チャンピオンズリーグ――レアル・マドリード(第一戦)
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二月の第二週、チャンピオンズリーグ決勝トーナメント一回戦第一戦。
ヴィラはスペインへ向かった。
マドリード。
バスの窓から外を見た。空が青かった。バーミンガムとも、チェスターフィールドとも、コンヤとも、ルガーノとも違う青だった。乾いた空気が、窓越しでも感じられるような気がした。
スペイン。
父がいた国。どこかで、という話だ。トーレスに言われた。「ロメロという名前はスペイン中にある」。どこかに、父の血が来た場所がある。
ニコラスはそれを、旅行の感慨として考えていたわけではなかった。ただ、事実として思い出した。
窓の外のスペインの街並みが、後ろへ流れていった。
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サンティアゴ・ベルナベウ。
スタジアムに入ったとき、スケールが違った。
八万一千人。プレミアのスタジアムとは種類が違う圧があった。白い壁、白いシート、欧州最多優勝クラブの歴史が染み込んだような重さがあった。
アップでピッチに出た。
芝の匂いがした。どのスタジアムでも同じ匂いだ、とニコラスは思った。芝の匂いだけは、どこへ行っても変わらない。
スタジアムの中にスペイン語が飛び交っていた。
関係者の声、スタッフの声、選手たちが話す声。いくつもの言葉が混ざっていたが、スペイン語が一番多かった。
ニコラスは意識していなかった。でもある瞬間、その音の流れの中に何かを感じた。
音の質感だった。
父が夜、台所で独り言を言っていたときの、あの声の質感が、このスタジアムのどこかに混ざっていた。
意味はわからなかった。聞き取れもしなかった。でも音として、空気に溶けているものが、記憶の中の何かと繋がった。
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ヴィラのロッカールームで、エメリーがミーティングを開いた。
「ベルナベウでは、受け身になるな。前半から仕掛けろ。相手はここでの試合を知りすぎている。待てば待つほど相手の土俵になる」
ニコラスは頷いた。
レアル・マドリード。
映像は見ていた。ヴィニシウス、ベリンガム、モドリッチの後継者たち、そしてまだモドリッチ本人がいた。四十近い年齢でまだCLのピッチに立っていた。
でも映像より、今この瞬間、実物を見たいと思っていた。
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試合が始まった。
最初の十分で、わかった。
リバプールがCLのスイッチを入れるチームなら、レアル・マドリードはCLそのものだった。
落ち着きが違った。押されても慌てない。パスを奪われても、すぐに取り返す。攻守の切り替えが速いのに、誰も走り回っていなかった。それぞれが最小限の動きで、最大限の効果を出していた。
十七分、先制点を取られた。
ベリンガムが中盤でボールを受けた。ティーレマンスが出た。でもベリンガムはもうはたいていた。ヴィニシウスが受けた。キャッシュが対応した。
一瞬だった。
ヴィニシウスが切り返した。キャッシュが追えなかった。クロスが入った。
マルティネスが弾いた。
でも二次攻撃が来た。ニアサイドに叩き込まれた。
〇対一。
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ヴィラは攻めた。
ロジャーズが仕掛けた。ニコラスがエリアに入った。でもレアルの守備は崩れなかった。マークがはっきりしていた。ニコラスが動くたびに、CB二枚のうち一枚が必ずついてきた。
単純に速かった。ニコラスが動き出す前に、ポジションを先に修正していた。
考えて守っている、とニコラスは思った。
自分の体が先に動くように、あの守備陣は頭が先に動いている。
三十一分、ニコラスにボールが来た。
エリアの外だった。DFが一枚。距離があった。
シュートを打った。
GKが正面で止めた。
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三十八分、またやられた。
今度はセットプレーだった。CKからヘッドで合わせられた。マルティネスが反応したが届かなかった。
〇対二。
ベルナベウが揺れた。八万人の白い波が、スタジアムを包んだ。
ニコラスはポジションに戻りながら、その音を体で受けた。
消えない。この音は消えない。
でも試合は続く。
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ハーフタイム。エメリーが言った。声が落ち着いていた。
「二点差だ。でも第二戦がある。今日、一点でも取って帰る。その一点が、ヴィラパークで全部を変える」
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後半が始まった。
ヴィラが押し込んだ。ティーレマンスが縦に速いボールを入れた。ロジャーズが仕掛けた。ニコラスがエリアに入り続けた。
六十一分、コーナーキックが来た。
オナナが頭で落とした。
ニコラスがいた。
右足で合わせた。
ファーポストの内側に入った。
一対二。
ベルナベウが少し静かになった。
ニコラスは右手を上げた。
スタジアムの中にスペイン語が響いていた。観客の声、ため息、次の動きを準備する声。
その中に立っていた。
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七十三分、レアルがカウンターに出た。
ヴィニシウスが受けた。スペースがあった。誰も追いつけなかった。
マルティネスと一対一になった。
マルティネスが飛び出した。
ヴィニシウスが浮かせた。
入った。
一対三。
試合が終わりに近づいていた。
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それでもニコラスは走り続けた。
八十一分にシュートを打った。GKが弾いた。
八十七分にヘッドで合わせた。バーに当たった。
入らなかった。
試合は一対三で終わった。
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ロッカールームは静かだった。
三点差。第二戦でヴィラパークで三点取って、一点もやらなければ勝てる。
現実的ではないと、誰もが思っていた。でも誰も口に出さなかった。
エメリーが言った。「まだ終わっていない。ヴィラパークで戦う。それだけを考えろ」
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ホテルに戻った夜、ニコラスはベッドの上で天井を見ていた。
一点取った。でも三点取られた。
ベルナベウ。スペイン語が飛び交うスタジアム。父がいたかもしれない国の、一番大きなスタジアムで、ニコラスは今日戦った。
父がゴールを守っていた国。膝が壊れる前に、1番のユニフォームを着てゴールの前に立っていた国。
今日、その国のピッチに立って、ゴールを決めた。
それが何かを意味するのかどうか、ニコラスにはわからなかった。
意味を求めているわけでもなかった。
ただ、今日のスタジアムの音の中に、父の声の質感があった。それだけが、静かに残っていた。
トーレスが「いつかわかるかもしれない」と言った。父がスペインのどこから来たのかを。
いつか、わかるかもしれない。
でも今夜は、眠る。
明日バーミンガムに帰る。
ヴィラパークで、また戦う。
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