最終節――シティ
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五月の最終日曜日、ヴィラパークだった。
キックオフ三時間前から、スタジアムの外に人が集まっていた。バーミンガムの空が晴れていた。
ロッカールームに入ると、誰も喋っていなかった。いつもは誰かが音楽をかけていた。今日は誰もかけていなかった。
着替える音だけがあった。
ニコラスは9番のユニフォームを着た。
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エメリーが話した。
「今日勝てば優勝だ。引き分けは優勝できない。負けは論外だ。それだけだ」
それだけだった。
戦術の話はなかった。映像もなかった。
エメリーは全員の顔を一度見て、出ていった。
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ウォームアップ中、ハーランドが向こうのハーフで走っていた。
ニコラスはその姿を一度だけ見た。
大きかった。速かった。プレミアで五年、同じ場所に立ち続けてきた選手の体だった。
ニコラスは視線を切った。
自分の体を動かした。
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キックオフ。
序盤からシティが押し込んだ。
シティはヴィラが勝ちに来ることをわかっていた。引き分けでは届かない。だから前に出てくる。その裏を使う戦略だった。
八分、ハーランドがボールを受けた。コンサが寄せた。ハーランドは止まらなかった。体でコンサを外した。シュートを打った。
マルティネスが弾いた。
ニコラスはそのプレーを見ていた。重心を外す動きが速かった。練習でも見たことがない動きだった。
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十七分、ヴィラのカウンターだった。
ロジャースがボールを持った。前にスペースがあった。ニコラスが走った。ワトキンスが逆サイドへ流れた。
ロジャースからパスが来た。
DFが来た。背中を向けた。ポストで受けた。
ワトキンスが動いた。右から左へ走り込んでいた。
DFの重心を感じた。反転した。
シュートは打たなかった。
ワトキンスへ出した。
ワトキンスが受けた。GKと一対一だった。
左に流し込んだ。
入った。
一対〇。
ヴィラパークが揺れた。七万人の音が波になった。
ワトキンスがニコラスを見た。ニコラスは頷いた。それだけだった。
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三十一分、同点にされた。
ハーランドではなかった。中盤からのミドルシュートだった。マルティネスの指先をかすめてゴールに入った。
一対一。
ヴィラパークが静かになった。
ニコラスはセンターサークルへ歩いた。
まだ六十分ある。取り返せる。
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三十八分、ハーランドがまた動いた。
右サイドでボールを受けた。パウ・トーレスが対応した。ハーランドはサイドへ流れてクロスを要求した。
クロスが入った。
ハーランドが飛んだ。
マルティネスが弾いた。
こぼれ球がエリア内に転がった。シティの選手が詰めた。
ニコラスがブロックした。
ゴールラインの手前で止まった。
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ハーフタイム、一対一だった。
エメリーが言った。
「シティは中盤を厚くしてきている。サイドが空いている。キャッシュとロジャースを使え。クロスの本数を増やす。二トップへ届ける回数を増やす」
ニコラスは頷いた。
後半、もう一点取る。それだけだった。
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後半が始まった。
五十一分、キャッシュが右サイドを上がった。クロスが入った。
ワトキンスが飛んだ。競り勝った。
ヘディングがゴールに向かった。
入った。
二対一。
ヴィラパークが揺れた。
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六十三分、ハーランドがゴールを決めた。
カウンターだった。一対一になった。ハーランドがマルティネスの逆を突いた。
二対二。
ヴィラパークが静まった。
このまま引き分けならシティが優勝だった。
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エメリーがベンチから指示を出した。前に出ろ、という合図だった。
ヴィラが前に出た。
シティも前に出た。どちらも引き分けでは届かない状況だった。オープンな試合になった。
七十一分、ニコラスがエリア内でボールを受けた。
DFが来た。
背中を向けた。
反転しようとした。
今度は反転できなかった。DFに体を押さえられた。
倒れた。
笛が鳴った。
PK。
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ヴィラパークが一瞬、静まった。
