帰省
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六月の中旬、アリスターからメッセージが来た。
「チェスターフィールドに帰るか?」
ニコラスはそれを見た。
試合以外でアリスターからメッセージが来たのは、初めてだった。
「帰る」と返した。
「いつ?」
「来週」
「俺も来週行く」とアリスターは言った。「マンチェスターから直接行く。バーミンガムで合流するか?」
ニコラスは少し考えた。
「そうしよう」
それだけだった。
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六月十四日、バーミンガム駅でアリスターと合流した。
アリスターはリュックを一つ持っていた。ニコラスもバッグを一つ持っていた。
「久しぶり」とアリスターが言った。試合以外で会うのは初めてだった。
「そうだな」
二人で電車に乗った。
バーミンガムからチェスターフィールドまで一時間半ほどだった。
車内でアリスターはよく喋った。オフシーズンの話、マンチェスターでのトレーニングの話、今年の代表活動の話。ニコラスは短く返した。でもその短い返しを、アリスターは拾いながら次の話題につなげた。昔からそうだった、とニコラスは思った。チェスターフィールドで初めて会ったときも、アリスターがよく喋って、ニコラスが時々合いの手を入れた。
「チェスターフィールドに帰るの、何年ぶりだ」とアリスターが聞いた。
「今年は一回帰った。母に会いに」
「俺も去年帰った。でも試合の翌日で一泊だけだった。ゆっくり帰るのは久しぶりだ」
窓の外に、イングランドの北部の景色が流れた。緑の丘と、灰色の空と、小さな街が続いた。
「あの街、俺たちには広すぎたよな」とアリスターが言った。
「チェスターフィールドか」
「そうだ。子供のころ、あの街が全部だった。でも実際は小さかった。俺はアカデミーに入ってマンチェスターに行ったとき、初めてそれがわかった。お前は最初からわかってたのかもしれないけど」
ニコラスは窓の外を見た。
「わかっていた、というより、どこへも向かっていなかった」
「同じことじゃないか」
「違う」とニコラスは言った。「お前は向かう場所を知っていた。俺は向かう場所さえなかった。それは違う」
アリスターはしばらく黙った。
「俺が声をかけなかったら、今頃どこにいたと思う」
ニコラスは少し考えた。
「チェスターフィールドにいた」
「それだけか」
「それだけだ」
アリスターはそれを聞いて、窓の外を見た。
「俺も声をかけなかったら、ただ通り過ぎていた。なんで声をかけたか、今でも正確にはわからない。ただあの体格で立っている男を見て、サッカーをやるべきだと思った。それだけだった」
「それで十分だった」
アリスターは少し笑った。「そうだな」
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チェスターフィールドに着いた。
駅を出ると、記憶の中と同じ空気がした。灰色で、少し湿っていた。
「懐かしいな」とアリスターが言った。
改札を出た瞬間、声が飛んできた。
「アリスター!」
振り返ると、中学生くらいの男の子が二人、こちらを見て固まっていた。一人がユナイテッドのユニフォームを着ていた。
「サイン……もらえますか」と一人が言った。声が震えていた。
アリスターは笑って「もちろん」と言った。ユニフォームの背中に署名した。
もう一人がニコラスを見た。少し考えてから「ロメロさんも……」と言った。
ニコラスはペンを受け取った。サインした。
二人は走って去った。振り返りながら走っていた。
「駅の改札からか」とアリスターが笑った。
「チェスターフィールドにいる間はずっとこうかもしれない」
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二人で歩いた。
街は変わっていなかった。路地の幅も、壁の色も、坂の傾斜も、記憶の中と同じだった。でも二人の体は変わっていた。アリスターはプレミアのMFになっていた。ニコラスはプレミアのFWになっていた。
五分も歩かないうちに、また声をかけられた。今度は中年の男性だった。
「ニコラス・ロメロ本人か!チェスターフィールド出身だって知らなかったよ!」
写真を撮った。
次は老夫婦だった。ヴィラのユニフォームを着た孫の代わりにサインをもらいたいという話だった。
