ゾーン
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最終節の朝、ニコラスは目が覚めた。
眠れなかったわけではなかった。ただ、体が起きることを選んだ。アパートの窓から外を見ると、コンヤの街がまだ暗かった。地平線の端がほんのわずかに白み始めていた。
台所でお湯を沸かした。お茶を淹れた。
テーブルに座って、何も考えなかった。
考える必要はなかった。昨夜までに全部頭に入れた。ガラタサライのGKアルスランの癖、最終ラインの高さ、プレスのタイミング。やるべきことはわかっていた。
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キックオフは午後八時だった。
ホームスタジアムは満員だった。コンヤスポルが本気で優勝を狙えるシーズンは、クラブの歴史でも珍しかった。スタンドは緑と白で埋まっていた。試合前から歌声が響いていた。
ロッカールームでコーチが話した。
「今日は一つだけ言う。勝て」
それだけだった。
チームメイトたちが頷いた。エムレがニコラスの肩を叩いた。ニコラスは何も言わなかった。でも頷いた。
ピッチに出るとき、スタンドの歓声が体に当たった。
ニコラスはその瞬間、グレースの顔を思った。碧いスカーフを巻いて、まっすぐこちらを見ているあの顔を。
前を向いた。
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前半三分、失点した。
ガラタサライの右サイドからのクロスに、コンヤのDFが競り負けた。ヘディングでゴール右隅に叩き込まれた。
スタジアムが静まった。
ニコラスはセンターサークルに戻りながら、前を向いた。
まだ開始三分だ。あと八十七分ある。
前半十八分、追加点を許した。
エムレのパスが相手にカットされた。カウンターを受けた。GKが飛び出したが、間に合わなかった。
〇対二。
スタジアムの空気が変わった。諦めに似た何かが漂い始めた。ベンチで副コーチが頭を抱えた。
ニコラスはセンターサークルに戻りながら、周りを見た。
チームメイトの顔が、重かった。肩が落ちていた。目線が下を向いていた。
ニコラスには、その感覚がわからなかった。
まだ〇対二だ。前半も終わっていない。何が終わったんだ。
エムレと目が合った。エムレも同じ目をしていた。まだやれる、という目を。
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前半三十七分、一点を返した。
エムレからの縦パスがニコラスの足元に入った。DFが寄せてきた。体をぶつけた。DFが吹っ飛んだ。GKと一対一になった。
アルスラン。昨夜映像で一時間見た男だ。
左に重心が傾く癖がある。右に打てばいい。
でもニコラスはその瞬間、右ではなく左に打った。
アルスランが右に動いた。ボールは左のサイドネットに突き刺さった。
重心の癖を逆手に取った。映像で見た癖を、あえて利用して逆を取った。考えたのではなかった。体が選んでいた。
一対二。
スタジアムが揺れた。
ニコラスは振り返りもせず、センターサークルに向かった。まだだ、まだ一点足りない。ハーフタイムまで時間がない。
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ハーフタイム、ロッカールームは静かだった。
コーチが話した。戦術の修正を指示した。でも選手たちの顔はまだ重かった。一点差というのは、心理的に重い数字だった。
ニコラスは水を飲みながら、何も言わなかった。
でも立ち上がるとき、エムレに言った。
「後半も同じでいい。お前が縦を入れてくれれば、俺が決める」
エムレは頷いた。
「二点取れるか」
「取る」
エムレは少し笑った。「お前が言うと、なぜか信じられる」
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後半が始まった。
コンヤスポルは前がかりになった。リスクを取った。その分、カウンターを受ける危険があった。でもそれしかなかった。
後半十二分、決定機が来た。
ニコラスがペナルティエリア内に侵入。クロスが来た。合わせようとした。DFに体をぶつけられて、倒れた。
笛が鳴った。
PKだった。
ニコラスが立ち上がった。ボールを拾った。スポットに置いた。
スタジアムが静まり返った。
アルスランがゴールの前に立った。背が高く、両腕を広げると、ゴールが小さく見えた。
ニコラスはアルスランを見た。
昨夜見た映像が頭にあった。PKのとき、アルスランは必ず一歩右に動く癖がある。だから左に打てばいい。
助走を取った。
左に打った。
アルスランが右に動いた。ボールが左のゴールネットを揺らした。
二対二。
スタジアムが弾けた。
ニコラスはガッツポーズもせず、腕を広げることもせず、ただセンターサークルに向かった。まだ一点足りない。
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後半三十分、ガラタサライが猛攻を仕掛けた。
守備に追われる時間が続いた。ニコラスも中盤まで下がって守備をした。体力を使った。でも気にしなかった。
後半三十八分、エムレがボールを奪った。
ニコラスはその瞬間、走り出していた。
長い縦パスが来た。オフサイドギリギリだった。でも足が止まらなかった。ボールを追った。DFが追ってきた。速かった。でもニコラスの方が速かった。
ペナルティエリアに入った。
その瞬間、何かが変わった。
