9番
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プレミアリーグ初戦の朝、ニコラスは四時に目が覚めた。
眠れなかったわけではなかった。ただ体が、まだ暗いうちに準備を始めていた。それはいつものことだった。コンヤでの初戦も、ルガーノでの初戦も、同じだった。体が先に知っている。今日は大事な日だと。
ホテルの窓から外を見た。バーミンガムの街はまだ眠っていた。灰色の空が、少しずつ明るくなり始めていた。
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スタジアムに向かう道で、サンチョが隣に座った。
「緊張してる?」とサンチョが英語で聞いた。
「していない」
「俺は初戦のとき吐きそうだったよ」サンチョは笑った。「ドルトムントのときも、マンチェスターユナイテッドのときも」
「俺は違う」
「そうだな」サンチョは少し間を置いた。「お前の目を見たらわかる。緊張じゃない。もう試合の中にいる」
ニコラスは答えなかった。
正確には、すでに試合のことを考えていた。相手の守備の形を頭の中でなぞっていた。どこにスペースが生まれるか。ティーレマンスのパスがどこに出てくるか。サンチョが右で仕掛けたとき、中央に何が起きるか。
それを「緊張していない」と言うのは正確ではなかった。でも「緊張している」とも違った。ただ、始まる前からもう始まっている感覚だった。
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ヴィラパークに入ったとき、スタジアムがまだ半分しか埋まっていなかった。
それでも音があった。
スタンドに響く声の残響が、どこか遠くから来るように聞こえた。ルガーノのスタジアムとは、音の層が違った。天井の高さが違う。壁の厚さが違う。七万人という数字が、建物の構造に刻まれていた。
ニコラスはピッチに出てアップをしながら、スタンドを一度だけ見た。
どこかにグレースがいる。
今日は来ていないはずだった。でもどこかにいる気がした。
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試合が始まった。
最初の五分で、ニコラスはプレミアリーグの速度を体で知った。
ルガーノも速かった。でもこれは違う。タックルが来る前の一瞬が、短い。ボールを持ってから選択肢を考える時間が、ない。来る前に決めていなければならない。決めていた場所に、ボールがある前に体を動かしていなければならない。
最初のタッチで相手DFに体を当てられた。吹き飛ばなかった。でも想定より力があった。
二十分、マクギンが右サイドで奪って縦に出した。
マクギンのプレーはルガーノのどの選手とも違った。刈り取るような強さでボールを奪って、判断が速かった。複雑なことをしない。シンプルに、確実に、前へ。スコットランドの選手だとニコラスは知っていた。その体の使い方に、どこか納得するものがあった。
ボールがキャッシュへ渡った。マティ・キャッシュは右サイドバックだったが、攻撃の判断が速かった。持ち上がって中を見た。
ニコラスはペナルティエリアの手前で走った。マークが一枚ついていた。
ニコラスは止まった。
マークも止まった。
その瞬間に背後へ走り直した。
マークが遅れた。
キャッシュのクロスが来た。
合わなかった。
ボールが体の前を通り過ぎた。ニコラスはそれを追わなかった。追っても届かない角度だった。
流れた。コーナーにならなかった。
ニコラスはゆっくり戻った。
違う。今のは違う。クロスが来るタイミングとコースを、もう少し早く読まなければならなかった。キャッシュの持ち方を見て、中に入るのか外に蹴るのかを、もう一手前で判断する必要があった。
覚えた。
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三十二分、オナナがインターセプトした。
アマドゥ・オナナは大きかった。体も大きかったが、プレーの存在感も大きかった。球際で当たったとき、相手が吹き飛んでいくのを試合中に何度か見た。でも奪った後のパスが思ったより丁寧だった。大きい選手が大雑把にやらない。
オナナからティーレマンスへ。
ティーレマンスは受けて、一瞬だけ顔を上げた。
ニコラスはその一瞬で判断した。
インサイドに入る。
ティーレマンスのパスが来た。
速かった。でも今日は練習と違って、もう慣れていた。
トラップせず、そのまま右足で蹴った。
GKの正面だった。
弾かれた。
「惜しい」とロジャーズが英語で言った。
