眼の底の声
第1章 静かな侵入
いつからそれがあったのか、私ははっきりと思い出すことができない。朝の排水音にまぎれて、ふと気づいたときには、もうそこにぽっかりと、壁の内側へ口を開いていたのだった。便器の斜め上、視線をやや上げたその先、珪藻土の壁紙に塗り込められた無数の凹凸の間に、他のどれとも異質な円形の黒があった。
五百円玉ほどの大きさ、という言い方が正確だと思う。だがその直径にしても、日を追うごとに幾分広がっているような錯覚を、私は捨てきれなかった。それはあたかも、静かに呼吸しているかのように、壁の中から湿り気を伴って微かに脈動していた。私はしばし、それを眺めながら用を足すことができなくなり、便意を催しても洗面台で済ませるようになった。
不快感はやがて、見過ごせないものとなった。私は穴の輪郭にそっと指を沿わせてみた。ざらつきのある外周は、壁の材質とほとんど変わらず、だが中心に近づくにつれて冷たく、滑らかで、何よりも深い暗さが指先を包んだ。ライトを当ててみた。光は奥へと進まず、ただ、そこに吸い込まれたまま帰ってこなかった。まるで光そのものが拒まれているかのようだった。
私はガムテープを引き出し、十字に貼り合わせた。貼るときに、わずかに冷たい風が指の甲に触れたような気がした。だが、それは思い違いかもしれない。上からパテで隙間を埋めた。仕上げに白い塗料を塗った。乾くまでの時間を長く感じた。
翌朝、私は忘れかけていたその存在を思い出すことになる。用を足しに入ったとき、白い壁の、ちょうど昨晩塗った部分の中央に、小さな黒点があった。私はそれを最初、埃か小虫の影かと思った。が、目を凝らすとそれは、再び口を開いていた。昨日の作業がなかったかのように、穴はそこに戻っていたのである。
私は震えた。風はなかったはずだのに、便器の水が微かに波打っているように思えた。穴の奥から、何かがこちらを見ているという感覚。理屈で説明のつかない、ぬるりとした視線のようなものが、首の裏を伝って背中にまで滑っていく。
翌日も、その次の日も、私は同じことを繰り返した。穴を塞いでも、翌朝には元に戻っている。私は観察を始めるようになった。穴の縁が日に日になめらかになっていくように思えた。穴の周囲がわずかに湿気を帯びてくる。嗅覚は、わずかに錆びたような、あるいは生乾きの鉄分のような匂いを感じ取った。それは、嗅げば嗅ぐほどに皮膚の裏まで染みつくような気配だった。
ある晩、私は穴の前にしゃがみ込み、深く呼吸をした。鼓動が速くなるのを感じながら、私は携帯の懐中電灯を使って、もう一度、穴の奥を覗き込んだ。だが、何も見えない。ただ、暗闇がある。暗闇があるだけで、それ以上はなかった。けれども、私はそこで確かに見たのだ。
——目である。
血のように赤い筋の浮いた、乾ききらない濁った眼球が、何も言わず、ただ、穴の奥からこちらをじっと見ていた。否、見られた、という感覚が私の思考を凍らせた。自分の意思で覗いたというよりも、すでにあちらから覗き返されることを、穴の存在が最初から決めていたかのような、そういう逆転の感覚。
私は目をそらせずにいた。しばらくの間、いや、ほんの数秒だったのかもしれない。時間の流れが変容していた。視線を切ったとき、私は自分の背筋から足の先にかけて冷たい汗が張りついていることに気づいた。立ち上がることができず、私はその場に膝をついたまま、壁の冷たさを背中で感じながら、しばしうずくまった。
家の中の音が遠くなっていた。冷蔵庫の稼働音、時計の針のかすかな移動音。すべてが、自分と隔たった膜の向こうから聞こえてくるような、歪んだ静寂のなかで、私はただ、穴が存在しているという事実だけを反芻していた。
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第2章 目玉の奥
私は、その日以降、あの穴の存在から完全に自由である時間を持てなくなった。