それからどよめきが来た。七万人が同時に何かを感じた音だった。
シティの選手たちが審判に詰め寄った。笛は変わらなかった。
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ニコラスはボールを受け取った。
スポットへ歩いた。十二ヤード。ゴールまでの距離を体が知っていた。
ボールを置いた。
スタジアムが静かになっていった。少しずつ、波が引くように静かになった。七万人が同時に息を止めた。
「ロメロがスポットに立ちました。このPKを決めれば三対二、ヴィラが再びリードします。プレミアリーグの優勝が、この一本にかかっています」
シティのGKがラインの中央に立った。手を広げて、ゴールを大きく見せた。
何かを言っていた。ニコラスには聞こえなかった。
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ニコラスはGKを見た。
大きかった。両手を広げるとゴールの半分が消えた。
コースを決めた。右だ。
GKが動いた。右に半歩寄った。
ニコラスはその動きを見た。
読まれているかもしれない。
でも変えない、と思った。自分が決めたコースを変えない。変えると体がぶれる。
「ロメロ、動きません。ゆっくりと助走の距離を確認しています。プレミアリーグ、残り十九分。このPK、外せません」
GKがまた動いた。今度は左に寄った。
揺さぶっていた。
ニコラスはGKを見続けた。
右だ。変えない。
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助走をつけた。
四歩。
三歩。
二歩。
GKが動き始めた。左へ飛んだ。
蹴った。
右下。低く、速く。
GKの体が左へ伸びた。
ボールが右のネットを揺らした。
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*「入ったーーー!ロメロ!ニコラス・ロメロ!PKを決めました!三対二!ヴィラが再びリード!チェスターフィールドから来た男が、プレミアリーグの頂点へヴィラを押し上げた!」*
ニコラスは走った。コーナーフラッグの方へ走った。
チームメイトが追いかけてきた。ワトキンスが最初に来た。ロジャースが来た。オナナが来た。マルティネスがゴールを離れて走ってきた。パウ・トーレスが来た。全員が来た。
押しつぶされた。
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残り十九分、シティが攻めた。
ヴィラが守った。
八十二分、シティのクロスが入った。ハーランドが飛んだ。コンサが体を張った。
弾いた。
八十七分、シティのFKだった。
壁を作った。
ミドルシュートが飛んだ。
マルティネスが両手で弾いた。
アディショナルタイム、五分だった。
ヴィラが時間を使った。ボールを回した。シティが追いかけた。
ニコラスがボールを受けた。コーナーへ運んだ。時間を使った。
笛が鳴った。
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試合終了。三対二。
ヴィラがシティに勝った。
プレミアリーグ優勝。
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笛が鳴った瞬間、ニコラスはピッチの上に立ったまま動かなかった。
まわりが動いた。ワトキンスが叫んでいた。ロジャースが飛び跳ねていた。エメリーがベンチで立ち上がっていた。
ニコラスは少し目を閉じた。
チェスターフィールドから始まった。四部リーグだった。コンヤがあった。ルガーノがあった。プレミアの一年目があった。二年目があった。
この瞬間のために来たわけじゃなかった。でもここに来た。
ワトキンスが来た。
何も言わなかった。ただ、肩を抱いた。
ニコラスは少し、その重みを受け取った。
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表彰式が始まった。
トロフィーが運ばれてきた。
マルティネスがトロフィーを持ち上げた。テープが飛んだ。
ニコラスの番が来た。
両手で持った。
カラバオのトロフィーより重かった。
プレミアのトロフィーは、違う重さがあった。
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表彰式が終わって、ピッチに選手が残っていた。
シティの選手たちが通路へ引き上げていく中、ハーランドがニコラスのそばに来た。
「おめでとう」とハーランドは言った。ノルウェー訛りの英語だった。
「ありがとう」
「今日、三十四点か」
ニコラスは少し考えた。PKの一点だった。
「そうだ」
「俺は三十五点で終わった」ハーランドは言った。「来季また競おう」
「来季も取る」とニコラスは言った。
ハーランドは少し笑った。「そうだろうな」
それだけ言って、通路へ向かった。
ニコラスはその背中を少し見た。
プレミアで五年、ゴールを取り続けてきた選手が、来季もここにいる。
自分も来季ここにいる、とニコラスは思った。少なくとも今は、そう思った。
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