首位
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三月になった。
プレミアリーグは残り十節を切っていた。
順位表の上位三チームが、勝ち点差四の中に固まっていた。アストン・ヴィラ、マンチェスター・ユナイテッド、そしてアーセナル。どこが優勝してもおかしくなかった。逆に言えば、どこが脱落してもおかしくなかった。
ゾーイから週に一度、状況の整理が送られてきた。
「残り九節。直接対決が二試合あります。ユナイテッドとは次節アウェイ、アーセナルとは四月にアウェイです。どちらも落とせない」
ニコラスはそれを読んで、スマートフォンを置いた。
落とせない試合など、最初からなかった。今も同じだ。
ただ、空気が変わっていた。練習の密度が上がっていた。エメリーの言葉が短くなっていた。チームメイトの目が、違う種類の集中を持っていた。
これが、優勝争いだ。
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## アリスター視点
三月第二週の月曜日、アリスター・セント・クレアはトレーニンググラウンドで映像を見ていた。
ヴィラの直近五試合。ニコラス・ロメロの動きだけを追った映像を、コーチが用意していた。
見ながら、アリスターは思った。
本調子になってきた。
十一月にアンフィールドでリバプールに敗れた試合のあと、何かが変わった気がした。あの試合でニコラスは点を取れなかった。対策された。でもその後の試合から、動きの幅が広がった。マークが来ることを前提にした動き方をするようになった。
プレミア1年目の選手が、敗戦から学んで変わっている。
アリスターはそれを映像で確認して、少し笑った。
あいつはまだ成長している。
そのことが、単純に嬉しかった。ライバルだから怖い、ではなく。あいつが成長しているから、自分も成長しなければならない、という感覚だった。
「次のヴィラ戦、どう見てる」とチームメイトに聞かれた。
「勝てる」とアリスターは答えた。「でも楽じゃない」
「ロメロが怖いか」
アリスターは少し考えた。
「怖い、じゃない。楽しみだ」
チームメイトは少し呆れた顔をした。アリスターには、それが少し可笑しかった。
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## ニコラス視点
試合前日、エメリーがミーティングを開いた。
「ユナイテッドの強みは三つだ」エメリーは静かに言った。「セットプレー、トランジション、そしてセント・クレアのビルドアップだ」
ホワイトボードにユナイテッドの布陣が書かれた。
「セント・クレアはボールを受けたとき、縦への速度を上げるパスを選択する傾向がある。プレスに来た選手の逆を突く。ティーレマンスとオナナでその供給源を消す。ニコラス、お前は守備に深く戻るな。前線に残れ。カウンターの起点になる」
ニコラスは頷いた。
アリスターのビルドアップ。ヴィラホームでの対戦で何度も見ていた。パスを出す前の一瞬、目が動く。どこへ出すかを体ではなく頭で決めているアリスターは、その目の動きで次を読める。でもその読み方があまりに速いから、普通の選手には追えない。
自分も追えない。
でも今日は、守備はチームに任せる。自分は点を取る。
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試合当日、オールド・トラッフォードは満員だった。
三月の午後、空は曇っていた。七万五千人。アンフィールドとは違う密度があった。古いスタジアムの、歴史が染み込んだような圧があった。
アウェイだった。
ヴィラのユニフォームを着た選手が一角のスタンドに固まっていた。残りは全部赤だった。
アップでアリスターと目が合った。
今日はどちらも笑わなかった。
試合前の、静かな了解だった。
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試合が始まった。
前半、ユナイテッドが主導権を握った。
ホームの勢いがあった。アリスターが中盤で受けるたびにスタジアムが反応した。ティーレマンスが出た。アリスターはワンタッチで右へ逃がした。繋がった。
十七分、アリスターがFKを得た。
ペナルティエリアまで約二十七メートル。左中央寄りの位置だった。
アリスターがボールをセットした。時間をかけた。壁の位置を確認した。GKの立ち位置を見た。
蹴った瞬間、ボールに外側から回転がかかった。壁の左端を巻くように曲がる軌道。マルティネスが動いた。
ポストの内側を叩いた。
入らなかった。
スタンドがため息と感嘆の声を同時に上げた。
アリスターは額に手を当てた。マルティネスがボールを蹴り返した。
ニコラスはその場面をゴール前から見ていた。
前回の対戦よりFKの精度が上がっていた。コースも変えてきた。それでもマルティネスが反応した。二人の間に、静かな戦いが続いている。
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三十一分、ヴィラが先制した。
ティーレマンスがインターセプトした。前へ出した。ロジャーズが受けて仕掛けた。右へ流した。
ニコラスがペナルティエリアに入ったとき、DFが一枚来た。
止まらなかった。
DFの内側に体を入れた。ボールが来た。右足で合わせた。
低く、鋭く、GKの左下を抜いた。
一対〇。
アウェイ席の一角が、赤い壁の中で声を上げた。
ニコラスは右手を上げた。
アリスターの位置を確認した。ハーフウェイライン付近に立っていた。笑っていなかった。でも暗くもなかった。ただ、今日の仕事が続くという顔をしていた。
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## アリスター視点
一対〇。
ニコラスのゴールを、アリスターはハーフウェイライン付近から見ていた。
速かった。DFの内側に入る動きと、シュートまでの一連が、一つの動作として繋がっていた。考えていない。体が知っている。
