カップ戦
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トルコカップのベスト16は、四月の第二週だった。
相手はアンカラギュジュ。リーグ戦では中位のチームだったが、カップ戦では別の顔を見せることがある。コーチはミーティングで「油断するな」と言った。ニコラスはその言葉を、文字通りに受け取っていた。
試合前夜、ニコラスはアパートで一人だった。
翌日の相手のGKの映像を繰り返し見た。立ち位置の癖、飛び出すタイミング、左右どちらに強いか。一時間かけて頭に入れた。それからスマホを置いて、早めに寝た。
準備はできていた。
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試合は、最初から嫌な流れだった。
前半三分、自陣でのパスミスから失点した。トゥリュチではなかった。センターバックのボールコントロールが乱れて、相手FWにさらってしまった。
ニコラスはセンターサークルに戻りながら、前を向いた。
まだ時間はある。
前半十五分、ニコラスに決定機が来た。エムレからの縦パスが通って、GKと一対一になった。昨夜映像で確認した、あのGKだった。右に重心が傾く癖があった。左に打てばいい。
打った。
GKが止めた。
重心の癖は正確に読めていた。でもGKが逆を突かれながらも、長い腕を伸ばして弾いた。完璧な読みだったが、完璧な反応に負けた。
ニコラスはゴールの前に立って、一瞬だけ目を閉じた。
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前半終了間際、追加点を許した。
またパスミスからだった。今度はトゥリュチだった。プレッシャーを受けてバックパスを選択したが、それが短くて相手に拾われた。カウンター。守備が対応できなかった。
〇対二でハーフタイムを迎えた。
ロッカールームは重かった。コーチが話していたが、ニコラスの耳にはあまり入らなかった。頭の中で前半の場面を繰り返していた。決定機を外したシーン。あそこで決めていれば、流れは変わっていた。
「ニコラス」
エムレが隣に座ってきた。
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「顔が怖い」
「いつもこういう顔だ」
エムレは少し笑った。「いや、今日は特別怖い」
ニコラスは何も言わなかった。
「後半、俺がもっと早く縦を入れる。お前は前にいてくれ」
ニコラスは頷いた。
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後半、ニコラスは一点を返した。
右サイドからのクロスに飛び込んだ。競ったが、体が勝った。ヘディングでゴール右隅に叩き込んだ。
一対二。
スタジアムが少し沸いた。が、同点にはまだ遠かった。
残り二十五分、コンヤスポルは前がかりになった。それが裏目に出た。カウンターを受けて、三点目を失った。
一対三。
その瞬間、ニコラスはピッチの中央に立って、スタジアムを見た。
終わった、と思った。感情的な意味ではなく、数字として。残り時間と点差を計算したら、そういう結論になった。
それでも走った。最後まで走った。結果は変わらなかった。
試合終了。一対三。
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チームメイトたちはロッカールームに引き上げた。
ニコラスは引き上げなかった。
グラウンドの端に行って、ゴールポストに背中をもたれた。スタジアムの照明が少しずつ落ちていた。観客が帰っていく足音が遠くに聞こえた。
空を見上げた。
コンヤの夜空は、チェスターフィールドより星が見えた。それだけは認めていた。
何が悪かったかは、わかっていた。決定機を外したこと。チームのパスミスをカバーしきれなかったこと。自分にできることはやった。でもそれで足りなかった。
足りなかった。
その言葉が、頭の中に残った。
チェスターフィールドでは、足りないと思ったことがなかった。ここでは、何度足りなかったと思っただろう。言葉が足りない。連携が足りない。チームが足りない。自分が足りない。
スマホを取り出した。
ゾーイに電話をかけた。
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三回コールしたところで出た。
「試合、見ました」とゾーイは言った。第一声がそれだった。
ニコラスは何も言わなかった。
「一対三は、数字だけ見ればそうです。でも」
「決定機を外した」
「ええ」
「あそこで決めていれば」
「そうかもしれない。でも」
「わかってる」ニコラスは言った。「一つのシュートで試合は決まらない。サッカーはそういうものだ」
「わかってるなら」
「でも」
ゾーイは黙った。
ニコラスはしばらく空を見ていた。
「悔しい」
言葉が出た。自分でも予想していなかった言葉が。
「負けることは何度もあった。でも今日みたいに、何もできなかったと感じたのは初めてかもしれない」
ゾーイはしばらく黙っていた。
「何もできなかったわけじゃない」と彼女は言った。「一点取った。決定機も作った。中盤まで下がってボールを奪った。私には全部見えていました」
「それで負けた」
「ええ」ゾーイは静かに言った。「でもニコラス、聞いてください」
ニコラスは黙った。
「今日あなたが感じたものを、忘れないでください。この悔しさを。これがあるから、次に向かえる。今日感じなかったら、あなたはただ数字を積み上げるだけの機械になっていた」
ニコラスはゴールポストを見た。錆が少し浮いていた。
「機械の方が楽だ」
「そうかもしれない」ゾーイは言った。「でもあなたは機械じゃない。それがあなたの強さです」
しばらく沈黙が続いた。
コンヤの夜が深まっていた。虫の声がしていた。
「一つだけ聞いていいですか」とゾーイが言った。
「何だ」
「今、どこにいますか?」
「グラウンド」
「一人で?」
「ああ」
少し間があった。
「アパートに帰って、何か食べてください。それだけでいいです」
「食欲がない」
「食べなくていいです。台所に立つだけでいい」
ニコラスは少し間を置いた。
「なんでそれが大事なんだ」
「人間でいることを、この間言いましたよね」
ニコラスは空を見た。星が出ていた。
「……わかった」
「ありがとうございます」
電話が切れた。
ニコラスはしばらくグラウンドに立っていた。
それからゆっくり、アパートへ向かって歩き始めた。
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アパートに帰って、台所に立った。
冷蔵庫を開けた。食材が少し残っていた。グレースに教わったスープのレシピを思い出した。玉ねぎを切った。鍋に入れた。火をつけた。
切ることに集中した。煮えるのを待った。
スープが出来上がったころには、少しだけ落ち着いていた。
食べながら、グレースに短いメッセージを送った。
「負けた」
すぐに返信が来た。
「お疲れ様。スープでも飲んで」
ニコラスは鍋を見た。
「飲んでる」
「そう」少し間があって「次があるわよ」と来た。
ニコラスはスマホを置いて、スープを飲んだ。
塩が少し足りなかった。でも温かかった。
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翌日の練習、ニコラスはいつも通り一番早く来た。
グラウンドに一人で立って、ボールを蹴った。昨日の決定機を再現して、また蹴った。GKがいない場所に、何度も蹴った。
悔しさを燃料にするのは、チェスターフィールドのころから変わらなかった。
ただ一つだけ、昨日と今日で変わったことがあった。
一人で抱えなかった。
それだけで、少しだけ違う朝だった。




