ボレー
-----
二月、UEFAヨーロッパリーグのラウンド32が始まった。
相手はポルトガルのSCブラガだった。ポルトガルリーグの常連上位クラブで、ヨーロッパの経験も豊富だった。ルガーノより明らかに格上だった。
ホームでの第一戦、ファリネッリが珍しく試合前のミーティングで長く話した。
「相手はスイスリーグを舐めてくる。それでいい。こちらが準備していることを、最初の十五分で見せろ」
ニコラスは聞きながら、ブラガのGKの映像を頭の中で反芻していた。昨夜一時間見た。右に強い。左のサイドネットが弱点だ。
ドスサントスが隣で「今日も頼む」と言った。
「ああ」とニコラスは返した。
-----
試合は予想通り、ブラガがボールを持つ時間が長かった。
ルガーノはブロックを組んで構えた。カウンターの機会を窺った。ニコラスは前線で待ち続けた。
前半二十一分、ニコラスにボールが来た。
ペナルティエリアの手前、背中を向けた状態だった。DFが寄せてきた。体をぶつけた。向き直った。シュートコースを探した。
ない。DFが三人、コースを塞いでいた。
横にはたいた。チミニャーニが受けた。展開した。
機会を逃した、とは思わなかった。次がある。
前半三十四分、ゴールが生まれた。
エムレを経由したカウンターのような形で、ドスサントスが右サイドを突破した。クロスを上げた。
ニコラスはペナルティエリアに走り込んでいた。
クロスが来た瞬間、軌道を見た。
高かった。ヘディングの高さではなかった。でも胸で落とす時間もなかった。DFが後ろからプレッシャーをかけてきた。
体が先に動いた。
右足を上げた。体が傾いた。軸足が浮いた。
ボールにミートした瞬間、自分でも何が起きたか一瞬わからなかった。
ボールがゴール右隅に突き刺さった。
-----
スタジアムが静まった。
一秒だけ。全員が息を呑んだ。
それから爆発した。
ドスサントスが一番最初に叫んだ。「今のは何だ!」
チミニャーニがピッチの上で珍しく両手を上げた。
ビスリミが口を開けたまま走ってきた。
ベンチでファリネッリが立ち上がって、隣のコーチに何か言った。コーチが首を振りながら笑っていた。
チームメイトに揉みくちゃにされながら、ニコラスは自分の右足を見た。
打った感触がまだ残っていた。
あの瞬間、考えていなかった。体が選んでいた。クロスの軌道を見た瞬間に、足が動いていた。ダイレクトシュートの感覚の延長にあったのか、それとも全然別の何かだったのか、自分でもわからなかった。
「今のどうやって打った」とドスサントスが顔を近づけて聞いた。
「わからない」
「わからないのか」
「体が動いた」
ドスサントスはしばらくニコラスを見た。「お前、本当に怖いな」と言った。今日で何度目かの言葉だった。
-----
試合は一対一で終わった。
アウェイゴールを取られたのは痛かった。でも一点を取った。アウェイでの第二戦に可能性は残った。
試合後、ファリネッリが言った。
「三十四分のゴール。あれは狙ったのか」
「狙っていない。体が動いた」
ファリネッリはしばらくニコラスを見た。
「ダイレクトシュートの感覚から来たものか」
「そうかもしれない。でも意識はしていなかった」
「そうか」ファリネッリは頷いた。「では次から意識してみろ。あの形でシュートを打てる場面は、他にもある」
ニコラスは少し間を置いた。
「練習でやってみます」
「明日から時間を作る」とファリネッリは言った。「クロスに対してボレーで合わせる練習を」
-----
その夜、ゾーイに映像が送られてきた。
「見ました」というメッセージと一緒だった。「三十四分のゴール、もう四十万回再生されています」
「四十万」
「ヨーロッパ中で話題になっています。『スイスリーグの十九歳が何をした』という感じで」
ニコラスはしばらく間を置いた。
「四十万人が見たのか」
「今夜中に百万を超えると思います」
「そうか」
「……もう少し驚いてください」とゾーイは言った。
「驚いています」
「声に出してください」
「この間もそれを言われた」
「言いました」ゾーイは少し笑った。「プレミアのクラブからの問い合わせが今夜だけで三件来ています。あのゴールを見て動いた人間がいる」
「冬は行かないと言った」
「わかっています。全部断りました。ただ」ゾーイは少し間を置いた。「来夏はかなり大きな動きになります。覚悟しておいてください」