風呂に入っているときも、食事をしているときも、街の雑踏にまぎれているときでさえ、脳裏には便所の壁が浮かび上がる。白い壁の中央に開いた、あの黒い円が、私の視線を吸い寄せ、内臓の一部にまで侵入してくる。そんな感覚であった。
私は確認した。毎日、目を凝らして見つめた。記録用に定規をあてて、写真を撮り続けた。だが、正確な長さや距離など、どうでもよくなっていく。大事なのは「感覚」だった。それは一日に一ミリずつ、たしかに前へ、こちらへせり出してきていた。
最初は、まるで壁の内側にある何かの気配だったものが、徐々に輪郭を持ちはじめ、今ではもう、肉の湿りと、硝子の乾きをあわせもつ「眼球」として、私の記憶のなかに定着していた。
この目は、いったい誰のものなのか。
いや、そもそもこれは、人の目なのか。
あまりにも濁っている。あまりにも感情が感じられない。しかも、ただ見ているだけであるのに、その視線は私の精神をどこまでも消耗させる。いっそ怒鳴りつけてやろうかと思ったこともある。けれど、声を発することはできなかった。声をかける、というのは、その存在を受け入れてしまうことであるように思えたのだ。
私は誰にも話さなかった。誰かに説明しようとしても、説明の言葉を口にした瞬間、あの目玉がさらに一歩前に出てくるような気がしてならなかった。
ある午後、私は旧友と昼食をとっていた。彼の言葉の中に、ふと、引っかかる表現があった。
「……それ、三日前の夜の話だよな? おまえ、確かにその場にいたじゃないか」
私は眉をひそめた。そんな場面にいた記憶が、まるでない。まったく、何一つ思い出せないのだ。日付と時間がそこに存在したことは理解できるのに、その時間に自分が何をしていたか、その記憶の糸口にすら触れられない。穴のような空白が、私の頭の中にぽっかりと開いていた。
「……その日、なにかあったのか?」
問いかけに、私は曖昧に笑った。だが、心の奥では冷たい水が溜まっていくような感触を覚えていた。
帰宅後、私はまたあの穴の前にしゃがみ込んだ。穴は、もはやただの円ではなかった。湿り気を帯びた皮膚が、壁の表面から突き出すように膨らみ始めている。その中には確かな肉があり、血管が微かに鼓動していた。
その匂い——鼻を近づけると、そこにはあの生臭さがあった。血の匂い。湿った鉄の匂い。死後しばらく経ったものから発せられるような、腐敗とも発酵ともつかぬ重たく粘る気配が、穴の内側からふわりと流れてきていた。
私はその場から離れられなかった。視線を合わせることでしか、あの目玉との関係性を保てない気がした。
気づけば、穴の奥からは、小さな音が聞こえていた。はじめは気のせいだと思っていた。しかし確かに、そこには音があった。水の滴るような、あるいは湿った何かが壁の向こう側を這いずるような、微かな音。耳をすませばすますほど、その音は明瞭になっていく。
私は耳を寄せていた。やがて、音の奥に、何か囁くような、呻くような気配があった。人語にはならない。だがそれは、言葉にならぬ何かの意志のようなものとして、こちらに届いてくる。
私は再びその中を覗き込もうとした。だが今度は、穴の奥がわずかに光を帯びていた。かすかに揺らぐ、緑がかった光。その奥で何かが蠢いている。
私は思った。あれは、「私」である、と。
この思考は、明らかにどこか狂っている。だが、その狂気を排除するためには、もっと強い何かが必要だった。
私は震える手で、もう一度、穴に顔を近づけた。
そして、目を合わせた。
目は、たしかに私を見ていた。だがそれ以上に、その目は「何かを知っている」目だった。
私がまだ知らぬことを、何か重要なことを、向こうの「私」は知っている。そしてそれは、私の中にあった何かを、無言のうちに揺さぶってくる。
記憶の奥で、何かが震え始めていた。
私はしばらく、目を開けたまま、動けずにいた。視界の端で、便器の水面が細かく揺れていた。天井の換気扇が回っていた。だが、その音も遠く、私の存在は、穴の中へ、じわじわと引き寄せられていくようだった。
視線が、穴の奥へ、ずぶずぶと落ちていく。
その奥にあるのは、果たして何なのか。