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後でどう説明すればいいか、ニコラスにはわからなかった。
時間が遅くなった。
そう感じた。DFの足が、スローモーションで動いていた。GKのアルスランが飛び出してくる軌道が、始まる前から見えていた。左サイドのスペースが、光って見えた。
体が先に動いていた。
右足でボールをコントロールした。DFをかわした。アルスランが飛び出してきた。
コースが見えていた。
ゴール右隅の、GKの手が届かない場所。角度があった。難しいシュートだった。でもニコラスには、そこしか見えていなかった。
右足を振り抜いた。
ボールがゴール右隅に吸い込まれた。
三対二。
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スタジアムが止まった。
一秒だけ、全員が息を呑んだ。
それから爆発した。
実況の声がスタジアムに響いた。
「ロメロォォォ――!三点目!コンヤスポル、ついに逆転!ニコラス・ロメロ、ハットトリック!十八歳が、ガラタサライを、一人で、ひっくり返した――!」
ニコラスは走った。どこへ向かうかもわからず、ただ走った。スタンドに向かって走って、フェンスの前で立ち止まった。
何かが胸の中から溢れた。
ずっと抑えていた何かが。チェスターフィールドの夜から、コンヤの孤独から、カップ戦の敗北から、一人でグラウンドに残った夜から、ずっと抑えていた何かが。
ニコラスは空に向かって吠えた。
声が出た。自分でも驚くような声が。
スタジアムが一瞬、静まった。
誰もがニコラスを見た。一年間、無表情でゴールを決め続けた男が、両拳を握って、天に向かって咆哮していた。
その光景に、スタンドが一拍遅れて爆発した。
「見たか!ロメロが吠えた!あの無表情のロメロが!」と実況が叫んだ。「このスタジアムにいる全員が、今夜この瞬間を一生忘れない!」
エムレが最初に飛んできた。
「お前が笑った!いや、叫んだ!初めて見た!」と叫びながら抱きついた。
後ろから何人も重なってきた。コーチが走ってきた。ベンチから全員が飛び出してきた。ニコラスは人の波に飲み込まれて、倒れそうになりながら、それでも立っていた。
スタンドから「ロメロ」という声が降ってきた。
コンヤの、異国の、この街の人間たちの声が。
ニコラスはその声の中に立って、空を見た。
夜のスタジアムの空だった。照明が白く輝いていた。星は見えなかった。でも広かった。
チェスターフィールドの灰色の空とは違う空だった。
でも同じ空だった。
どこに行っても、空だけは繋がっている。
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試合終了の笛が鳴ったのは、それから七分後だった。
三対二。
コンヤスポルが勝った。
同時刻に行われていたフェネルバフチェの試合は引き分けに終わった。
首位のガラタサライを直接叩き、二位のフェネルバフチェが勝ち点を落とした。
コンヤスポルが、逆転でリーグ優勝した。
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ロッカールームは騒然としていた。
選手たちが叫んでいた。コーチが泣いていた。スタッフが抱き合っていた。
ニコラスはロッカーに座って、ユニフォームの裾で顔を拭いた。汗なのか、何か別のものなのか、自分でもわからなかった。
エムレが隣に座った。
しばらく黙っていた。
「お前、泣いてるか」とエムレが言った。
「汗だ」
「そうか」エムレは笑った。「俺は泣いてる」
ニコラスは何も言わなかった。
「あの三点目」とエムレが言った。「すごかったな」
ニコラスは少し間を置いた。
「全部見えていた」
「全部?」
「コース、GKの動き、DFの足。全部、始まる前からわかっていた」
エムレはしばらく黙った。
「俺、サッカー十五年やっているんだ」と彼は言った。「でもあんな動きを間近で見たのは初めてだ」
「俺も初めてだった」
「どういう感覚だった?」
「時間が遅くなった」ニコラスは自分の右手を見た。まだ感触が残っていた。
エムレはしばらくその手を見た。
「怖い十八歳だ」と言った。コーチと同じ言葉だった。
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表彰式を終えて、ニコラスはグラウンドに一人残った。
照明が落ちていた。スタンドはほぼ空だった。遠くで清掃スタッフが働いていた。
ニコラスは芝の上に立って、空を見上げた。
さっきより星が見えた。照明が消えたからだ。
スマホに通知が来ていた。グレースから。ゾーイから。アリスターから。ゲイリーから。テリーから。
全部後で読もうと思った。でも一つだけ、アリスターのメッセージを開いた。
「ニック、見てたぞ。2点ビハインドから一人でひっくり返すって何なんだ!?しかも最後のゴール、あのコース誰が打てるんだよ!GKも完全に逆取られてたぞ!お前やっぱりおかしい。最高だった」
ニコラスは少し笑った。
返信を打った。
「分からない。でもまだ途中だ」
送った。
すぐに返信が来た。
「途中って言えるのがまたニックらしい。早く来てよ。プレミアで待ってるから」
ニコラスはスマホをポケットに入れた。
芝の上に立って、もう一度空を見た。
コンヤの空だった。この一年、何度も見た空だった。孤独な夜に見た空。負けた夜に見た空。そして今夜の空。
いつかプレミアのスタジアムから、空を見る。
その日まで、まだやることがある。
ニコラスはグラウンドを歩いて、出口に向かった。
背番号29のユニフォームが、夜風に少しだけ揺れた。




