アリスター
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## アリスター視点
試合前日、アリスター・セント・クレアはホテルの窓からバーミンガムの街を見ていた。
何度か来たことがある街だった。ヴィラパークも知っていた。でも今日は違う重さがあった。
明日の対戦相手のスタメンを、スマートフォンで確認した。見るまでもなかった。ニコラス・ロメロ、9番。すでにリーグで数ゴールを挙げていた。プレミア1年目にしては堅実なペースだ、とメディアは書いた。アリスターはその評価が少し面白かった。「堅実」という言葉が、あの男に合うとは思えなかった。まだ本調子ではないのだろう、とアリスターは思っていた。
ニックが本調子になったとき、どうなるかを、アリスターだけが知っていた。
チェスターフィールドのグラウンドで、初めてボールを蹴った男の目を。ゴールを外したときに、怒りでも悔しさでもなく、ただ次の情報を求めるように枠を見ていた、あの碧い目を。
あれを「堅実」とは呼ばない。
眠れなかった。でもそれは明日の試合のせいではなかった。
「待ってる」とあのとき言った。ルガーノを去る前のニコラスに。
明日、その言葉の意味が試される。
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## ニコラス視点
試合当日の朝、ニコラスはいつも通り四時に目が覚めた。
ヴィラパークのロッカールームへ向かうバスの中、窓の外を見ていた。アリスターが来る。それだけを、淡々と考えていた。
マンチェスター・ユナイテッド。アリスター・セント・クレアはそこにいる。
「アリスターと同じ舞台に立ちたい」と、コンヤにいたころゾーイに言った。それが今日、実現する。
感慨はなかった。
ただ、試合が来る。それだけだった。
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## アリスター視点
スタジアムに入ると、バーミンガムのサポーターが出迎えた。ユナイテッドのアウェイカラーを着たファンたちが、ゴール裏の一角に固まっていた。残りのスタンドは全部クラレットと青だった。
アップでピッチに出たとき、アリスターはニコラスを探した。
すぐ見つかった。体が大きいから。それとも、どこにいても目に入るから。
ニコラスはアリスターを見ていなかった。ただ一人でボールを受けて、シュートの角度を確認していた。GKと一対一でやりとりしながら、コースを変えて、また変えて、黙々と続けていた。
アリスターはそれを少し見た。
大きくなった。体だけでなく、動きの精度が。コンヤのときの映像を見ていた。ルガーノのときも見ていた。でも生で見ると、また違う。ペナルティエリアの中に入ったとき、もう次の動作が始まっている。ボールが来る前に、体が答えを知っている。
アップが終わりかけたとき、ニコラスが顔を上げた。
目が合った。
アリスターは笑った。
ニコラスは笑わなかった。でも視線をそらさなかった。一秒か二秒、ただアリスターを見た。それから視線を切って、次のシュートに戻った。
アリスターは笑いながら、引き揚げた。
あいつは何も変わっていない、と思った。そして何もかもが変わっている、とも思った。
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## 試合
開始のホイッスルが鳴った。
七万人の声が圧縮されてピッチに落ちてきた。
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十三分。
アリスターがボールを受けた。中盤の右寄りで、スペースがあった。
ユナイテッドのビルドアップは速かった。パスを繋いで、一手二手で前を向く。アリスターの役割は受けて捌くだけでなく、受けてから自分で持ち込む判断も含まれていた。
ワンタッチでターンした。
ティーレマンスが来た。
大きくはなかった。でも間合いの詰め方が速かった。ボールを取りに来るのではなく、パスコースを消しながら近づいてくる。アリスターはその動き方を一瞬で読んで、逆サイドへはたいた。
繋がった。
アリスターは走った。リターンを呼んだ。来なかった。別のコースに出た。
流れが変わった。
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二十二分、アリスターがFKを得た。
ペナルティエリアまで約二十五メートル。少し右寄りの位置だった。
ユナイテッドの選手が壁の前で立ち位置を確認している間、アリスターはボールをセットしながらゴールを見た。マルティネスの立ち位置、壁の高さ、風の向き。一秒もかけずに処理した。
助走は短かった。
蹴った瞬間、ボールに縦回転がかかった。壁の右端を越えて、そのまま落ちてくる軌道。マルティネスが動いた。右手が伸びた。
指先に当たった。
わずかにコースが変わって、ポストの外側を叩いた。
スタンドがため息をついた。アリスターは額に手を当てた。
惜しい、では足りない精度だった。マルティネスの反応が一枚上だったというだけで、コースも高さも、あれ以上のものは蹴れない。
ニコラスがゴール前からゆっくり戻ってくる姿が見えた。アリスターのFKを見ていたはずだが、何も言わなかった。顔にも何も出ていなかった。
ただ次の準備をしていた。
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アリスターから見たニコラスは、ピッチの中でほとんど喋らなかった。
