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沈黙のストライカー  作者: ムーミンの丸焼き
2030ワールドカップ

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89/111

父の国――スペイン戦


---


七月五日、バルセロナ。カンプノウ。


準々決勝、イングランド対スペイン。


スタジアムへ向かうバスの中で、ニコラスは窓の外を見ていた。


バルセロナの街が流れていった。スペイン語の看板。石畳の道。テラスに座っている人たち。


父の国だった。


父がプレーしていた国だった。でも父がどの街でプレーしていたかは知らなかった。スペインの2部リーグだった。どの街かまでは調べなかった。


今日、この国のスタジアムでプレーする。


それだけのことだった。でも何かがあった。


---


ウォームアップ中、スタジアムの空気を感じた。


カンプノウは改修工事を終えていた。十万人近く入るスタジアムだった。スペインのサポーターで埋まっていた。赤と黄色の旗が揺れていた。


イングランドのサポーターもいた。でも圧倒的にアウェーだった。


「すごい雰囲気だな」とベリンガムが隣で言った。


「そうだな」


「ここでゴール決めたい」


「俺も」


---


スペインは予想通りだった。


4-3-3でハイプレスをかけてきた。イングランドがボールを持つと、前線から激しく追いかけてきた。パスコースを素早く消して、中盤でボールを奪おうとした。


ニコラスがボールを受けるたびにDFがすぐに寄せてきた。


十七分、スペインが先制した。


ラミン・ヤマルが右サイドで受けた。縦に仕掛けた。キャッシュが対応した。ヤマルが内側へ切り込んだ。ミドルシュートを打った。


マルティネスが弾けなかった。


スタジアムが揺れた。


---


ハーフタイム、ロッカールームでトゥヘルが言った。


「スペインのプレスは前半で慣れた。後半、一本目のパスを速くする。プレスが来る前にはたく。ニコラス、ケインの動きを見て逆を取れ」


「わかった」


ケインがニコラスの隣に来た。「今日はプレスが速い。受ける前に次を決めておけ」


「わかった」


「スペインのCBはラインが高い。裏を狙う場面も来る。そのときは俺じゃなくてお前が走れ」


「走る」


---


後半、イングランドのテンポが上がった。


パスが速くなった。スペインのプレスが空回りし始めた。


五十九分、ライスが中盤でボールを奪った。前へ出した。


ケインがニアへ動いた。DFが二枚ついた。


ニコラスは裏へ走っていた。


ボールが来た。


GKと一対一だった。


右足で流し込んだ。


同点。


スタジアムが一瞬静まった。イングランドサポーターの声が上がった。


ニコラスは右手を上げた。


その瞬間、何かがあった。


ゴールを決めたとき、特別な感情が来るかどうかわからなかった。でも何かはあった。


言葉にしようとした。


怒りではなかった。悲しみでもなかった。


「ここでプレーしている」という感覚だった。父がプレーしていた国で、自分がゴールを決めた。それだけのことだった。でもそれが、今日この場所にいる意味のような気がした。


チームメイトが集まってきた。ベリンガムが肩を叩いた。ケインが頷いた。


---


七十四分、ベリンガムが逆転ゴールを決めた。


スペインのプレスの裏を突いたカウンターだった。メイヌーが奪って、サカが右へ展開して、ベリンガムがゴール前に走り込んでいた。


二対一。


スタジアムが静まった。


---


スペインが攻勢に出た。


ヤマルが右から仕掛けた。ニコ・ウィリアムスが左から仕掛けた。イングランドのDFが押し込まれた。


その時間帯、ベンチではアリスターが前のめりになっていた。


スペインの中盤にペドリがいた。二十七歳になっていたが、動きは全盛期と変わらなかった。狭いスペースで受けて、ワンタッチではたいて、また受ける。相手がプレスに来る前に次のパスを出す。ボールが止まらなかった。


