29番
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その夜、ニコラスは母に話した。
台所のテーブルを挟んで向かい合い、お茶を飲みながら、今日アリスターに会ったこと、サッカー教室に行ったこと、ボールを蹴ったことを、短く話した。グレースは黙って聞いていた。カップを両手で包んで、息子の顔を見ていた。
「やってみたいの?」と彼女は聞いた。
ニコラスはしばらく答えなかった。
やってみたいという気持ちが何なのか、うまく言葉にできなかった。あの瞬間のことを何度か思い返した。ボールがゴールに突き刺さった瞬間の、足の先に残った感触。何かが体の中で一直線になったような、あの感覚。
「分からない」と正直に言った。
グレースは少し微笑んだ。
「分からないけどやってみたいんでしょう」
ニコラスは何も言わなかった。それが答えだった。
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チェスターフィールドユースの体験練習は、翌週の土曜日だった。
アリスターが話をつけてくれた。コーチに一本電話を入れただけで、話はあっさり決まった。マンチェスターユナイテッドの期待の星が口をきいたという事実が、それだけの効力を持っていた。ニコラスはそれが少し気に入らなかったが、黙っていた。
グラウンドに着くと、同い年の少年たちが十数人いた。
全員がニコラスを見た。当然だった。半頭分飛び出た身長と、Tシャツの袖から覗くタトゥーと、どこか冷めた目をした十六歳など、そうそういない。ひそひそ声が聞こえた。気にしなかった。裏通りで働きだしてからずっとそういう目で見られてきた。
コーチは五十代の男で、腹が出ていたが目は鋭かった。
「サッカーは初めてか」
「はい」
「ポジションの希望は」
「前」
コーチは少し間を置いた。
「理由は」
「ゴールを決めたいから」
また間があった。コーチはニコラスの体を上から下まで見て、それからグラウンドに視線を移した。
「走れ」
それだけ言った。
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走ることは苦ではなかった。
子供のころから脚力はあった。裏通りの仕事で体を鍛え続けてきた。体力という点では、同年代の誰にも負けなかった。しかしボールが絡んだ瞬間に、ニコラスは自分の無知を思い知った。
トラップがうまくいかない。ボールが足から離れる。視野が狭い。どこにパスを出せばいいかわからない。フォワードとしての動き方、ポジショニング、オフサイドのルールさえ、最初はあやふやだった。
練習の中でパスを受けるたびに、一瞬だけ止まってしまう自分がいた。考えてから動く。その一瞬が、サッカーでは致命的だとすぐにわかった。
チームメイトは親切だった。でもニコラスには、その親切が重かった。
「ニコラス、そこはこう動くんだ」
「ここでボールを受けて、すぐ出す」
教わるたびに頷いた。でも内側では、別のことを考えていた。こいつらはサッカーを十年はやっている。自分はまだ一週間だ。同じ土俵で考えること自体がおかしい。問題は技術じゃない。時間だ。
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入団が決まったのは体験練習から三日後だった。
コーチから電話がかかってきた。「来週から来い」それだけだった。理由も、評価も、何も言わなかった。ニコラスも何も聞かなかった。
グレースに伝えると、彼女は台所で手を止めて、しばらく黙っていた。
「ユニフォーム、買わないとね」と彼女は言った。
「金は俺が出す」
「いいから」
それ以上言わせなかった。グレースはエプロンで手を拭いて、また料理に戻った。その背中が少し、いつもより柔らかく見えた。
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ニコラスが最初にやったことは、誰よりも早くグラウンドに来ることだった。
練習開始の二時間前。夜明け前の空がまだ紺色のうちに家を出て、誰もいないグラウンドにボールを一個持ち込んだ。そこで一人でひたすら蹴った。トラップして蹴る。トラップして蹴る。同じ動作を何百回も繰り返した。
うまくいかなかった。
足首の角度が少しずれるだけで、ボールが予想外の方向に飛んだ。どうすれば思い通りに飛ぶのか、理屈ではなく体で覚えるしかなかった。何度やってもうまくいかない日が続いた。それでも毎朝来た。来ない理由がなかった。
練習が終わったあとも残った。コーチが帰っても、チームメイトが帰っても、残ってボールを蹴り続けた。街灯がつく頃になってようやく帰った。
グレースはいつも夕食を用意して待っていた。
何も聞かなかった。ただ温かいものを出してくれた。ニコラスも何も言わず、ただ食べた。
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一ヶ月が過ぎたころ、何かが変わり始めた。
トラップが安定してきた。ボールが足に馴染んでくる感覚が、少しずつわかってきた。視野が広がった。パスコースが見えるようになってきた。
技術はまだ粗かった。アリスターのような華麗さとは程遠かった。でもニコラスには別の何かがあった。ゴールへの嗅覚、とコーチは後に言った。どんな体勢からでも、どんな角度からでも、ゴールだけは見えていた。体が自然にそちらへ向いた。
試合形式の練習で、初めてゴールを決めた日のことを覚えている。
混戦の中でボールが転がってきて、反射的に右足を振った。考える前に体が動いていた。ボールがネットを揺らした。チームメイトが飛びついてきた。背中を叩かれた。
ニコラスは笑わなかった。
ただ、もう一回決めたいと、強く思った。
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三ヶ月が経ち、半年が経った。
ニコラスはチームの中心になっていた。得点を量産した。フィジカルの強さと、ゴールへの直線的な意志が、相手の守備を何度も切り裂いた。技術的な洗練さはまだなかった。でも止められなかった。
コーチに呼ばれたのは、冬の終わりだった。
「お前をトップチームに推薦する」
ニコラスは少し間を置いた。
「何部ですか」
「四部だ」
また間があった。
「わかりました」
「嬉しくないのか」
ニコラスはコーチを見た。
「嬉しいです。でも、まだ全然うまくないので」
コーチは笑った。珍しいことだった。
「うまくなるのはプロになってからでいい。お前には時間がない。上に行きながら覚えろ」
ニコラスは頷いた。
家に帰って、グレースにそれを伝えた。彼女はしばらく黙っていた。それからスコーンを焼き始めた。小麦粉とバターの匂いが台所に広がった。
「おめでとう」と彼女は言った。
声が掠れていた。
ニコラスはテーブルに座って、その匂いを吸い込んだ。窓の外は暗くて、チェスターフィールドの街灯がぼんやりと光っていた。
プロになる。
その言葉の重さを、ゆっくりと確かめた。
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ユニフォームの背番号は、29番だった。
特に意味はなかった。空いていた番号がそれだっただけだ。でもニコラスはそれを見て、何も言わずにユニフォームをたたんだ。
次の日の朝、また誰よりも早くグラウンドに来た。
空はまだ暗かった。




