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沈黙のストライカー  作者: ムーミンの丸焼き
アストン・ヴィラ1年目

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36/109

約束



-----


十二月の第二週、ヴィラパークでのホームゲームの前日、ニコラスはグレースに電話した。


「明日、来られるか」


「明日?」グレースは少し間を置いた。「急ね」


「チケットは取ってある。前から」


「前から」


「ルガーノで別れたとき、約束した」


電話の向こうで、しばらく沈黙があった。


「覚えてたの」とグレースは言った。声が少し変わった。


「覚えていた」


「チェスターフィールドからバーミンガムまで、電車で二時間くらいかしら」


「調べておく」


「あなたが調べるの」グレースは笑った。「いいわ。行く」


-----


翌朝、ニコラスは経路を調べてグレースに送った。


乗り換えが一回。到着時刻、集合場所、スタジアムへの道順。


グレースから返信が来た。


「ありがとう。碧いスカーフ、持っていく」


ニコラスはそれを読んだ。


碧いスカーフ。チェスターフィールドで見送られた日も、ルガーノに来たときも、あのスカーフがあった。バーミンガムでも同じものを持ってくる。


それだけで、十分だと思った。


-----


試合前、スタジアムの外でグレースと会った。


コートのボタンを全部留めていた。首に碧いスカーフを巻いていた。いつもと同じ格好だった。


「大きいわね」とグレースは言った。スタジアムを見上げながら。


「七万人入る」


「七万人」グレースはもう一度見上げた。「チェスターフィールドのグラウンドは何人入ったかしら」


「数えたことがない」


「少なかったわよね」グレースは笑った。「雨の日に泥だらけになりながら練習してたのを覚えてる」


ニコラスは何も言わなかった。


グレースがスタジアムをもう一度見た。


「遠くまで来たわね」


それだけを言った。感慨でも大げさでもなく、ただそう思ったから言ったという口調だった。


ニコラスは「ああ」と短く答えた。


-----


席に案内してから、ニコラスはロッカールームへ戻った。


スタンドのどこかに碧いスカーフがある。それだけを、頭の片隅に置いておいた。


エメリーがミーティングを始めた。相手チームの守備の形、セットプレーの確認、今日の役割。ニコラスは聞きながら、頭の中で動きをなぞった。


準備が整っていた。


-----


試合が始まった。


前半、ヴィラがボールを握った。ティーレマンスが中盤で捌いて、ロジャーズが動いて、サンチョが右で仕掛けた。ニコラスはペナルティエリアの中でタイミングを計った。


二十八分、サンチョがクロスを上げた。


ニコラスは走った。DFの前に入った。


ヘッドで合わせた。


枠の上を越えた。


惜しかった、とスタンドがため息をついた。ニコラスは振り返らずにポジションに戻った。


-----


三十九分、ティーレマンスからパスが来た。


ペナルティエリア手前。ターンした。DFが一枚来た。


ニコラスは背中を向けて受けた。体を使って守った。落とした。ロジャーズがシュートした。


GKが弾いた。


こぼれ球が来た。


右足で押し込んだ。


入った。


スタジアムが揺れた。


七万人の声が、波になってピッチに落ちてきた。ルガーノとは重さが違う。コンヤとも違う。この音は、ヴィラパークの音だった。


ニコラスは右手を高く上げた。


スタンドを見た。


碧いスカーフを、見つけた。


遠かった。でも見えた。グレースが立って、両手を前に出して、声を出していた。声は聞こえない。でも口が動いているのがわかった。何を言っているのかは、わからなかった。


ニコラスは手を下ろした。


チームメイトが来た。ロジャーズが来た。マクギンが肩を叩いた。


ニコラスは短く頷いた。


-----


試合は二対〇で終わった。


二点目はロジャーズが取った。ニコラスのポストプレーから繋がった形だった。


最後のホイッスルが鳴ったとき、ニコラスはもう一度スタンドを見た。


碧いスカーフはまだそこにあった。


-----


試合後、スタジアムの外でグレースと待ち合わせた。


人の流れが落ち着いたころ、グレースが来た。


頬が少し赤かった。寒さのせいか、興奮のせいか、わからなかった。


「よかった」とグレースは言った。


「二対〇だった」


「それはわかってる」グレースは笑った。「そうじゃなくて。全部よかった。音も、空気も、あなたがあそこに立っているのも」


ニコラスは何も言わなかった。


グレースはスカーフを少し直した。碧いウールが冬の夜の光を受けた。


「お父さんも、どこかで見てたと思う」


グレースは静かに言った。責めているのでも慰めているのでもなく、ただそう思ったから口に出したという言い方だった。


ニコラスは答えなかった。


否定もしなかった。


少し間があった。夜の冷たい空気が、二人の間にあった。


「寒いな」とニコラスは言った。


「そうね」グレースは頷いた。「どこかで温かいものでも飲みましょう」


「知っている店がある」


「あなたがバーミンガムで行きつけの店を作ったの」グレースはまた笑った。「それはすごい」


「ゾーイが教えてくれた」


「なんでもゾーイさんね」


二人で歩き始めた。


グレースの碧いスカーフが、夜の人混みの中で揺れた。


-----


店に入って、温かい飲み物を頼んだ。


向かい合って座った。


グレースがカップを両手で包んだ。その仕草は、ニコラスが子供のころと何も変わっていなかった。


「チェスターフィールドでは元気か」


「元気よ。テリーの奥さんが、あなたのユニフォームを買ったって」


「9番のか」


「9番の。飾るんですって」グレースは笑った。「街のみんなが応援してるわよ」


ニコラスはカップを持った。温かかった。


「プレミアのスタジアムに連れて来いって、ルガーノで言っただろう」


「言ったわ」


「来た」


「来たわね」グレースは頷いた。「約束、ちゃんと覚えてたのね」


「覚えていた」


グレースはしばらくカップを見ていた。それから顔を上げた。


「ニック」


「何だ」


「……ありがとう」


声が少し掠れていた。ルガーノで「ありがとう」と言ったときと、同じ声だった。


ニコラスは何も言わなかった。


「ありがとう」と言われたとき、返す言葉を持っていなかった。子供のころからそうだった。でも返さなくていいと、今は知っていた。グレースはそれでわかっている。


二人でしばらく、黙って温かいものを飲んだ。


バーミンガムの夜が、窓の外を流れていた。


-----


グレースをバーミンガムの駅まで送った。


改札の前で別れた。


「また来るわよ」とグレースは言った。


「来い」


「チケット、また取っておいてよ」


「取る」


グレースは改札に向かった。三歩ほど行って、振り返った。


「お父さんのこと、ゆっくり思い出していいからね」


それだけ言って、前を向いた。


碧いスカーフが改札の向こうに消えた。


ニコラスは少しの間、そこに立っていた。


「ゆっくり思い出していい」という言葉が、どこかに引っかかった。


思い出したいのかどうかも、まだわからなかった。


でもグレースはそれを言った。急かさなかった。ただ置いていった。


ニコラスは外に出た。


夜のバーミンガムは、いつもと同じ灰色だった。


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