れ替わった。
体を使った。フィジカルで押し切った。
シュートを打った。
ゴール。
三対二。
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試合終了、三対二。
イングランドがベスト4へ進んだ。
ピッチに倒れ込んでいる選手もいた。ケインが天を仰いでいた。ライスが両手を上げた。
ニコラスはしばらくピッチに立っていた。
カンプノウの照明が眩しかった。スペインの選手たちがピッチに座り込んでいた。イングランドのサポーターが歌っていた。
父の国だった。
今日、この国のピッチで二点取った。
言葉にできるものは多くなかった。でも言葉にしようとした。
「来た場所がわかった」とニコラスは思った。
父のリビングに飾られていた1番のユニフォーム。あの男がこの国でプレーしていた。自分はその男の息子で、今日この国でプレーした。
それだけのことだった。
でもそれが、全部だった。
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ロッカールームで、アリスターがニコラスの隣に来た。
「最後のゴール、俺のパスから入ったぞ、ニック」
「そうだな」
「嬉しくないのか」アリスターは言った。
「嬉しい」
「もっと喜べよ」アリスターは笑った。それから少し声を落とした。「でも今日、ペドリを見ていて気づいたことがあった」
「何だ」
「受ける前に決めておく。それだけで全部変わる」アリスターは言った。「今日の延長、少しだけできた」
「できていた」とニコラスは言った。「中盤のリズムが変わった」
アリスターは少し間を置いた。
「来季、ユナイテッドでそれをやる」
「やれ」
アリスターは笑った。「お前に言われると本気になるな」
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ケインがニコラスの前に来た。
「今日の三点目、良かった」とケインは言った。
「フィジカルで押し切った」
「それができるのがお前の強みだ」ケインは言った。「技術で崩せないなら体で崩す。両方できるFWは少ない」
ニコラスは少し間を置いた。
「今日、スペインでプレーして、何か感じたか、と聞かれたら」
「何だ」
「少し言葉にできた」
ケインはニコラスを見た。
「それで十分だ」




