ルガーノ
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オファーを二件まで絞った。
トリノとFCルガーノ。
ゾーイがテーブルに資料を並べた。コンヤスポルのシーズンが終わってから三週間後、チェスターフィールドのカフェだった。いつも通り、ニコラスは紅茶、ゾーイはコーヒーを頼んだ。
「トリノはセリエAです」とゾーイは言った。「イタリア一部。リーグのレベルはルガーノより明らかに上です」
「条件は」
「最初の半年は控えから入ってほしいと言っています。実績を見てからスタメンを保証する、という形です」
ニコラスは黙っていた。
「また様子見か」
「そうです」ゾーイは頷いた。「トリノとしては当然の判断です。トルコリーグとセリエAでは強度が違う。でも」彼女はルガーノの資料を前に出した。「FCルガーノは違います」
「何が違う」
「監督のファリネッリが直接、あなたに電話をしたいと言っています」
ニコラスは少し間を置いた。
「監督が直接?」
「ええ。珍しいことです。それだけ本気だということです」
その夜、ファリネッリからの電話が来た。
イタリア語訛りの英語だった。五十代の男の声は、落ち着いていて、でも熱があった。
「ロメロ、私はあなたをエースとして迎えたい。戦術の中心に置きたい。チーム全体があなたのためにボールを運ぶ。あなたはゴールだけ考えてくれればいい」
ニコラスはしばらく黙っていた。
「本当にそれができますか」
「できる。私のチームはそのために作ってある」
「コンヤでは」と言いかけて、止めた。
「コンヤのことは知っています」とファリネッリは言った。「あなたが一人で戦っていたことも。ここでは違う。信じてください」
電話が終わって、ニコラスはゾーイにメッセージを送った。
「ルガーノにする」
返信はすぐ来た。
「わかりました。正しい選択だと思います」
少し間があって、もう一つ来た。
「あと、トリノのパスタは旨いですが、スイスのチーズも捨てがたいです」
ニコラスはしばらくその文章を見た。
「それは関係ない」と返した。
「ですね」とゾーイは返した。
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ルガーノは、思っていたより美しい街だった。
スイスの南端、イタリアとの国境に近い場所にある。街の中心にルガーノ湖が広がっていて、夏には水面が青く輝いた。山が周りを囲んでいた。街並みはイタリア風で、石畳の路地に色鮮やかな建物が並んでいた。
コンヤとは全然違った。チェスターフィールドとも全然違った。
ニコラスはアパートを決めた日、湖のほとりに立ってしばらく水面を見た。
空が湖に映っていた。碧かった。
グレースに写真を送った。
「きれいな街ね」と返ってきた。「こんな場所でサッカーができるのね」
「できる」
「いつか行ってみたいわ」
ニコラスはスマホを見た。
「いつでも来い」と打った。
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最初の練習、ロッカールームに入ると、すぐに声をかけられた。
「ニコラス・ロメロだな!」
振り返ると、浅黒い肌に白い歯を見せて笑っている男がいた。中くらいの背丈で、体は締まっていた。背番号27番のユニフォームを持っていた。
「ドスサントスだ。ジュリオ・ドスサントス。よろしく」と流暢な英語で言って手を差し出した。
ニコラスは握手した。
「お前のプレー、映像で全部見た」とドスサントスは続けた。「コンヤの最終節も見た。すごかったな。あのハットトリック」
「ありがとうございます」
「タメ口でいい。俺、二十四歳だから」ドスサントスは笑った。「お前のゴールの嗅覚、ここで活かしてくれ。俺がボールを運ぶ。お前が決める。それだけでいい」
ニコラスは少し間を置いた。
「本当にそれができるのか」
「できる」ドスサントスは迷いなく言った。「ここのチームはそういうチームだ。見ていればわかる」
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その言葉は、本当だった。
最初の練習から、違いは明らかだった。
ボールが動いた。プレスが速かった。奪ったらすぐに前に運んだ。パスコースが常に複数あった。ニコラスがゴール前でフリーになる場面が、コンヤとは比べものにならないほど多かった。
チミニャーニという二十六歳のMFは、無駄なパスを出さなかった。常に前を向けるボールを、受けやすい場所に置いた。
ビスリミという二十二歳のFWは、自分が得点しなくてもかまわないという顔でスペースに走り続けた。ニコラスのためのコースを作り続けた。
ファリネッリ監督は練習中、ほとんどニコラスに指示を出さなかった。他の選手には細かく指示を出したが、ニコラスには「そこでいい」とだけ言った。
練習後、ニコラスはドスサントスに言った。
「ここは、コンヤと全然違う」
「そうだろ」ドスサントスは笑った。「どう違う」
「ボールが来る」
「それだけか?」