受ける前に決めておく。


それはブルーノを見ていれば知っていた。ユナイテッドで四年間、同じピッチに立っていた。頭ではわかっていた。


でも今日、ペドリを見て、初めて体に落ちた。


ブルーノのそれは速くて力強かった。でもペドリのそれは違った。もっと軽かった。もっと自然だった。まるでボールが自分から次の場所へ行きたがっているようだった。意識してやっているのか、体が勝手にやっているのか、境目が見えなかった。


自分が目指しているのはそっちだ、とアリスターは思った。


ブルーノのプレーは尊敬していた。でも憧れていたのはペドリの方だった。同じことをやっているのに、こんなに違う。それはスタイルの違いだった。そしてアリスター自身のスタイルは、ペドリに近かった。


「それだ」とアリスターは思った。


知っていたことと、できることの間にある距離。その距離を今日、少し測れた気がした。


---


八十二分、スペインが同点にした。


コーナーキックから高い選手がヘッドで合わせた。


二対二。


延長戦へ入った。


膠着した試合だった。両チームとも足が止まりかけていた。


延長前半が終わりに近づいたとき、トゥヘルがアリスターを呼んだ。


「行け」とトゥヘルは言った。「中盤で試合を動かせ」


アリスターはピッチへ出た。


---


アリスターがボールを受けた。


プレスが来た。


受ける前にすでに決めていた。


ワンタッチではたいた。


スペースが生まれた。


また受けた。また決めていた。


またはたいた。


中盤のリズムが変わった。


イングランドがボールを持てるようになった。スペインのプレスが空回りし始めた。


アリスターのパスが通るたびに、相手のブロックに少しずつ穴が生まれた。


---


延長後半百十六分、ニコラスがゴールを決めた。


スペインのCBがボールを持った瞬間、ニコラスが前からプレスをかけた。CBがパスを出した。ライスが奪った。アリスターへ出した。


アリスターがワンタッチでニコラスへ縦パスを入れた。


ニコラスがDFと入れ替わった。


体を使った。フィジカルで押し切った。


シュートを打った。


ゴール。


三対二。


---


試合終了、三対二。


イングランドがベスト4へ進んだ。


ピッチに倒れ込んでいる選手もいた。ケインが天を仰いでいた。ライスが両手を上げた。


ニコラスはしばらくピッチに立っていた。


カンプノウの照明が眩しかった。スペインの選手たちがピッチに座り込んでいた。イングランドのサポーターが歌っていた。


父の国だった。


今日、この国のピッチで二点取った。


言葉にできるものは多くなかった。でも言葉にしようとした。


「来た場所がわかった」とニコラスは思った。


父のリビングに飾られていた1番のユニフォーム。あの男がこの国でプレーしていた。自分はその男の息子で、今日この国でプレーした。


それだけのことだった。


でもそれが、全部だった。


---


ロッカールームで、アリスターがニコラスの隣に来た。


「最後のゴール、俺のパスから入ったぞ、ニック」


「そうだな」


「嬉しくないのか」アリスターは言った。


「嬉しい」


「もっと喜べよ」アリスターは笑った。それから少し声を落とした。「でも今日、ペドリを見ていて気づいたことがあった」


「何だ」


「受ける前に決めておく。それだけで全部変わる」アリスターは言った。「今日の延長、少しだけできた」


「できていた」とニコラスは言った。「中盤のリズムが変わった」


アリスターは少し間を置いた。


「来季、ユナイテッドでそれをやる」


「やれ」


アリスターは笑った。「お前に言われると本気になるな」


---


ケインがニコラスの前に来た。


「今日の三点目、良かった」とケインは言った。


「フィジカルで押し切った」


「それができるのがお前の強みだ」ケインは言った。「技術で崩せないなら体で崩す。両方できるFWは少ない」


ニコラスは少し間を置いた。


「今日、スペインでプレーして、何か感じたか、と聞かれたら」


「何だ」


「少し言葉にできた」


ケインはニコラスを見た。


「それで十分だ」

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