コーチングもしない。声もあまり出ない。でも動き続けていた。止まっている時間がなかった。常にどこかへ動いていて、それが全部意味を持っていた。無駄な動きがない。フェイクもない。ただ、スペースが生まれると信じているところへ、信じたまま走っていた。
ユナイテッドのDF陣が引っ張られているのを、アリスターは中盤から見ていた。
あいつが走るだけで、人が動く。
その動きが見えているから、アリスターはパスを出せた。ニコラスが次にどこへ動くかを一手先に読んで、そこへ通す。五十分、アリスターが逆サイドへ対角線のパスを出した。受け手はユナイテッドの選手だったが、そのパスはニコラスのマークを一枚剥がすために出した。意図した通りに動いた。
サッカーは予測のゲームだ、とアリスターは思っていた。相手が次に何をするかを読んで、それより先に動く。ニコラスの動きを読むのは難しくなかった。なぜなら、あの男は読まれることを気にしていないからだ。予測されても、それでも到達できると体が確信している。その確信が、むしろ守備側を迷わせる。
チェスターフィールドのグラウンドで、ゴールを外してもただ次を見ていたあの目が、今は七万人のスタジアムに通っていた。
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三十一分。
ニコラスがペナルティエリアに入った。
ユナイテッドのCBがついていった。マークがはっきりしていた。
でもニコラスは止まった。
マークが一歩詰めた。
その瞬間、ニコラスが反転した。背後へ。マークの体の外側へ。
サンチョのクロスが来た。
右足でミートした。
強くはなかった。でも低かった。GKの手の下をくぐった。
ゴールネットが揺れた。
七万人が、また揺れた。
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## ニコラス視点
ゴールを決めた瞬間、ニコラスは右手を高く上げた。
スタンドを見なかった。
アリスターを見なかった。
ただゴールを見た。入った場所を確認した。次はどうするかを、もう考えていた。
チームメイトが来た。ロジャーズ、サンチョ、マクギン。
ニコラスは短く頷いた。
ゴールという事実は受け取った。試合はまだ続いている。
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## アリスター視点
ニコラスのゴールを、アリスターはハーフウェイライン付近から見ていた。
入った瞬間、アリスターは思わず息を吐いた。
笑いたかった。なぜかはわからない。ゴールを取られたのに。でも笑いたかった。
あの男が、プレミアリーグのピッチで、こうして右手を上げている。
チェスターフィールドで初めてボールを渡した日から、ここまで来た。
「ここにいるな、ニック」と心の中で言った。声には出さなかった。
気持ちを切った。まだ試合は続いている。
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後半、六十二分。
ユナイテッドが押し込んだ。
アリスターが右に流れた。キャッシュが対応した。アリスターはキャッシュの立ち位置を見て、内側へ切り返した。スペースがあった。
シュートを打った。
マルティネスが横っ飛びで弾いた。
コーナーになった。
アリスターは額に手を当てた。枠には入った。でも弾かれた。
コーナーから流れて、ユナイテッドが繋いだ。アリスターがエリア手前で受けた。
今度は迷わなかった。
左足で巻いた。
マルティネスの右手が届いた。
また弾かれた。
アリスターは正直に思った。このGK、おかしい。
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七十八分。
ユナイテッドが右サイドを崩した。クロスが上がった。
ファーサイドで合わせた。
一対一になった。
スコアは一対一になった。
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## ニコラス視点
同点になった瞬間、ニコラスはピッチ中央に戻りながら、スコアボードを確認した。
一対一。
エメリーがサイドラインで何かを指示していた。ティーレマンスが声を出した。マクギンが引き締めろという顔をした。
ニコラスはもう一点取る、とだけ考えた。
感情ではなかった。ただ、そうするべきだという確信だった。
残り十二分、ニコラスはもう一度ペナルティエリアの中に侵入した。
マークが二枚ついた。
捌いた。
ロジャーズへ。
ロジャーズが左足で合わせた。
ポストに当たった。
跳ね返りをニコラスが右足で押し込んだ。
スタジアムが、今日一番大きく揺れた。
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## アリスター視点
二対一。
アリスターはゴールを見た。
ニコラスが右手を上げていた。いつもと同じように、高く。
アリスターは息を吐いた。
そのまま試合は終わった。
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## 試合後
通路で鉢合わせた。
双方のロッカールームへ向かう廊下の途中だった。
アリスターが先に声をかけた。
「お前と戦えてよかった」
ニコラスは少し間を置いた。
「俺もだ」
