適応
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五月になると、コンヤの空気が変わった。
暑さが本格的になってきた。練習後に水を飲む量が増えた。アパートの窓から見える街路樹が青々と茂って、イングランドとは違う種類の夏が近づいていた。
ニコラスはその変化を、体で感じていた。
異国の季節が、少しずつ自分のものになっていた。
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カップ戦の敗北から二週間が経っていた。
リーグ戦は続いていた。チームは四位。残り八節。ニコラスは二十九ゴール。数字だけ見れば順調だったが、ニコラスの中で何かが変わり始めていた。
ゾーイに言われたことを、繰り返し考えていた。
エムレを使え。トゥリュチを経由しなくても、前を向ける場面は作れる。
試してみた。
練習中、ニコラスは意識的にエムレを探すようにした。ゴール前で待つだけでなく、少し下がってエムレとの距離を縮めた。エムレはパスの精度が高かった。受けやすい場所にボールを置いてくれた。
「よくなったな」とエムレが練習後に言った。
「何がだ」
「動き方。前は前線で待つだけだったが、最近は受けに来る」
「遅かったか」
「いや」エムレは笑った。「気づく選手が少ない。上等だよ」
ニコラスは少し間を置いた。
「俺はまだ下手だ」
「わかってる」エムレはあっさり言った。「でも下手だと分かってる選手は伸びる。分かってない選手は...分かるだろ?」
ニコラスはトゥリュチの顔を一瞬思い浮かべた。何も言わなかった。
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五月の中旬、ゾーイから連絡が来た。
「欧州のクラブがあなたの映像を見始めています」
ニコラスはしばらく間を置いた。
「どこだ」
「まだ具体的には言えません。でも複数います。今シーズンの終わり方が大事です」
「分かった」
「あと」ゾーイは続けた。「最近パスが増えましたね」
「エムレが使いやすい」
「エムレだけじゃなく、他の選手にも出るようになっています。映像で見ました」
ニコラスは少し間を置いた。
「ゾーイ」
「なんですか」
「全試合見てるって言ってたな」
「言いました」
「それは仕事だからか」
少し間があった。
「仕事です」とゾーイは言った。「でも仕事だから見てるだけじゃないです」
「どういう意味だ」
「あなたが成長するのが、面白いんです。」
ニコラスは少し間を置いた。
「面白い?」
「ええ。こんなに早く変わる選手は珍しい。最初の映像と今の映像を見比べると、別人みたいです」
ニコラスはアパートの窓を見た。コンヤの夕空が広がっていた。
「チェスターフィールドの最初の映像も見たのか」
「もちろん。あなたに連絡する前に全部見ました」
「最初はひどかった」
「ひどかったです」ゾーイはきっぱり言った。「フォームはばらばら、視野は狭い、ポジショニングも粗い」
「それで連絡してきたのか」
「ゴールへの嗅覚だけは、誰にも教えられないものです」ゾーイは言った。「それがあるだけで十分でした」
ニコラスはしばらく黙っていた。
「ありがとう」と言った。
「どういたしまして」ゾーイは少し間を置いた。「珍しいですね、お礼を言うの」
「たまには言う」
「たまにでもいいです」
電話が切れた。
ニコラスは窓の外を見た。夕空がオレンジに染まっていた。チェスターフィールドの最終節の空に、少しだけ似ていた。
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六月、チームは三位に浮上した。
エムレ経由の攻撃が機能し始めていた。ニコラスが前線で受けるだけでなく、一度下がってエムレに預けて、また前に走る。その動きを繰り返すことで、相手のマークがずれる場面が増えた。
三十二ゴール目は、その形から生まれた。
エムレからのスルーパスを、ニコラスが裏に抜け出して受けた。技術的には単純なゴールだった。でも動き出しのタイミングが完璧だった。オフサイドギリギリの一歩。半年前のニコラスには判断できなかったことだった。
練習後、コーチが言った。
「動き方が変わったな」
「エムレが使いやすい」
「エムレだけじゃない。全体的に周りを見るようになった」
ニコラスは何も言わなかった。
「トゥリュチとはどうだ」とコーチは聞いた。
「問題ない」
「本当か?」
「プレーに支障はない」
コーチはしばらくニコラスを見た。
「お前は嘘をつかないが、全部を言うわけでもないな」
「必要なことは言います」
