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沈黙のストライカー  作者: ムーミンの丸焼き
アストン・ヴィラ1年目

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25/110

9番


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プレミアリーグ初戦の朝、ニコラスは四時に目が覚めた。


眠れなかったわけではなかった。ただ体が、まだ暗いうちに準備を始めていた。それはいつものことだった。コンヤでの初戦も、ルガーノでの初戦も、同じだった。体が先に知っている。今日は大事な日だと。


ホテルの窓から外を見た。バーミンガムの街はまだ眠っていた。灰色の空が、少しずつ明るくなり始めていた。


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スタジアムに向かう道で、サンチョが隣に座った。


「緊張してる?」とサンチョが英語で聞いた。


「していない」


「俺は初戦のとき吐きそうだったよ」サンチョは笑った。「ドルトムントのときも、マンチェスターユナイテッドのときも」


「俺は違う」


「そうだな」サンチョは少し間を置いた。「お前の目を見たらわかる。緊張じゃない。もう試合の中にいる」


ニコラスは答えなかった。


正確には、すでに試合のことを考えていた。相手の守備の形を頭の中でなぞっていた。どこにスペースが生まれるか。ティーレマンスのパスがどこに出てくるか。サンチョが右で仕掛けたとき、中央に何が起きるか。


それを「緊張していない」と言うのは正確ではなかった。でも「緊張している」とも違った。ただ、始まる前からもう始まっている感覚だった。


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ヴィラパークに入ったとき、スタジアムがまだ半分しか埋まっていなかった。


それでも音があった。


スタンドに響く声の残響が、どこか遠くから来るように聞こえた。ルガーノのスタジアムとは、音の層が違った。天井の高さが違う。壁の厚さが違う。七万人という数字が、建物の構造に刻まれていた。


ニコラスはピッチに出てアップをしながら、スタンドを一度だけ見た。


どこかにグレースがいる。


今日は来ていないはずだった。でもどこかにいる気がした。


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試合が始まった。


最初の五分で、ニコラスはプレミアリーグの速度を体で知った。


ルガーノも速かった。でもこれは違う。タックルが来る前の一瞬が、短い。ボールを持ってから選択肢を考える時間が、ない。来る前に決めていなければならない。決めていた場所に、ボールがある前に体を動かしていなければならない。


最初のタッチで相手DFに体を当てられた。吹き飛ばなかった。でも想定より力があった。


二十分、マクギンが右サイドで奪って縦に出した。


マクギンのプレーはルガーノのどの選手とも違った。刈り取るような強さでボールを奪って、判断が速かった。複雑なことをしない。シンプルに、確実に、前へ。スコットランドの選手だとニコラスは知っていた。その体の使い方に、どこか納得するものがあった。


ボールがキャッシュへ渡った。マティ・キャッシュは右サイドバックだったが、攻撃の判断が速かった。持ち上がって中を見た。


ニコラスはペナルティエリアの手前で走った。マークが一枚ついていた。


ニコラスは止まった。


マークも止まった。


その瞬間に背後へ走り直した。


マークが遅れた。


キャッシュのクロスが来た。


合わなかった。


ボールが体の前を通り過ぎた。ニコラスはそれを追わなかった。追っても届かない角度だった。


流れた。コーナーにならなかった。


ニコラスはゆっくり戻った。


違う。今のは違う。クロスが来るタイミングとコースを、もう少し早く読まなければならなかった。キャッシュの持ち方を見て、中に入るのか外に蹴るのかを、もう一手前で判断する必要があった。


覚えた。


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三十二分、オナナがインターセプトした。


アマドゥ・オナナは大きかった。体も大きかったが、プレーの存在感も大きかった。球際で当たったとき、相手が吹き飛んでいくのを試合中に何度か見た。でも奪った後のパスが思ったより丁寧だった。大きい選手が大雑把にやらない。