「それだけで全然違う」
ドスサントスはしばらくニコラスを見た。それから少し表情を変えた。
「コンヤ、大変だったんだな」
ニコラスは何も言わなかった。
「ここでは大変じゃない。俺が保証する」ドスサントスは肩を叩いた。「いっぱい決めてくれ。俺達がいっぱい運ぶからな」
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リーグ第三節を終えて、ニコラスは八ゴールを挙げていた。
三試合で八点。チームメイトたちはそれを当然のように受け入れていた。驚かなかった。「ニコラスが決めるのは当たり前だ」という空気がすでにあった。
ニコラス自身も、何かが変わったと感じていた。
ペナルティエリアに入った瞬間の感覚が、コンヤのころと違った。正確には、コンヤの最終節、あのガラタサライ戦の後から違った。
あの三点目のことを、今でも時々思い出した。時間が遅くなって、GKの重心が傾く方向が、動く前から分かった。打つべきコースが光って見えた。
あれが何だったのか、言葉にはできなかった。でも体はあの感覚を覚えていた。
ペナルティエリアに入るたびに、あの夜の断片が戻ってきた。GKがどこに動くか。DFがどこに重心を乗せているか。ボールがどのコースに入れば入るか。考えるより先に、体が選んでいた。
コンヤでは、そこまで辿り着くのに一人で中盤まで下がってボールを奪わなければならなかった。ルガーノでは、チーム全員プレスが上手い。ドスサントスがボールを運んでくれる。チミニャーニがコースを作ってくれる。ビスリミがスペースを作ってくれる。エリアの中で待っていられる。
あの夜の感覚を、毎試合使えるようになっていた。
第四節は、ホームでのFCバーゼル戦だった。
前半四十分、ニコラスはペナルティエリア内でドスサントスからのスルーパスを受けた。DFが寄せてきたが、体をぶつけて弾いた。GKと一対一になった。
右足で右隅に流し込んだ。
後半開始直後、四十六分。相手のクリアボールをチミニャーニがカットした。ドスサントスが前を向いて、ニコラスへの縦パスを選択した。裏に抜け出した。GKが飛び出してきた。
冷静に左に流した。
二対〇。
四十八分、今度はドスサントスにアシストした。右サイドから崩した場面で、ニコラスがシュートコースに入ってきたのでDFが二枚寄せた。その一瞬で、ドスサントスへのコースが開いた。パスを出した。ドスサントスが左足で流し込んだ。
「ナイスパスだ!」とドスサントスがニコラスの肩を叩きながら叫んだ。
ニコラスは何も言わなかった。でも悪くなかった。
七十分、ペナルティエリアから少し外の位置でボールを受けた。DFが距離を取っていた。ロングシュートを打てる場面だった。
打った。
ボールはポストに当たって跳ね返ってきた。
惜しかった。でもニコラスはそれを表情に出さなかった。次だ、と思った。
結果は三対〇。ニコラスは二ゴール一アシストだった。
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試合後、ファリネッリが言った。
「七十分のシュート、あそこは打って正解だ。続けろ」
「入りませんでした」
「入らなくても正解だ。あの距離から打てる選手がいると相手は知った。次から守備ラインが下がる。それだけで前のスペースが広くなる」
ニコラスは少し間を置いた。
「続けます」
ファリネッリは小さく頷いた。「お前は賢い」
ロッカールームに戻ると、ドスサントスが騒いでいた。
「六節で十四点だぞ、このペース!シーズン七十点は行くんじゃないか!」
チミニャーニが苦笑いしながら「さすがに無理だろ」と言った。
「何がさすがにだ、俺はニコラスを信じてる!」
ビスリミが静かに「でも確かに、このペースはすごい」と言った。
ニコラスは着替えながらその声を聞いていた。
チェスターフィールドのロッカールームを思い出した。テリーとマッコールとゲイリー。あの賑やかさと少し似ていた。いや、もっと賑やかだった。
悪くなかった。
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第六節が終わって、ニコラスは十四ゴールを挙げていた。
その夜、グレースに電話した。
「元気か?」
「元気よ。ルガーノはどう?」
「いい」
「チームは?」
「いいチームだ」ニコラスは少し間を置いた。「コンヤとは全然違う」
「よかった」グレースは言った。「聞こえるわよ、声が少し違うもの」
「何が違う」
「去年より声が軽いわ」
ニコラスは窓の外を見た。ルガーノの夜に、湖の水面が光っていた。
「こっちに来るか」と言った。
「え?」
「スイスに。ルガーノに。いい場所だ」
グレースはしばらく黙っていた。
「……考えてみる」と彼女は言った。声が少し柔らかかった。
「いつでも来い」
電話が切れた。
ニコラスは湖を見た。
チェスターフィールドの空は灰色だった。コンヤの夜空は星が多かった。ルガーノの夜は、湖が光っていた。
どこに行っても、空は違う顔を見せた。
そのことが、悪くないと思った。