コーチは小さく笑った。「そういうとこだよ」と言って、行ってしまった。
ニコラスは何を指して「そういうとこ」なのか、よくわからなかった。でも悪い意味ではなかったと思った。
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七月のある夜、アリスターから電話が来た。
珍しく、メッセージではなく電話だった。
「元気にしてる?」
「元気だ」
「得点王争いはどんな感じ?」
「三十四点。二位と六点差」
「ほぼ確定じゃないか」アリスターは笑った。「さすがだな」
「チームの順位の方が大事だ」
「三位か。優勝争いには絡めるの?」
「首位と勝ち点四点差だ。残り四節。可能性はある」
「すごいじゃないか!」アリスターは少し間を置いた。「コンヤ、楽しんでる?」
ニコラスはしばらく考えた。
「楽しいかどうかはわからない。でも、悪くない」
「去年より?」
「去年の方が、楽しくはあった」
「そうか」アリスターは言った。「俺もシーズンまあまあだ。来年はもっとやれると思う」
「ユナイテッドはどうだ」
「プレッシャーはあるよ。でも好きだ。あのスタジアムの空気が」
ニコラスは少し間を置いた。
「オールドトラッフォードか」
「ああ。あそこで試合するたびに、特別な感じがする。満員の日は特に」
ニコラスは何も言わなかった。
でも頭の中に、何かが灯った。満員のスタジアム。あの空気。いつかそこに立つ。
「ニック」とアリスターが言った。
「何だ」
「来シーズン、どうするつもり?イングランドに戻ってくるの?」
「いや、スイスのクラブと話が進んでいる」
「スイス?」アリスターは少し間を置いた。「プレミアじゃないのかい?」
「プレミアが最終目標だ。でも代理人が言っている。トルコから直接プレミアに行くにはもう一段必要だと。」
「なるほど」
「欧州カップ戦に出られる。チームがきちんと機能している。俺を中心に使う気がある。その三つが揃ったクラブだと言っていた」
「信頼できる場所を選んだってわけか」アリスターは少し間を置いた。「コンヤは違ったかい?」
ニコラスはしばらく考えた。
「コンヤで学んだことは多い。でも、チームが信頼できなかった」
「そっか」アリスターは言った。「じゃあスイスで結果を出して、プレミアに来い。待ってるよ」
ニコラスはその言葉を、しばらく胸の中で嚙み締めた。
「そのつもりだ」と短く返した。
「じゃあまた」
電話が切れた。
アパートの窓から、コンヤの夜空が見えた。星が出ていた。
いつかプレミアのスタジアムから、空を見たい。
そう思った。
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八月、残り二節。
チームは三位のまま。首位のガラタサライまで勝ち点三点差。二位のフェネルバフチェまで一点差。
逆転優勝の条件は単純だった。残り二試合を全勝して、上位二チームがどちらかで取りこぼすこと。
エムレが練習後に言った。
「可能性はある」
「ある」とニコラスは言った。
「お前、最近ちょっと変わったな」
「何がだ」
「前は一人で全部やろうとしてた。最近は俺に預けることが増えた」
ニコラスは少し間を置いた。
「預けた方が効率がいい」
「効率」エムレは笑った。
「何か問題があるか」
「ないよ」エムレは笑いながら立ち上がった。「ただ、もう少し素直に言ってもいいと思うけどな」
「素直に言った」
「お前の素直は、まだ遠回りだ」エムレは肩をすくめた。「まあいい。最終節、頼むぞ」
ニコラスは頷いた。
最終節。
ガラタサライ。
それまでの全部が、そこに向かっていた。
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前節を三対一で勝利し、チームは三位のまま最終節を迎えた。
ガラタサライは前節を引き分けていた。フェネルバフチェも引き分けた。勝ち点の差は一のまま変わらなかった。
最終節、コンヤスポルが勝てば、同時刻に行われるフェネルバフチェの試合の結果次第で優勝の可能性があった。
前夜、ニコラスはアパートで相手GKの映像を見た。
名前はアルスラン。三十二歳のベテランで、トルコ代表の正GKだった。反応速度が高く、ポジショニングが正確で、コースを消すのが上手かった。簡単な相手ではなかった。
一時間見て、スマホを置いた。
窓の外にコンヤの夜があった。この街に来て、一シーズンが経とうとしていた。孤独だった。苦しかった。でも来てよかったと思っていた。
グレースにメッセージを送った。
「明日、大事な試合がある」
すぐに返信が来た。
「見てるわよ。頑張って」
ニコラスはスマホを置いた。
早めに寝た。
明日に備えて。




