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沈黙のストライカー  作者: ムーミンの丸焼き
チェスターフィールド

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7/111

覚醒


---


サッカーにおいて、フォワードに求められる資質はいくつかある。


決定力、ポジショニング、メンタル、戦術理解度、そしてフィジカル。どれか一つが飛び抜けていれば、プロとしてやっていける。二つあれば、上位のリーグでも通用する。


ニコラス・ロメロには、それが三つあった。


決定力。メンタル。そして天性のフィジカル。


問題は、その三つが十七歳の、サッカー歴一年に満たない少年の中に同居していたことだった。


---


気づいたのは、相手チームの方が先だった。


一月のホームゲーム、対戦相手のコーチは試合前のミーティングでこう言った。


「29番には二枚つけろ。体を当てれば止まる」


選手たちは頷いた。映像で見る限り、29番は確かに大きかった。しかし技術は粗く、ドリブルで崩すタイプではなかった。密着してプレッシャーをかければ、ボールを持てなくなるはずだった。


前半が終わったとき、そのコーチは静かに言い直した。


「三枚にしろ」


ハーフタイムのスコアは〇対二。どちらもニコラスのゴールだった。


一点目は右サイドからのカウンター。ボールを持ったニコラスに二人が寄せた。技術で剥がしたのではなかった。ただ、走った。百九十センチ、九十九キロの体が、信じられない速度で加速した。二人が追いつけなかった。GKと一対一になって、左に流し込んだ。


ベンチにいたテリーが隣のマッコールに言った。


「あいつ、速いよな」


「速い」


「なんであんな体格で速いんだ」


「知らん」


二点目はプレスからだった。相手のCBがGKへバックパスを出そうとした瞬間、ニコラスが動いた。コースを読んでいたのか、それとも体が先に動いたのか、本人にも分からなかった。ボールに追いついた。GKが飛び出してきた。体をぶつけた。ボールがゴールに転がり込んだ。


相手CBは試合後、首を振り続けた。


「あの距離で追いつかれるとは思わなかった」


---


二月に入ると、ニコラスの名前が少しずつ広がり始めた。


地元紙の記事が増えた。対戦相手のサポーターがSNSに書き込んだ。「チェスターフィールドの29番が強すぎる」という投稿がいくつか出回った。


ホームのサポーターたちも、少しずつ変わっていった。


最初のころ、スタジアムにはニコラスを知っている顔がいくつもあった。同じ街で育った人間たちだった。裏通りでたむろしていた少年を、用心棒まがいのことをやっていた子供を、学校にろくに来なかった問題児を、覚えている人間たちだった。


その人たちは最初、拍手をしなかった。


得点を決めても、名前を呼ばなかった。腕を組んで見ていた。あるいは視線を外した。ニコラスも気づいていた。気にしなかった。気にする必要がなかった。自分が何者だったかは、自分が一番よく知っていた。


それでも得点は積み重なった。一点、また一点。チームが勝った。また勝った。


転機になったのは、二月中旬のホームゲームだった。


後半残り十分、一対一の同点状況。ニコラスにボールが入った瞬間、スタジアムの空気が変わった。立ち上がるサポーターがいた。息を呑む声がした。


ニコラスは相手DFを背負いながら、体を回転させた。技術的に洗練された動きではなかった。ただ、力と速度と方向が一致した瞬間があって、DFが後手に回った。右足を振り抜いた。


ゴール右隅。


一瞬の静寂の後、スタジアムが弾けた。


ゲイリーがベンチから立ち上がって拳を握った。テリーが叫んだ。マッコールが隣の選手と抱き合った。


ピッチの中央で、ニコラスは立っていた。チームメイトが飛んできた。揉みくちゃにされた。スタンドから「ロメロ」という声が飛んだ。最初は一人だった。それが二人になり、十人になり、スタジアム全体に広がった。


