表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈黙のストライカー  作者: ムーミンの丸焼き
アストン・ヴィラ1年目

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/109

アリスター



-----


## アリスター視点


試合前日、アリスター・セント・クレアはホテルの窓からバーミンガムの街を見ていた。


何度か来たことがある街だった。ヴィラパークも知っていた。でも今日は違う重さがあった。


明日の対戦相手のスタメンを、スマートフォンで確認した。見るまでもなかった。ニコラス・ロメロ、9番。すでにリーグで数ゴールを挙げていた。プレミア1年目にしては堅実なペースだ、とメディアは書いた。アリスターはその評価が少し面白かった。「堅実」という言葉が、あの男に合うとは思えなかった。まだ本調子ではないのだろう、とアリスターは思っていた。


ニックが本調子になったとき、どうなるかを、アリスターだけが知っていた。


チェスターフィールドのグラウンドで、初めてボールを蹴った男の目を。ゴールを外したときに、怒りでも悔しさでもなく、ただ次の情報を求めるように枠を見ていた、あの碧い目を。


あれを「堅実」とは呼ばない。


眠れなかった。でもそれは明日の試合のせいではなかった。


「待ってる」とあのとき言った。ルガーノを去る前のニコラスに。


明日、その言葉の意味が試される。


-----


## ニコラス視点


試合当日の朝、ニコラスはいつも通り四時に目が覚めた。


ヴィラパークのロッカールームへ向かうバスの中、窓の外を見ていた。アリスターが来る。それだけを、淡々と考えていた。


マンチェスター・ユナイテッド。アリスター・セント・クレアはそこにいる。


「アリスターと同じ舞台に立ちたい」と、コンヤにいたころゾーイに言った。それが今日、実現する。


感慨はなかった。


ただ、試合が来る。それだけだった。


-----


## アリスター視点


スタジアムに入ると、バーミンガムのサポーターが出迎えた。ユナイテッドのアウェイカラーを着たファンたちが、ゴール裏の一角に固まっていた。残りのスタンドは全部クラレットと青だった。


アップでピッチに出たとき、アリスターはニコラスを探した。


すぐ見つかった。体が大きいから。それとも、どこにいても目に入るから。


ニコラスはアリスターを見ていなかった。ただ一人でボールを受けて、シュートの角度を確認していた。GKと一対一でやりとりしながら、コースを変えて、また変えて、黙々と続けていた。


アリスターはそれを少し見た。


大きくなった。体だけでなく、動きの精度が。コンヤのときの映像を見ていた。ルガーノのときも見ていた。でも生で見ると、また違う。ペナルティエリアの中に入ったとき、もう次の動作が始まっている。ボールが来る前に、体が答えを知っている。


アップが終わりかけたとき、ニコラスが顔を上げた。


目が合った。


アリスターは笑った。


ニコラスは笑わなかった。でも視線をそらさなかった。一秒か二秒、ただアリスターを見た。それから視線を切って、次のシュートに戻った。


アリスターは笑いながら、引き揚げた。


あいつは何も変わっていない、と思った。そして何もかもが変わっている、とも思った。


-----


## 試合


開始のホイッスルが鳴った。


七万人の声が圧縮されてピッチに落ちてきた。


-----


十三分。


アリスターがボールを受けた。中盤の右寄りで、スペースがあった。


ユナイテッドのビルドアップは速かった。パスを繋いで、一手二手で前を向く。アリスターの役割は受けて捌くだけでなく、受けてから自分で持ち込む判断も含まれていた。


ワンタッチでターンした。


ティーレマンスが来た。


大きくはなかった。でも間合いの詰め方が速かった。ボールを取りに来るのではなく、パスコースを消しながら近づいてくる。アリスターはその動き方を一瞬で読んで、逆サイドへはたいた。


繋がった。


アリスターは走った。リターンを呼んだ。来なかった。別のコースに出た。


流れが変わった。


-----


二十二分、アリスターがFKを得た。


ペナルティエリアまで約二十五メートル。少し右寄りの位置だった。


ユナイテッドの選手が壁の前で立ち位置を確認している間、アリスターはボールをセットしながらゴールを見た。マルティネスの立ち位置、壁の高さ、風の向き。一秒もかけずに処理した。


助走は短かった。


蹴った瞬間、ボールに縦回転がかかった。壁の右端を越えて、そのまま落ちてくる軌道。マルティネスが動いた。右手が伸びた。


指先に当たった。


わずかにコースが変わって、ポストの外側を叩いた。


スタンドがため息をついた。アリスターは額に手を当てた。


惜しい、では足りない精度だった。マルティネスの反応が一枚上だったというだけで、コースも高さも、あれ以上のものは蹴れない。


ニコラスがゴール前からゆっくり戻ってくる姿が見えた。アリスターのFKを見ていたはずだが、何も言わなかった。顔にも何も出ていなかった。


ただ次の準備をしていた。


-----


アリスターから見たニコラスは、ピッチの中でほとんど喋らなかった。


コーチングもしない。声もあまり出ない。でも動き続けていた。止まっている時間がなかった。常にどこかへ動いていて、それが全部意味を持っていた。無駄な動きがない。フェイクもない。ただ、スペースが生まれると信じているところへ、信じたまま走っていた。


