約束
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十二月の第二週、ヴィラパークでのホームゲームの前日、ニコラスはグレースに電話した。
「明日、来られるか」
「明日?」グレースは少し間を置いた。「急ね」
「チケットは取ってある。前から」
「前から」
「ルガーノで別れたとき、約束した」
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。
「覚えてたの」とグレースは言った。声が少し変わった。
「覚えていた」
「チェスターフィールドからバーミンガムまで、電車で二時間くらいかしら」
「調べておく」
「あなたが調べるの」グレースは笑った。「いいわ。行く」
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翌朝、ニコラスは経路を調べてグレースに送った。
乗り換えが一回。到着時刻、集合場所、スタジアムへの道順。
グレースから返信が来た。
「ありがとう。碧いスカーフ、持っていく」
ニコラスはそれを読んだ。
碧いスカーフ。チェスターフィールドで見送られた日も、ルガーノに来たときも、あのスカーフがあった。バーミンガムでも同じものを持ってくる。
それだけで、十分だと思った。
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試合前、スタジアムの外でグレースと会った。
コートのボタンを全部留めていた。首に碧いスカーフを巻いていた。いつもと同じ格好だった。
「大きいわね」とグレースは言った。スタジアムを見上げながら。
「七万人入る」
「七万人」グレースはもう一度見上げた。「チェスターフィールドのグラウンドは何人入ったかしら」
「数えたことがない」
「少なかったわよね」グレースは笑った。「雨の日に泥だらけになりながら練習してたのを覚えてる」
ニコラスは何も言わなかった。
グレースがスタジアムをもう一度見た。
「遠くまで来たわね」
それだけを言った。感慨でも大げさでもなく、ただそう思ったから言ったという口調だった。
ニコラスは「ああ」と短く答えた。
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席に案内してから、ニコラスはロッカールームへ戻った。
スタンドのどこかに碧いスカーフがある。それだけを、頭の片隅に置いておいた。
エメリーがミーティングを始めた。相手チームの守備の形、セットプレーの確認、今日の役割。ニコラスは聞きながら、頭の中で動きをなぞった。
準備が整っていた。
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試合が始まった。
前半、ヴィラがボールを握った。ティーレマンスが中盤で捌いて、ロジャーズが動いて、サンチョが右で仕掛けた。ニコラスはペナルティエリアの中でタイミングを計った。
二十八分、サンチョがクロスを上げた。
ニコラスは走った。DFの前に入った。
ヘッドで合わせた。
枠の上を越えた。
惜しかった、とスタンドがため息をついた。ニコラスは振り返らずにポジションに戻った。
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三十九分、ティーレマンスからパスが来た。
ペナルティエリア手前。ターンした。DFが一枚来た。
ニコラスは背中を向けて受けた。体を使って守った。落とした。ロジャーズがシュートした。
GKが弾いた。
こぼれ球が来た。
右足で押し込んだ。
入った。
スタジアムが揺れた。
七万人の声が、波になってピッチに落ちてきた。ルガーノとは重さが違う。コンヤとも違う。この音は、ヴィラパークの音だった。
ニコラスは右手を高く上げた。
スタンドを見た。
碧いスカーフを、見つけた。
遠かった。でも見えた。グレースが立って、両手を前に出して、声を出していた。声は聞こえない。でも口が動いているのがわかった。何を言っているのかは、わからなかった。
ニコラスは手を下ろした。
チームメイトが来た。ロジャーズが来た。マクギンが肩を叩いた。
ニコラスは短く頷いた。
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試合は二対〇で終わった。
二点目はロジャーズが取った。ニコラスのポストプレーから繋がった形だった。
最後のホイッスルが鳴ったとき、ニコラスはもう一度スタンドを見た。
碧いスカーフはまだそこにあった。
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試合後、スタジアムの外でグレースと待ち合わせた。
人の流れが落ち着いたころ、グレースが来た。
頬が少し赤かった。寒さのせいか、興奮のせいか、わからなかった。
「よかった」とグレースは言った。
「二対〇だった」
「それはわかってる」グレースは笑った。「そうじゃなくて。全部よかった。音も、空気も、あなたがあそこに立っているのも」
ニコラスは何も言わなかった。
グレースはスカーフを少し直した。碧いウールが冬の夜の光を受けた。
「お父さんも、どこかで見てたと思う」
グレースは静かに言った。責めているのでも慰めているのでもなく、ただそう思ったから口に出したという言い方だった。
ニコラスは答えなかった。
否定もしなかった。
少し間があった。夜の冷たい空気が、二人の間にあった。
「寒いな」とニコラスは言った。
「そうね」グレースは頷いた。「どこかで温かいものでも飲みましょう」
「知っている店がある」
「あなたがバーミンガムで行きつけの店を作ったの」グレースはまた笑った。「それはすごい」
「ゾーイが教えてくれた」
「なんでもゾーイさんね」
二人で歩き始めた。
グレースの碧いスカーフが、夜の人混みの中で揺れた。
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店に入って、温かい飲み物を頼んだ。
向かい合って座った。
グレースがカップを両手で包んだ。その仕草は、ニコラスが子供のころと何も変わっていなかった。
「チェスターフィールドでは元気か」
「元気よ。テリーの奥さんが、あなたのユニフォームを買ったって」
「9番のか」
「9番の。飾るんですって」グレースは笑った。「街のみんなが応援してるわよ」
ニコラスはカップを持った。温かかった。
「プレミアのスタジアムに連れて来いって、ルガーノで言っただろう」
「言ったわ」
「来た」
「来たわね」グレースは頷いた。「約束、ちゃんと覚えてたのね」
「覚えていた」
グレースはしばらくカップを見ていた。それから顔を上げた。
「ニック」
「何だ」
「……ありがとう」
声が少し掠れていた。ルガーノで「ありがとう」と言ったときと、同じ声だった。
ニコラスは何も言わなかった。
「ありがとう」と言われたとき、返す言葉を持っていなかった。子供のころからそうだった。でも返さなくていいと、今は知っていた。グレースはそれでわかっている。
二人でしばらく、黙って温かいものを飲んだ。
バーミンガムの夜が、窓の外を流れていた。
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グレースをバーミンガムの駅まで送った。
改札の前で別れた。
「また来るわよ」とグレースは言った。
「来い」
「チケット、また取っておいてよ」
「取る」
グレースは改札に向かった。三歩ほど行って、振り返った。
「お父さんのこと、ゆっくり思い出していいからね」
それだけ言って、前を向いた。
碧いスカーフが改札の向こうに消えた。
ニコラスは少しの間、そこに立っていた。
「ゆっくり思い出していい」という言葉が、どこかに引っかかった。
思い出したいのかどうかも、まだわからなかった。
でもグレースはそれを言った。急かさなかった。ただ置いていった。
ニコラスは外に出た。
夜のバーミンガムは、いつもと同じ灰色だった。
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