ニコラスは何も言わなかった。
GKの位置を見た。次はコースを変える。
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前半が終わった。スコアは〇対〇だった。
ロッカールームでエメリーが話した。
「悪くない。でも中盤の圧力が足りない場面がある。ティーレマンス、もう少し早く前に出ろ。ニコラス、お前はまだ半分だ」
「半分?」
「体は動いている。でもまだ探っている。プレミアの速度を測っている。それは正しい。でもあと一試合分の情報はもう持った。後半は測るな。動け」
ニコラスはその言葉を聞いた。
正確だ、と思った。
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後半、五十八分。
ロジャーズがボールを持った。
モーガン・ロジャーズのドリブルは、ドスサントスと違った。ドスサントスは体全体で相手を抜いた。ロジャーズは体の向きで相手を迷わせた。どちらに行くかを読ませないまま、ぎりぎりで方向を決めた。
ロジャーズが中に入った。相手がついてきた。
ニコラスはその動きの外側に出た。
ルガーノで何百回も繰り返した動きだった。ドスサントスが持ったとき外へ流れる動き。今はロジャーズだった。役割は同じだ。
ロジャーズがパスを出した。
ニコラスの右足の前にボールが来た。
ペナルティエリアの右端だった。角度がなかった。GKが構えていた。
一瞬だけ判断した。
ファーポストの内側。低いコース。
蹴った。
入った。
スタジアムが揺れた。
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その音は、知らない種類の音だった。
ルガーノの音とも、コンヤの音とも違った。七万人が同時に同じ方向に動いたときの空気の圧が、皮膚に当たった。音というより、波だった。
ニコラスは右手を高く上げた。
チームメイトが来た。ロジャーズが来た。サンチョが来た。マクギンが肩を叩いた。
ニコラスは短く頷いた。
波はまだ続いていた。
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七十三分、ワトキンスが入った。
ニコラスと交代だった。
ピッチを出るとき、ワトキンスとすれ違った。
目が合った。ワトキンスは何も言わなかった。でも燃えている目だった。今から自分がやる、という目だった。
ニコラスはベンチに座った。
残り十七分、ピッチの外からワトキンスを見た。よく走っていた。誰よりも走っていた。前からのプレスを続けて、相手のビルドアップを乱し続けた。
シュートを一本打った。GKが止めた。
試合は一対〇で終わった。
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試合は一対〇で終わった。
プレミアリーグ初戦、初ゴール。
数字だけ見ればそうだった。でもニコラスの体の中には、別の感覚があった。
ルガーノで点を取ったとき、もっと手応えが明確だった。受け取って、蹴って、入る。その一連に迷いがなかった。今日はどこかで、まだ測っていた。エメリーの言葉が正確だった。後半から測るのをやめようとしたが、完全にはやめられなかった。
試合後、エメリーが来た。
「ゴール、おめでとう」
「ありがとうございます」
「どうだった」
ニコラスは少し間を置いた。
「まだ慣れていない」
エメリーは頷いた。「そうだろう。それでいい」
「それでいい?」
「慣れたころに、本当のお前が出る。今日はその入り口だ」
ニコラスはその言葉を聞いた。
ルガーノで初ゴールを取った夜のことを、少し思い出した。あのときも、入り口だった。
またここから始まる。
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シャワーを浴びて、ロッカールームを出た。
廊下でパウ・トーレスとすれ違った。
「よかったぞ」とトーレスがスペイン語で言った。
ニコラスには意味がわからなかった。でも何かを言われたことはわかった。
「ありがとう」と英語で返した。
トーレスは笑った。「スペイン語、少しは知ってるか?」
「知らない」
「教えてやろうか」
ニコラスは少し間を置いた。
「……また今度」
トーレスは笑ったまま先を歩いた。
ニコラスは廊下を歩きながら、「また今度」と言った自分が少し奇妙だと思った。
断らなかった。
なぜかは、わからなかった。
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