オナナからティーレマンスへ。


ティーレマンスは受けて、一瞬だけ顔を上げた。


ニコラスはその一瞬で判断した。


インサイドに入る。


ティーレマンスのパスが来た。


速かった。でも今日は練習と違って、もう慣れていた。


トラップせず、そのまま右足で蹴った。


GKの正面だった。


弾かれた。


「惜しい」とロジャーズが英語で言った。


ニコラスは何も言わなかった。


GKの位置を見た。次はコースを変える。


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前半が終わった。スコアは〇対〇だった。


ロッカールームでエメリーが話した。


「悪くない。でも中盤の圧力が足りない場面がある。ティーレマンス、もう少し早く前に出ろ。ニコラス、お前はまだ半分だ」


「半分?」


「体は動いている。でもまだ探っている。プレミアの速度を測っている。それは正しい。でもあと一試合分の情報はもう持った。後半は測るな。動け」


ニコラスはその言葉を聞いた。


正確だ、と思った。


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後半、五十八分。


ロジャーズがボールを持った。


モーガン・ロジャーズのドリブルは、ドスサントスと違った。ドスサントスは体全体で相手を抜いた。ロジャーズは体の向きで相手を迷わせた。どちらに行くかを読ませないまま、ぎりぎりで方向を決めた。


ロジャーズが中に入った。相手がついてきた。


ニコラスはその動きの外側に出た。


ルガーノで何百回も繰り返した動きだった。ドスサントスが持ったとき外へ流れる動き。今はロジャーズだった。役割は同じだ。


ロジャーズがパスを出した。


ニコラスの右足の前にボールが来た。


ペナルティエリアの右端だった。角度がなかった。GKが構えていた。


一瞬だけ判断した。


ファーポストの内側。低いコース。


蹴った。


入った。


スタジアムが揺れた。


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その音は、知らない種類の音だった。


ルガーノの音とも、コンヤの音とも違った。七万人が同時に同じ方向に動いたときの空気の圧が、皮膚に当たった。音というより、波だった。


ニコラスは右手を高く上げた。


チームメイトが来た。ロジャーズが来た。サンチョが来た。マクギンが肩を叩いた。


ニコラスは短く頷いた。


波はまだ続いていた。


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七十三分、ワトキンスが入った。


ニコラスと交代だった。


ピッチを出るとき、ワトキンスとすれ違った。


目が合った。ワトキンスは何も言わなかった。でも燃えている目だった。今から自分がやる、という目だった。


ニコラスはベンチに座った。


残り十七分、ピッチの外からワトキンスを見た。よく走っていた。誰よりも走っていた。前からのプレスを続けて、相手のビルドアップを乱し続けた。


シュートを一本打った。GKが止めた。


試合は一対〇で終わった。


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試合は一対〇で終わった。


プレミアリーグ初戦、初ゴール。


数字だけ見ればそうだった。でもニコラスの体の中には、別の感覚があった。


ルガーノで点を取ったとき、もっと手応えが明確だった。受け取って、蹴って、入る。その一連に迷いがなかった。今日はどこかで、まだ測っていた。エメリーの言葉が正確だった。後半から測るのをやめようとしたが、完全にはやめられなかった。


試合後、エメリーが来た。


「ゴール、おめでとう」


「ありがとうございます」


「どうだった」


ニコラスは少し間を置いた。


「まだ慣れていない」


エメリーは頷いた。「そうだろう。それでいい」


「それでいい?」


「慣れたころに、本当のお前が出る。今日はその入り口だ」


ニコラスはその言葉を聞いた。


ルガーノで初ゴールを取った夜のことを、少し思い出した。あのときも、入り口だった。


またここから始まる。


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シャワーを浴びて、ロッカールームを出た。


廊下でパウ・トーレスとすれ違った。


「よかったぞ」とトーレスがスペイン語で言った。


ニコラスには意味がわからなかった。でも何かを言われたことはわかった。


「ありがとう」と英語で返した。


トーレスは笑った。「スペイン語、少しは知ってるか?」


「知らない」


「教えてやろうか」


ニコラスは少し間を置いた。


「……また今度」


トーレスは笑ったまま先を歩いた。


ニコラスは廊下を歩きながら、「また今度」と言った自分が少し奇妙だと思った。


断らなかった。


なぜかは、わからなかった。


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