「孫が9番のユニフォーム着てるんです。見せたら喜ぶと思って」
ニコラスはサインした。
アリスターがそれを横で見ていた。「プレミア2位、地元に帰ってきたら大変だな」
「お前も声かけられてる」
「俺は3位だからまだマシだ」
「同じだ」
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すれ違うたびに誰かが気づいた。足を止める人間がいた。スマートフォンを向ける人間がいた。声をかけてくる人間もいた。
全員に応じた。それが二人の間で言葉にしない了解だった。
「やりにくいな」とアリスターが笑った。
「俺はいつもこうだ」
「お前は昔からそうだったな。タトゥーのせいだと思ってたけど」
「体格のせいだ」
「両方だろ」
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グレースの家に寄った。
玄関先でグレースが出てきた。アリスターを見て、少し目を細くした。
「テレビで見てたわ」とグレースは言った。「ニックと仲良かった子でしょ」
「はじめまして、グレースさん。アリスターです」
「知ってる」グレースは少し笑った。「ニックから話は聞いてたわよ。サッカーに誘ってくれた子だって」
アリスターはニコラスをちらっと見た。
「話してくれてたんですね」
「自分からは絶対しゃべらないから、私が聞き出したの」グレースは言った。
「入りなさい。お茶ぐらい出すわ」
三人でテーブルを囲んだ。グレースがお茶を出した。アリスターはよく喋った。グレースも時々笑った。ニコラスはお茶を飲みながら、二人の話を聞いた。
アリスターとグレースが話しているのを見たのは、初めてだった。ニコラスをサッカーに誘った人間と、ニコラスを育てた人間が、同じテーブルにいた。
どちらも、ニコラスがここにいる理由の一部だった。
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グレースの家を出てから、ニコラスはアリスターに言った。
「行きたいところがある」
「どこ?」
「元チームメイトがやっている店だ。チェスターフィールドの」
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テリーの店に入った。
昼過ぎで、店内には数人の客がいた。奥のテーブルにチェスターフィールドFCのユニフォームを着た若い選手が一人、食事をしていた。テリーの店はそういう場所だった。現役のころのチームメイトが引退後に立ち寄ることもあった。現役の選手が練習後に寄ることもあった。チェスターフィールドのサッカーに関わる人間が自然と集まる食事処だった。
テリーはカウンターの奥にいた。ニコラスを見て顔をほころばせ、「ニック!」と声を上げた。それからアリスターに気づいた。一瞬固まった。
「あんたは……ユナイテッドの……」
「アリスター・セント・クレアです」とアリスターは言った。
「テリー・バンクスだ」テリーは少し間を置いてから、握手を求めた。
「なんでチェスターフィールドにいるんだ?」
「こいつに連れてこられました」
テリーはニコラスを見た。ニコラスは何も言わなかった。
「座れ座れ」テリーは急に元に戻った。「スコーン焼いてある。食っていけ」
三人でテーブルを囲んだ。テリーはよく喋った。アリスターもよく喋った。ニコラスはスコーンを食べながら、二人の話を聞いた。
壁を見た。ヴィラの9番のユニフォームが、額に入って飾られていた。隣に、ニコラスがゴールを決めて右手を上げている写真があった。
「飾ってくれたのか」とニコラスは言った。
「もちろんだ」テリーは胸を張った。「うちの店の名物になってるぞ」
アリスターがその写真を見た。少し笑った。でも何も言わなかった。
奥のテーブルにいたチェスターフィールドFCの若い選手が、こちらをちらちら見ていた。食事の手が止まっていた。
テリーが気づいて「来い」と手招きした。
若い選手が立ち上がって近づいてきた。二十歳前後だった。緊張した顔をしていた。
「ロメロさんですよね」と選手は言った。
「自分、今チェスターフィールドにいるんです。ロメロさんがいた頃とは時期が違うんですけど……」
「そうか」とニコラスは言った。
「あの、チェスターフィールドからプレミアに行くにはどうすればいいですか」
ニコラスは少し考えた。
「ゴールを取り続けること」
「それだけですか」
「それだけだ。取り続ければ誰かが見る」
テリーが横から口を挟んだ。