腕を組んでいた男が、いつの間にか立ち上がっていた。視線を外していた女が、子供と一緒に手を叩いていた。


ニコラスはその声を聞いた。


何かが胸の中で動いた。うまく言葉にできない何かが。


---


初めて給料が振り込まれた日、ニコラスは街に出た。


母への仕送りをする前に、一つだけ寄りたい店があった。


商店街の外れにある小さな雑貨店だった。ウィンドウにマフラーやスカーフが並んでいた。ニコラスはガラスの前に立って、しばらく中を見た。それからドアを開けた。


碧いスカーフを探した。


いくつか手に取って、見比べた。どれが近いか、自分の目の色に。店員が声をかけてきたが、「少し待ってください」とだけ言った。


一番奥の棚に、求めているものがあった。


深い碧。海の色というより、冬の空の色に近かった。柔らかいウール素材で、手触りがよかった。値段を見た。給料の一部が消えた。それでも構わなかった。


家に帰ると、グレースは台所にいた。


ニコラスは紙袋を差し出した。グレースは不思議そうな顔で受け取って、中を開けた。


「これは?」


「スカーフだ」


グレースはしばらくそれを見ていた。色を確かめるように、指で触れた。


「きれいな色ね」


「巻いてみてくれ」


グレースはニコラスを見た。何かを言いかけて、やめた。静かに立ち上がって、鏡の前に行った。スカーフを首に巻いた。首筋の、薄く残った痕が、碧い布の下に消えた。


鏡の中のグレースは、しばらく自分を見ていた。


「似合う?」と彼女は聞いた。


「似合ってる」


グレースはもう一度スカーフに触れた。それからゆっくり振り返って、息子の顔を見た。何も言わなかった。でもその目に、ニコラスが子供のころから見慣れた、あの静かな強さとは別の何かがあった。


二人でお茶を飲んだ。グレースはスカーフを巻いたままだった。


---


三月のある練習後、ゲイリーが聞いた。


「プレスのタイミングはどうやって読んでるんだ」


ニコラスはしばらく考えた。


「相手のCBがボールを受ける前に、次にどこへ出すか大体わかります。そこへのコースに入れば、追い込める」


「どうやってわかる」


「なんとなくです」


ゲイリーは少し笑った。


「なんとなく、か」


「考えるより前に体が先に動きます」


ゲイリーは何も言わなかった。でも何かを納得したような顔をした。ニコラスはそれに気づいたが、聞かなかった。


---


四月、リーグも終盤に差し掛かったころ、チームは首位に立っていた。


得点ランキングのトップはニコラスで、四十二得点。二位との差は十七点だった。対戦チームのどこもが、ニコラスへの対策を第一に考えるようになっていた。二枚、三枚、ときには四枚のマークがついた。


それでもゴールは止まらなかった。


マークが増えるほど、スペースが生まれた。チームメイトへのパスコースが開いた。ニコラスが囮になって、他の選手が点を取ることも増えた。得点こそしないが、チームの攻撃を動かしていた。


テリーが練習中に言った。


「最近パスも出すようになったな」


「自分が決めるより、チームが勝つ方が大事なので」


テリーは少し驚いた顔をした。


「そんなこと思ってたのか」


「当然じゃないですか」


「当然じゃない選手の方が多いんだぞ、この世界は」


ニコラスは何も言わなかった。自分にパスを出さない選手が嫌いだった。だから自分は出す。それだけが当然だと思った。


---


五月、最終節。


チェスターフィールドはすでに優勝を決めていた。消化試合だった。それでもスタジアムは満員だった。シーズンの締めくくりを見届けようとするサポーターで埋まっていた。


ニコラスは四十九得点で最終節を迎えていた。


試合前、ロッカールームでゲイリーが言った。


「今日も楽しんでこい」


ニコラスは頷いた。


「一点足りてないのわかってるよな」とテリーが言った。「得点王、取れよ」


「取ります」


「頼もしいな」マッコールが笑った。「じゃあ賭けるか。前半か後半か」


「前半です」


「根拠は」


「取れる気がするので」


ロッカールームが笑いに包まれた。


---


ゴールは前半二十三分だった。


右サイドの深い位置でボールを受けて、切り返して、左足で打った。利き足ではなかったが、迷いなく振り抜いた。GKの逆を突いた。ボールがゴール左隅に吸い込まれた。


五十得点。


スタジアムが揺れた。


ニコラスはゴールの前に立って、スタンドを見た。何百という顔が自分を見ていた。叫んでいた。手を振っていた。かつて腕を組んで黙っていた顔が、今日は声を上げていた。


そしてスタンドの端に、グレースがいた。


碧いスカーフを首に巻いて、まっすぐこちらを見ていた。表情は変わらなかった。でもニコラスには、それがどんな顔よりも雄弁に見えた。


チームメイトが飛んできた。ゲイリーの大きな手が頭の上に乗った。テリーが何か叫んでいた。


ニコラスはされるがままに、スタンドの端を見ていた。


グレースはずっとそこにいた。


---


試合は三対一で終わった。


表彰式で、ニコラスは得点王のトロフィーと、リーグ優勝のメダルを受け取った。


トロフィーは思ったより重かった。


ゲイリーが隣に来た。


「どうだ」


ニコラスはトロフィーを見た。


「重いです」


「そうじゃなくて」


少し間があった。


「次が見たくなりました」


ゲイリーは笑った。


「それでいい」


空は夕方の色になっていた。チェスターフィールドのスタジアムに、サポーターの声がまだ響いていた。


ニコラスはトロフィーを持ったまま、少しだけ空を見上げた。


灰色ではなかった。


オレンジと紫が混ざった、見たことのない色をしていた。

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