始まりの前
---
六月の深夜、代表合宿の部屋だった。
チームメイトたちは寝ていた。ニコラスは眠れなかった。
スマートフォンを手に持ったまま、天井を見ていた。
理由はわからなかった。でも今夜、父のことを調べようと思った。
---
検索した。
「エドゥアルド・ロメロ ゴールキーパー ラ・リーガ2部」
スペイン語のページがいくつか出てきた。古いページだった。二十年以上前のものが多かった。
一つ開いた。
選手名鑑のようなページだった。
エドゥアルド・ロメロ。1971年生まれ。ポジション:ゴールキーパー。所属チームの欄に三つクラブ名があった。全部ラ・リーガ2部だった。通算出場数が書いてあった。
百三十七試合。
ニコラスはその数字を見た。
百三十七試合。悪い数字ではなかった。プロのGKとして、十年近くプレーした計算になる。
---
別のページを探した。
映像が出てきた。
古い映像だった。画質が荒くて、ユニフォームの色も判別しにくかった。でも確かに、ゴール前に立っている男がいた。
番号は1番だった。
ニコラスはその映像を見た。
父だった。
生きていたころの、まだサッカーをしていたころの父だった。
GKが動いた。右に飛んだ。シュートを弾いた。立ち上がって、DFに短い声をかけた。
知らない男だった。
チェスターフィールドで見た父と、同じ人間だとは思えなかった。
---
もう少し調べた。
怪我の記事が出てきた。スペイン語だったが、翻訳機能で読んだ。
「ロメロ、膝靱帯断裂。復帰を目指してリハビリ継続中」
日付は2003年だった。ニコラスが生まれる前だった。
別の記事があった。
「ロメロ、現役引退を発表。膝の回復叶わず」
それだけだった。
その後の記事はなかった。
スペインにいた父の話は、そこで終わっていた。
---
ニコラスはスマートフォンを置いた。
天井を見た。
百三十七試合出場して、膝を壊して、引退した。復帰を目指してリハビリを続けたが、戻れなかった。
その後、イングランド人の女と結婚して、チェスターフィールドへ来た。仕事を転々として、酒が増えた。
そういう男だった。
ニコラスはタトゥーの入った右腕を見た。
細長い傷痕は、タトゥーの下に今もある。父のベルトの金具がつけた跡だった。
怒りはなかった。もう何年も、父への怒りは持っていなかった。
でも今夜、違うものがあった。
映像の中の父は、ゴールを守っていた。シュートを弾いて、DFに声をかけていた。あの男も、何かのためにプレーしていたはずだった。ピッチに立つことが好きだったはずだった。
それを失った。
失った後、別の生き方ができなかった。
---
もう一度映像を再生した。
父がシュートを弾く場面を、もう一度見た。
飛び方が速かった。判断が早かった。あの時代のGKにしては、動きが洗練されていた。
少しだけ、わかる気がした。
ピッチに立っていたころの父は、別の人間だったのかもしれない。
ニコラスが知っている父は、すでに終わっていた男だった。でもピッチにいた父は、まだ何かの途中だった。
---
グレースに電話しようか、と思った。
でも深夜だった。やめた。
メッセージを送った。
「父の映像を見た。GKとしては悪くなかった」
グレースからすぐ返信が来た。眠っていなかったのかもしれなかった。
「そう。昔の写真、一枚だけあるわよ。ユニフォーム着てる写真。見る?」
ニコラスは少し間を置いた。
「いつか」と返した。
「わかった。いつでも言って」
それだけだった。
ニコラスはスマートフォンを置いた。
部屋が静かだった。
父のことをもっと知りたいか、と自分に問いかけた。
わからなかった。でも今夜、百三十七試合という数字と、シュートを弾く映像を見た。
それで十分だと思った。少なくとも今は。
---
翌朝の練習、ニコラスはグラウンドへ出た。
ゴールが二つあった。
ニコラスはそのゴールを見た。
父はあの場所を守っていた。自分は反対側からあの場所を狙う。
それだけのことだった。
でも少しだけ、何かが違って見えた。
ボールを蹴った。
ゴールに向かった。
---