私は知る必要があるのだろうか。
それとも、知らぬままでいられるということが、唯一の救いだったのだろうか。
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第3章 視界の反転
覗いてはいけない——そう思えば思うほど、私はその穴に顔を近づけていた。私の中の「私」は、もはや他人事のように冷静にその行動を眺めていた。そう、眺めていたのだ。私が、私を。
まるで夢のなかで自分の動作を俯瞰しているような感覚。意識の揺れというよりは、地軸の歪み。感覚器官の順序が狂いはじめる。まず鼻がにぶくなった。次いで耳が反響しはじめた。鼓膜の奥で水が鳴っているようだった。
そして、目だ。
見ているはずのものが、まるで違う像へと変貌する。穴の奥には確かに何かがあった。だがその形は、輪郭を持った瞬間、崩れはじめた。見ることが、同時に壊すことになっていた。私の視線そのものが、世界の構造を壊しているように感じられた。
暗がり。湿り。粘度。気配。すべてがひとつの塊になって私の目のなかに流れ込んでくる。
そして、その時だった。
——視界が、裏返った。
ぬるりとした音もなく、目の裏側が世界に触れたような奇妙な感覚。私は、自分の網膜の裏から世界を見ているような錯覚に陥った。色が反転したわけではない。明暗が逆になったのでもない。ただ、空間そのものがねじれ、ひっくり返り、私の内部と外部が混線したのだ。
目の前にあるべき便器は背後に迫り、背中にあったはずの壁が、私の顔の間近で呼吸している。何かが明らかに入れ替わっている。けれど、視線を逸らすことができない。
私は、私を見ていた。
壁の向こう側から、暗闇の中で、私がこちらを覗き込んでいた。
これは錯覚ではない、とそのときの私は信じ込んでいた。どこかで見覚えのある表情、皮膚の質感、眼窩の奥に浮かぶ不安と疑念。そのすべてが、私自身のものとしか思えなかった。
——私は、そこにいたのだ。
その「私」は動かなかった。ただ、穴の奥にとどまり、じっと私の動向を観察していた。私はその視線に貫かれながら、動くことも語ることも許されなかった。思考が無意味になっていた。あらゆる判断が、私の外側に押し出されていた。
不意に、頭の奥で「何か」が弾けた。
金属を打ちつけるような、乾いた破裂音が脳内を走る。眼球の裏から突き上げるような衝撃が、私の全身を震わせた。視界は波打ち、穴の向こう側の「私」と、こちら側の「私」とが、どこまでがどちらなのか、まったく分からなくなっていた。
気づくと、私は床に崩れ落ちていた。息が浅く、身体の一部がしびれている。口の中に生ぬるい味がした。舌先で歯茎をなぞると、血の味がした。
視界の端で、あの目がじっとこちらを見ていた。
それは、穴のなかのものではなかった。
鏡のなかの、自分自身の目だった。
だが、その目は明らかに、さっきまで「向こう側」にいた目だった。見下ろしているのか、見下されているのか、関係が崩れ、どちらが主でどちらが客かの境界が溶けていた。
私は思った。
「もしかすると、もうすでに交替は済んでいるのではないか」
その瞬間、身体の中に何かが滑り込んできたような感覚があった。ひとつの記憶の扉が、音もなく開いた。
——白い壁。無機質な部屋。無表情な人影。針。カーテンの影。椅子の下にこびりついた赤黒い染み。
それは記憶なのか。それとも夢か。いや、そうであってほしいという願望ではなかったか。
私は膝を抱えて便所の床にうずくまったまま、しばらく何も考えられなかった。電球の明かりがわずかにちらついている。時計の音が止まっていた。外の音がまったく聞こえない。まるで、私の存在がこの世界から取り除かれてしまったかのように。
目を閉じると、奥のほうで自分が笑っていた。
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第4章 沈黙の部屋
