ゾーイ
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六月の終わり、ワールドカップ開幕の前日だった。
ゾーイがスペインへ来ていた。代理人として、開幕直前の確認事項があるからだと言った。でも実際の用件は三十分で終わった。
「せっかくだから少し話しましょう」とゾーイは言った。
ホテルのロビーだった。ゾーイがコーヒーを頼んだ。ニコラスはお茶を頼んだ。
「チェスターフィールドのカフェと同じですね」とゾーイは言った。
「そうか」
「あなたはお茶で、私はコーヒー。四年間変わっていない」
ニコラスは少し間を置いた。
「四年になるか」
「なります。二〇二六年の春に会いましたから」
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ゾーイはあのとき二十三歳だった。独立系エージェントとして動き始めたばかりで、大きなクライアントはいなかった。
「あのとき、なぜ俺に連絡してきたんだ」とニコラスは聞いた。
「データを見たからです」ゾーイは言った。「チェスターフィールドの四部リーグの数字を、私は定期的にチェックしていました。異常な数字が出たら動こうと思っていた。あなたの数字が出ました」
「それだけか」
「最初は。でも試合を三試合見て、確信しました」
「何を」
「この選手を逃したら後悔する、ということです」ゾーイは言った。「エージェントとしての話だけじゃなく。この選手の旅を、最初から見ていたいと思いました」
ニコラスはゾーイを見た。
「それは珍しい動機だ」
「そうですね」ゾーイは笑った。「でも正直な動機です」
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「一つ聞いていいか」とニコラスは言った。
「どうぞ」
「俺は扱いにくいクライアントか」
ゾーイは少し考えた。
「扱いにくい、とは少し違います」
「どう違う」
「あなたは自分が何をしたいか、何をしたくないかが明確です。広告に興味がなかった。メディア露出を増やすことに興味がなかった。移籍の話が来ても、自分のタイミングまで待った」ゾーイは言った。「それは扱いにくいのではなく、軸がある、ということです」
「でも手間はかかるだろう」
「かかります」ゾーイは笑った。「でもその手間は、意味のある手間です。あなたが嫌だと言ったことには理由があるので」
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「ゾーイは今、他にクライアントがいるか」とニコラスは聞いた。
「四人います」
「俺以外に四人か」
「合計で五人です」ゾーイは言った。「多くはありません。でも私はそれで十分だと思っています。一人一人をちゃんと見られる数にしたい」
「俺が最初のクライアントだったのか」
「そうです」
ニコラスは少し間を置いた。
「いつか聞いた気がする」
「言いましたよ、一度だけ」ゾーイは言った。「覚えていてくれたんですね」
「そうか」ニコラスは少し考えた。「でも、経験のないエージェントだとわかっても、俺はコンヤへ行っていたと思う」
「なぜですか」
「お前が一番まともなことを言っていたから」
ゾーイは少し間を置いた。それから「ありがとうございます」と言った。珍しく、少し声が低くなった。
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「ワールドカップが終わったら」とゾーイは言った。「いくつか話したいことがあります」
「移籍の話か」
「それも含めて。でも今日はしません。今日はただ話したかっただけです」
ニコラスは頷いた。
「ゾーイ」とニコラスは言った。
「何ですか」
「お前がいなかったら、今ここにいなかったと思う」
ゾーイはしばらく黙った。
「それは言いすぎです」とゾーイは言った。「あなたの才能は私とは関係ない」
「才能の話じゃない」ニコラスは言った。「最初にコンヤを選んだとき、お前が理由を説明してくれた。数字だけじゃなく、環境と俺の性格を合わせて考えた。あの選択がなければ今がない」
ゾーイはコーヒーカップを両手で包んだ。
「じゃあ、二人でここまで来た、ということにしましょう」
「そうだ」
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ゾーイが立ち上がった。
「明日、いいプレーをしてください」
「する」
「応援しています」ゾーイは言った。「代理人として、ではなく」
「わかってる」
ゾーイは頷いた。トートバッグを肩にかけた。四年前と同じバッグだった。
「そのバッグ、まだ使っているのか」とニコラスは言った。
ゾーイは少し驚いた顔をした。「気づいていたんですか」
「チェスターフィールドのカフェで持っていた」
「覚えてるんですね」ゾーイは笑った。「気に入ってるので、なかなか替えられなくて」
「替えなくていい」
ゾーイはそれを聞いて、また笑った。
「じゃあ、ワールドカップで」
「ワールドカップで」
ゾーイが出ていった。
ニコラスはお茶の残りを飲んだ。
四年間。コンヤ、ルガーノ、ヴィラ。全部ゾーイと一緒だった。
明日からワールドカップだった。
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