「わかりました」
「あと」とゾーイは続けた。「ボレーシュート、あの感覚を忘れないでください。ファリネッリが練習時間を作ると言っていましたが、私からもお願いします」
「監督からも言われた」
「では私が三度目です。それだけ大事だということです」
-----
翌週の練習で、ボレーシュートの練習が始まった。
クロスボールに対して、体を傾けて、足を上げて、ミートする。
最初は全然入らなかった。
試合中の「体が動いた」あの感覚を再現しようとすると、どこかがずれた。意識した瞬間に、感覚が逃げた。
十本打って、枠内に飛んだのは三本だった。
ドスサントスがクロスを上げながら「どうだ」と言った。
「難しい」
「そうだろう。でも試合中はできた」
「試合中は考えていなかった」
「じゃあ練習中も考えるな」ドスサントスは笑った。「難しいけど」
ニコラスは次のクロスを待ちながら、少し考えた。
ダイレクトシュートのときと似ていた。考えると打てなくなる。でも何も考えないことはできない。ではどこまで考えて、どこから体に任せるか。
その境界線を探すことが、次の課題だった。
-----
二月の終わり、リーグ戦でFKを任された。
初めてだった。
相手のDFがペナルティエリア手前でニコラスのシュートを手に当てた。主審が笛を吹いた。ゴールまで約二十メートル。直接狙える位置だった。
チームメイトたちが顔を見合わせた。
「ニコラス、蹴るか」とドスサントスが聞いた。
「蹴る」
ボールをセットした。距離を確認した。GKがポジションを取った。壁が五枚並んだ。
ニコラスはGKの位置を見た。左に少し寄っていた。右上が空いていた。壁の上を越えて、右上に曲げれば入る。
助走を取った。
右足でボールを蹴った。
ボールは壁に当たった。
跳ね返ってきた。チームメイトが拾って、プレーが続いた。
ニコラスはその場に立って、壁の位置を確認した。
壁の高さが足りなかった、というわけではなかった。コースは合っていた。でもボールの軌道が読めていなかった。どれだけ蹴れば壁を越えるか、どの角度で曲げれば枠に入るか、その計算が全くできていなかった。
ペナルティエリアの中では、体が答えを知っていた。
でもここは違った。
-----
試合後、ファリネッリが言った。
「FKは難しいか」
「難しい」
「そうだな」ファリネッリは言った。「あれは別の技術だ。繰り返し練習するしかない。すぐにはできるようにならない」
「わかっています」
「でも挑戦したのは正しい」ファリネッリは言った。「できないことを試合でやってみるのは、勇気がいる」
ニコラスは少し間を置いた。
「次も蹴っていいですか」
ファリネッリは少し目を細めた。
「もちろんだ」
-----
その夜、ゾーイに電話した。
「FKを蹴った」
「見ていました。壁に当たりましたね」
「難しい」
「ロングシュートと同じ課題です」ゾーイは言った。「ボールの回転、軌道の制御、距離感の習得。どれも積み上げが必要です」
「わかっている」
「焦らなくていいです」ゾーイは言った。「ボレーが突然できたように、FKもある日突然できるようになるかもしれない。でもFKはボレーより意識的な技術です。時間がかかります」
「どれくらい」
「数年、かもしれません」
ニコラスはしばらく黙っていた。
「数年か」
「でもあなたにはその時間があります。まだ十九歳なので」
ニコラスは窓の外を見た。
二月のルガーノだった。湖が風に揺れていた。
数年。
ボレーはある日突然できた。FKは数年かかるかもしれない。ロングシュートも、まだ完全ではない。
できることと、できないことが、はっきりしてきた。
できないことは、できるようになるまでやり続ける。それだけだ。
「わかりました」とニコラスは言った。
「よかった」ゾーイは言った。少し間があった。「あと、ボレーの映像、まだ伸びています。今日で二百万回を超えました」
「そうか」
「そうです」ゾーイは言った。「あなたが『そうか』と言うたびに、私は少し笑っています」
ニコラスは少し間を置いた。
「なぜ」
「なんとなくです」
ニコラスはしばらくその返信を見た。
「おやすみ」と打った。
「おやすみなさい」とすぐに返ってきた。
スマホを置いた。
窓の外で湖が揺れていた。
ボレー、FK、ロングシュート。
できないことが、まだある。
だから、まだ続く。