ユナイテッドのDF陣が引っ張られているのを、アリスターは中盤から見ていた。


あいつが走るだけで、人が動く。


その動きが見えているから、アリスターはパスを出せた。ニコラスが次にどこへ動くかを一手先に読んで、そこへ通す。五十分、アリスターが逆サイドへ対角線のパスを出した。受け手はユナイテッドの選手だったが、そのパスはニコラスのマークを一枚剥がすために出した。意図した通りに動いた。


サッカーは予測のゲームだ、とアリスターは思っていた。相手が次に何をするかを読んで、それより先に動く。ニコラスの動きを読むのは難しくなかった。なぜなら、あの男は読まれることを気にしていないからだ。予測されても、それでも到達できると体が確信している。その確信が、むしろ守備側を迷わせる。


チェスターフィールドのグラウンドで、ゴールを外してもただ次を見ていたあの目が、今は七万人のスタジアムに通っていた。


-----


三十一分。


ニコラスがペナルティエリアに入った。


ユナイテッドのCBがついていった。マークがはっきりしていた。


でもニコラスは止まった。


マークが一歩詰めた。


その瞬間、ニコラスが反転した。背後へ。マークの体の外側へ。


サンチョのクロスが来た。


右足でミートした。


強くはなかった。でも低かった。GKの手の下をくぐった。


ゴールネットが揺れた。


七万人が、また揺れた。


-----


## ニコラス視点


ゴールを決めた瞬間、ニコラスは右手を高く上げた。


スタンドを見なかった。


アリスターを見なかった。


ただゴールを見た。入った場所を確認した。次はどうするかを、もう考えていた。


チームメイトが来た。ロジャーズ、サンチョ、マクギン。


ニコラスは短く頷いた。


ゴールという事実は受け取った。試合はまだ続いている。


-----


## アリスター視点


ニコラスのゴールを、アリスターはハーフウェイライン付近から見ていた。


入った瞬間、アリスターは思わず息を吐いた。


笑いたかった。なぜかはわからない。ゴールを取られたのに。でも笑いたかった。


あの男が、プレミアリーグのピッチで、こうして右手を上げている。


チェスターフィールドで初めてボールを渡した日から、ここまで来た。


「ここにいるな、ニック」と心の中で言った。声には出さなかった。


気持ちを切った。まだ試合は続いている。


-----


後半、六十二分。


ユナイテッドが押し込んだ。


アリスターが右に流れた。キャッシュが対応した。アリスターはキャッシュの立ち位置を見て、内側へ切り返した。スペースがあった。


シュートを打った。


マルティネスが横っ飛びで弾いた。


コーナーになった。


アリスターは額に手を当てた。枠には入った。でも弾かれた。


コーナーから流れて、ユナイテッドが繋いだ。アリスターがエリア手前で受けた。


今度は迷わなかった。


左足で巻いた。


マルティネスの右手が届いた。


また弾かれた。


アリスターは正直に思った。このGK、おかしい。


-----


七十八分。


ユナイテッドが右サイドを崩した。クロスが上がった。


ファーサイドで合わせた。


一対一になった。


スコアは一対一になった。


-----


## ニコラス視点


同点になった瞬間、ニコラスはピッチ中央に戻りながら、スコアボードを確認した。


一対一。


エメリーがサイドラインで何かを指示していた。ティーレマンスが声を出した。マクギンが引き締めろという顔をした。


ニコラスはもう一点取る、とだけ考えた。


感情ではなかった。ただ、そうするべきだという確信だった。


残り十二分、ニコラスはもう一度ペナルティエリアの中に侵入した。


マークが二枚ついた。


捌いた。


ロジャーズへ。


ロジャーズが左足で合わせた。


ポストに当たった。


跳ね返りをニコラスが右足で押し込んだ。


スタジアムが、今日一番大きく揺れた。


-----


## アリスター視点


二対一。


アリスターはゴールを見た。


ニコラスが右手を上げていた。いつもと同じように、高く。


アリスターは息を吐いた。


そのまま試合は終わった。


-----


## 試合後


通路で鉢合わせた。


双方のロッカールームへ向かう廊下の途中だった。


アリスターが先に声をかけた。


「お前と戦えてよかった」


ニコラスは少し間を置いた。


「俺もだ」


それだけだった。


でもニコラスの目が、何か言っていた。アリスターにはわかった。言葉の下にあるものが。「ここまで来たな」とも「ようやくだ」とも違う、もっとシンプルな何かが。


アリスターは笑った。


「次は負けないから」


「来い」


ニコラスは先に歩いていった。


アリスターはその背中を見た。


マンチェスターのアカデミーに入った日、コーチに「お前は将来どんな選手になりたいか」と聞かれた。アリスターは「プレミアで戦いたい」と答えた。それが全部だった。具体的な相手も、具体的な舞台も、まだ持っていなかった。