それだけだった。
でもニコラスの目が、何か言っていた。アリスターにはわかった。言葉の下にあるものが。「ここまで来たな」とも「ようやくだ」とも違う、もっとシンプルな何かが。
アリスターは笑った。
「次は負けないから」
「来い」
ニコラスは先に歩いていった。
アリスターはその背中を見た。
マンチェスターのアカデミーに入った日、コーチに「お前は将来どんな選手になりたいか」と聞かれた。アリスターは「プレミアで戦いたい」と答えた。それが全部だった。具体的な相手も、具体的な舞台も、まだ持っていなかった。
今は持っている。
チェスターフィールドで両腕にタトゥーを入れた男が、プレミアリーグのピッチで9番を背負って、二点を取って、先に歩いていく。
その背中が見えている限り、アリスターには戦う理由がある。
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## インタビュー――アリスター・セント・クレア
試合後の囲み取材。記者が十人ほど集まった。
「今日のヴィラ戦、二対一での敗戦でした。率直な感想を」
「悔しい。それだけです。ホームで勝てなかった」
「ロメロ選手が二点取りました。プレミア1年目の選手に二点取られた印象は」
アリスターは少し間を置いた。
「正直に言います。あいつは今日のレベルではない。プレミア1年目と思って戦ったら足元をすくわれる」
記者がざわついた。
「どういう意味ですか」
「素直な評価です。あの選手の動きは、プレミアに初めて来た選手の動き方じゃない。もっと大きな舞台で、長いこと戦ってきた選手の目をしている」
「セント・クレア選手はロメロ選手と幼少期に面識があると聞きましたが」
アリスターは少し笑った。
「面識、というか」彼は言葉を選びながら言った。「最初に会ったのは小学校のころです。チェスターフィールドの地元で。俺がちょっとした揉め事に巻き込まれていたとき、助けてくれた子がいて、それがニコラスだった」
記者が静まった。
「それが最初の出会いですか」
「そうです。でもすぐ俺はマンチェスターのアカデミーに行ったので、そのまま十年くらい会わなかった。再会したのはニコラスが十六歳のときです。俺がチェスターフィールドに戻ったとき、街角でたまたま会って。そのときにサッカー教室に誘いました」
「十六歳でサッカーを始めたと」
「そうです。それがプレミアリーグで二点取る選手になっている」アリスターは少し間を置いた。「俺が誘った、というより、あいつが動いたんです。俺はただ声をかけただけで、グラウンドに来るかどうかを決めたのはニコラス自身だった」
「本人は覚えているかどうか知らないけど」アリスターは少し遠くを見た。「俺は覚えています。あの日から、いつかプレミアで対戦するとどこかで思っていた気がします。根拠はなかったけど」
「今日、その対戦が実現しました」
「実現した。負けたけど」アリスターは笑った。「でも今日だけの話じゃない。ここから先も続く。そういう相手がいることが、正直うれしいです。ライバルって言うと大げさかもしれないけど、俺にとってはそういう存在です」
「ロメロ選手にメッセージがあれば」
「次は負けない、と廊下で言いました。それだけです」
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## インタビュー――ニコラス・ロメロ
別の一角で、ニコラスの囲み取材が行われていた。
記者が集まった。ニコラスは短く答えた。
「今日の二得点について」
「取れた」
「もう少し詳しく」
「必要なときに入った」
記者が少し苦笑した。
「アリスター・セント・クレア選手と、幼少期に面識があったそうですね。彼の囲み取材でそう語っていました」
ニコラスは少し間を置いた。
「覚えている」
「どんな記憶ですか」
「揉め事に巻き込まれていた。助けた。名前だけ教えた」
「アリスター選手が連れて行ったと」
「それは十六歳のときだ。幼少期じゃない」
「そうなんですか。それが今日、プレミアリーグで対戦する形になりました」
「そうなった」
「感慨はありますか」
ニコラスはしばらく黙った。記者が次の言葉を待った。
「感慨はわからない」とニコラスは言った。
「でもあのとき名前を教えなければ、十六歳で再会しなかった。今日ここにいなかった。それは確かだ」
「アリスター選手についてどう思いますか」
ニコラスは答えるまでに一秒かかった。
「いい選手だ」
「それだけですか」
「それが全部だ」
記者がもう一度苦笑した。
「次の対戦に向けて」
「また戦う。それだけだ」
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その夜、グレースはチェスターフィールドの自宅でテレビを見ていた。
息子の名前がアナウンスされるたびに、音量を下げた。
近所の人に聞こえるのが、なんとなく恥ずかしかった。
二点目が入ったとき、グレースは少し目を伏せた。
右手を高く上げる息子の映像を、画面越しに見た。
チェスターフィールドで初めてグラウンドへ行った日のことを思い出した。隣にアリスターがいて、息子はその隣で不機嫌そうに腕を組んでいた。あのころからもう、その背中は大きかった。でもどこかまだ、行き場が決まっていない大きさだった。
今は違う。
遠くまで来たわね、とグレースは思った。
声には出さなかった。
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