映像で見ていたとおりだった。でも生で見ると、また違う。画面越しでは見えない速度があった。
アリスターは息を整えた。
前半はまだある。同点にして、ハーフタイムを迎える。それだけを考えた。
四十一分、アリスターはボールを受けた。
プレスが来ていた。でもアリスターには見えていた。右前方にスペースが生まれようとしていた。ヴィラの守備ラインが一瞬だけ前に出た。その後ろに、走り込む選手がいた。
タイミングを計った。
一歩。
パスを出した。
縦に鋭く、ラインの裏へ。
受けた選手がGKと一対一になった。
シュートを打った。
マルティネスが弾いた。
跳ね返りが来た。押し込んだ。
一対一。
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## ニコラス視点
同点になった。
ニコラスはポジションに戻りながら、そのゴールの起点を振り返った。
アリスターのパスだった。
ラインの裏への縦パス。タイミングが完璧だった。ヴィラのDFが一歩前に出た瞬間を見ていた。あの一瞬を捉えるのは、試合全体を俯瞰で見ていないとできない。
ゴールを取ることに集中しているニコラスには、ああいうパスは出せない。
違う種類の選手だ、とニコラスは思った。自分は体が先に動く。アリスターは頭が先に動く。でも両方とも、試合の中で確信を持って動いている。
前半が終わった。一対一。
ロッカールームでエメリーが言った。
「焦るな。後半四十五分ある。いつも通りやれ」
ニコラスはそれを聞いた。
いつも通り。今日のいつも通りは何だ。
ゴールを取ること。それだけだ。
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後半が始まった。
ユナイテッドが圧力を上げた。アリスターが中盤で何度も起点になった。ティーレマンスが前に出た。でもアリスターは一歩早くボールを逃がした。
六十三分、アリスターが右サイドへ展開した。クロスが来た。マルティネスが飛び出した。弾いた。
七十一分、ニコラスにチャンスが来た。
カウンター。ボールを受けた。DFが二枚来た。
右か左か。
右のDFが少し速かった。
左へ切り返した。
もう一枚が来た。
シュートコースがなかった。
ロジャーズへ出した。
ロジャーズがシュートした。GKが正面で止めた。
惜しかった。でもニコラスの判断は正しかった。コースがなければ出す。それはルガーノで学んだことだった。
七十七分、ニコラスがシュートした。GKが片手で弾いた。
何度でも来る。
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八十七分。
ティーレマンスがボールを奪った。
前へ出した。ニコラスが受けた。
DFが一枚——いや、一瞬前まで二枚だった。
もう一枚はロジャーズへ引きつけられていた。
ロジャーズが右サイドへ走っていた。DFが一枚、その動きについていった。
その分だけ、ニコラスの前のスペースが広がった。
DFが一枚。
止まった。
DFが詰めた。
その瞬間、体が低くなった。
二枚の間を、強引に抜いた。
バランスを崩しながら、左足で蹴った。
弱かった。でも低かった。GKの股下を抜けた。
入った。
二対一。
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オールド・トラッフォードが静かになった。アウェイ席の一角だけが声を上げた。
ニコラスは右手を上げた。
左足だった。ほとんど使わない左足で、バランスを崩しながら蹴った。それが入った。
なぜ入ったかは、自分でもわからなかった。ただ体が、その隙間に蹴り込んだ。
チームメイトが来た。全員が来た。
ワトキンスも来た。何も言わなかった。でも肩を叩いた。いつもの短い頷きとは違う叩き方だった。
オールド・トラッフォードで、アウェイで、残り三分で決めた。
その重さが、全員の体にあった。
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試合は二対一で終わった。
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## アリスター視点
負けた。
ロッカールームで着替えながら、アリスターは順位表を確認した。
アーセナルがその日ニューカッスルと引き分けていた。
ヴィラ、勝ち点七十五。アーセナル、勝ち点七十四。ユナイテッド、勝ち点七十一。
ヴィラが首位に立った。
残り六節。でもその差は一点だ。アーセナルには試合が一つ残っている。
厳しくなった、とアリスターは思った。でも終わっていない。
通路に出ると、ニコラスが歩いていた。
「あの八十七分、どこを見てた」とアリスターが言った。
「GKを見ていた」
「DFが来てたのに?」
「DFが詰めたから、GKが動けなかった」
アリスターはその答えを少し考えた。
「体がそう判断したのか」
「そうだと思う」
アリスターは息を吐いた。
「俺には、それができない」
ニコラスは少し間を置いた。
「お前のパス、四十一分のやつ。どう見えていた」
「ラインが上がった瞬間が見えた。だから出した」
「俺には、ああいうパスが出せない」
二人は少しの間、廊下を並んで歩いた。
「次で取り返す」とアリスターが言った。
「来い」とニコラスは言った。
先に歩いたのは、今日はアリスターだった。
背筋がまっすぐだった。負けた直後なのに、折れていなかった。
そういう人間だ、とニコラスは思った。
そういう人間と同じ時代に生まれた。
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その夜、ゾーイからメッセージが来た。
「現在首位です。アーセナルとは勝ち点一差。ただし相手には消化試合が一つ残っています。残り六節。次はアーセナルとのアウェイです」
ニコラスはそれを読んだ。
首位。
でも一試合分の猶予しかない。
次はアーセナルだ。
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