「ニックはここで一年で50点取った。それがスカウトの目に留まった。それだけだ」
「今季何点取った」とニコラスは聞いた。
「12点です。今季はそれで終わりました」
「続けろ」
選手は頷いた。「ありがとうございます」と言って、自分のテーブルに戻った。
テリーがニコラスを見た。「お前に言われたら説得力あるな」
「同じことをやればいい、というだけだ」
「同じことができるかどうかが問題なんだけどな」とテリーは笑った。
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テリーがアリスターに向き直った。「お前さんとニックは、どこで知り合ったんだ」
「この街です」アリスターは言った。「四年前、この街の路地で」
テリーは少し驚いた顔をした。「チェスターフィールドで?」
「ええ。俺がこいつをサッカーに誘ったんです」
テリーはニコラスを見た。ニコラスは頷いた。
「知らなかった」とテリーは言った。
少し考えてから、「そうか、じゃあお前がいなかったらニックもいなかったわけか」と言った。
アリスターは少し笑った。「それはどうでしょう。ニック本人が来なかったら意味ないですから」
テリーはそれを聞いて、ニコラスを見た。
「そうだな」とテリーは言った。「来る、来ないを決めたのはこいつだ」
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食事が終わりかけたころ、先ほどの選手が再び立ち上がって近づいてきた。
「あの……もう一つだけ」男はポケットからレシートを出した。
「サイン……いただけますか。紙、これしかなくて……すみません」
「構わない」
ニコラスはペンを借りてレシートにサインした。男はそれを受け取って、少し頭を下げた。
「ありがとうございます。先輩たちから話は聞いてて……毎朝一番早くグラウンドに来てたって。誰もいない時間からボール蹴ってたって」
ニコラスは少し間を置いた。
「そうしてた」
「俺も……そうしてます」と男は言った。言ってから少し恥ずかしそうな顔をした。
「すみません、変なこと言って」
「変じゃない」
男は頭を下げてテーブルに戻った。
テリーがニコラスを見た。何か言いたそうだったが、言わなかった。
アリスターは何も言わなかった。ただスコーンを食べていた。
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テリーの店を出た。
「散歩するか」とアリスターが言った。
「どこへ」
「あのグラウンド」
ニコラスはアリスターを見た。
チェスターフィールドのサッカー教室を開いたグラウンド。ニコラスが初めてボールを蹴った場所だった。
「行く」と言った。
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グラウンドは空だった。
平日の昼間で、誰もいなかった。芝は少し伸びていた。ゴールポストが二本立っていた。
二人はグラウンドに入った。
ニコラスは中央に立った。
ここで初めてボールを蹴った。十六歳だった。うまくなかった。どこへ向かうかも、何がしたいかも、何も決まっていなかった。
アリスターがボールをどこかから一個持ってきた。グラウンドの隅に置いてあったものだった。
「蹴るか」とアリスターが言った。
「蹴る」
二人は交互にシュートを打った。
何も話さなかった。ただ打った。
アリスターのシュートは精度が高かった。狙ったコースに飛んでいた。でもスピードはニコラスの方が速かった。
しばらく打って、二人は並んでゴールを見た。
「来季」とアリスターが言った。
「そうだな」とニコラスは言った。
それだけだった。
でもお互いが何を言おうとしていたかは、わかっていた。
来季また対戦する。また負けない、また来い。その繰り返しが、たぶんずっと続く。
それでいい、とニコラスは思った。
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夕方、二人は別れた。
アリスターはマンチェスターへ戻る電車に乗った。
ニコラスはグレースの家の方向へ歩いた。
チェスターフィールドの夕方の空は、灰色だった。バーミンガムとも違う、マンチェスターとも違う、この街だけの灰色だった。
でも昔より、少しだけ明るく見えた。
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