今は持っている。


チェスターフィールドで両腕にタトゥーを入れた男が、プレミアリーグのピッチで9番を背負って、二点を取って、先に歩いていく。


その背中が見えている限り、アリスターには戦う理由がある。


-----


## インタビュー――アリスター・セント・クレア


試合後の囲み取材。記者が十人ほど集まった。


「今日のヴィラ戦、二対一での敗戦でした。率直な感想を」


「悔しい。それだけです。ホームで勝てなかった」


「ロメロ選手が二点取りました。プレミア1年目の選手に二点取られた印象は」


アリスターは少し間を置いた。


「正直に言います。あいつは今日のレベルではない。プレミア1年目と思って戦ったら足元をすくわれる」


記者がざわついた。


「どういう意味ですか」


「素直な評価です。あの選手の動きは、プレミアに初めて来た選手の動き方じゃない。もっと大きな舞台で、長いこと戦ってきた選手の目をしている」


「セント・クレア選手はロメロ選手と幼少期に面識があると聞きましたが」


アリスターは少し笑った。


「面識、というか」彼は言葉を選びながら言った。「最初に会ったのは小学校のころです。チェスターフィールドの地元で。俺がちょっとした揉め事に巻き込まれていたとき、助けてくれた子がいて、それがニコラスだった」


記者が静まった。


「それが最初の出会いですか」


「そうです。でもすぐ俺はマンチェスターのアカデミーに行ったので、そのまま十年くらい会わなかった。再会したのはニコラスが十六歳のときです。俺がチェスターフィールドに戻ったとき、街角でたまたま会って。そのときにサッカー教室に誘いました」


「十六歳でサッカーを始めたと」


「そうです。それがプレミアリーグで二点取る選手になっている」アリスターは少し間を置いた。「俺が誘った、というより、あいつが動いたんです。俺はただ声をかけただけで、グラウンドに来るかどうかを決めたのはニコラス自身だった」


「本人は覚えているかどうか知らないけど」アリスターは少し遠くを見た。「俺は覚えています。あの日から、いつかプレミアで対戦するとどこかで思っていた気がします。根拠はなかったけど」


「今日、その対戦が実現しました」


「実現した。負けたけど」アリスターは笑った。「でも今日だけの話じゃない。ここから先も続く。そういう相手がいることが、正直うれしいです。ライバルって言うと大げさかもしれないけど、俺にとってはそういう存在です」


「ロメロ選手にメッセージがあれば」


「次は負けない、と廊下で言いました。それだけです」


-----


## インタビュー――ニコラス・ロメロ


別の一角で、ニコラスの囲み取材が行われていた。


記者が集まった。ニコラスは短く答えた。


「今日の二得点について」


「取れた」


「もう少し詳しく」


「必要なときに入った」


記者が少し苦笑した。


「アリスター・セント・クレア選手と、幼少期に面識があったそうですね。彼の囲み取材でそう語っていました」


ニコラスは少し間を置いた。


「覚えている」


「どんな記憶ですか」


「揉め事に巻き込まれていた。助けた。名前だけ教えた」


「アリスター選手が連れて行ったと」


「それは十六歳のときだ。幼少期じゃない」


「そうなんですか。それが今日、プレミアリーグで対戦する形になりました」


「そうなった」


「感慨はありますか」


ニコラスはしばらく黙った。記者が次の言葉を待った。


「感慨はわからない」とニコラスは言った。


「でもあのとき名前を教えなければ、十六歳で再会しなかった。今日ここにいなかった。それは確かだ」


「アリスター選手についてどう思いますか」


ニコラスは答えるまでに一秒かかった。


「いい選手だ」


「それだけですか」


「それが全部だ」


記者がもう一度苦笑した。


「次の対戦に向けて」


「また戦う。それだけだ」


-----


その夜、グレースはチェスターフィールドの自宅でテレビを見ていた。


息子の名前がアナウンスされるたびに、音量を下げた。


近所の人に聞こえるのが、なんとなく恥ずかしかった。


二点目が入ったとき、グレースは少し目を伏せた。


右手を高く上げる息子の映像を、画面越しに見た。


チェスターフィールドで初めてグラウンドへ行った日のことを思い出した。隣にアリスターがいて、息子はその隣で不機嫌そうに腕を組んでいた。あのころからもう、その背中は大きかった。でもどこかまだ、行き場が決まっていない大きさだった。


今は違う。


遠くまで来たわね、とグレースは思った。


声には出さなかった。


-----

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