それは夢だったのか、現実だったのか。どちらであるとも判別のつかないまま、私は薄明の部屋で目を覚ました。窓の外は静かで、灰色の空が低く垂れていた。時計の針は昨晩から動いていない。私はふらつきながら立ち上がり、洗面台に向かった。鏡に映る顔は、明らかに「昨日」と異なっていた。まぶたの重み、口元のしまり、眼窩の奥に宿る何か。それらは確かに私でありながら、見覚えのない質感をまとっていた。
私は口を開き、声を出してみた。かすれたその音は、自分のものとは思えなかった。耳がその声を拒んでいる。鼓膜が震えたが、脳が意味を認識しない。音ではない。響きだけが、空気を裂いていた。
便所の扉の前で、私は立ち止まった。開けるべきではないと、どこかで知っていた。だが、開けなければならないという衝動が、それを上回っていた。
扉を開くと、そこにはあの匂いが漂っていた。生臭さ。鉄と湿気がまじりあい、粘つくように空気中に滞留している。私はその匂いを吸い込みながら、穴の前へと歩を進めた。
目玉は、昨日よりさらにせり出していた。
皮膚の皺が、まぶたの筋が、眼球の奥で脈打っていた。まるで生まれたばかりの胎児のように、赤く、未熟で、だが確かに存在している。壁は呼吸していた。穴の周囲の珪藻土が、汗のような水滴をにじませていた。
私はしゃがみ込んだ。この行為も、もはや日課のようになっていた。あの目と向き合うことでしか、私は自分の現実を確認できなくなっていた。
——お前は誰だ。
私は口に出して問うた。声は返ってこなかった。だが、穴の奥で何かが動いた。微かに、肉が擦れるような音が聞こえた。私は再び目を合わせた。その瞬間、また視界が反転した。
今度は、前ほどの衝撃ではなかった。むしろ、滑らかで自然な移行だった。私の視線は、再び「向こう側」へと誘われた。
向こう側には、部屋があった。
殺風景な、白く明るすぎる部屋。壁には何もなく、天井は異様に高い。床には線が引かれ、中央には椅子がひとつだけ置かれていた。その椅子に、私は座っていた。
——いや、「私らしきもの」が。
私はその姿を凝視した。顔は見えない。だが、姿勢、背中の丸み、手の組み方。すべてが、私と酷似していた。彼——仮にそう呼ぼう——は、微動だにせず座っていた。頭はうなだれており、まるで何かを待っているようだった。
すると、部屋の隅に小さな音がした。白衣を着た人影が数人、静かに現れた。誰も言葉を発さない。無言のまま彼の背後に立ち、何かを注射し、あるいは記録し、そしてまた去っていった。私はその一部始終を見ていた。
音はない。感情もない。ただ、無機質な動作の繰り返し。
私は叫ぼうとした。だが声は出なかった。のどに何かが引っかかっていた。視界がぐらつく。涙がにじんだ。
やがて、その部屋の空気が変わった。私は気づいた。その部屋が、私の「記憶」であることを。忘れていた何かが、今この瞬間に甦りかけている。あの椅子。あの白衣。あの冷たい注射器の感触。
私の手が震えた。爪が皮膚に食い込んでいく。頭の奥で、「思い出すな」という声が響いていた。それは、私自身の声だった。思い出してしまえば、もう戻れない。穴を塞ぐことも、元の生活に戻ることも、二度と叶わない。
私は視線を逸らした。穴から目を背けた。だが遅かった。記憶はすでに、流れ出していた。
冷たい廊下。無機質な廊下の先に、あの扉があった。そこに私が入っていく。誰かに背中を押されている。「実験」などという言葉は使われていない。ただ、「経過観察」とか「手続き」とか、そういった官僚的な響きの語句だけが並んでいた。
私は署名したのだ。自らの意志で。
それが何を意味するのか、わからぬまま、誰にも相談せず、ただ、目の前の手続きに従った。そうするしかないと、思い込まされていた。
そして、記憶は消された。
正確に言えば、封じられたのだ。脳のある部位に作用する処置。過去を感情ごと沈めるための化学的な手段。そのための代償が、いま現れていたのだ。
——穴というかたちで。
私は、もう一度、穴を見た。
目玉は、半分以上こちらへ出てきていた。まぶたが痙攣していた。その裏で、何かが蠢いていた。赤黒い膜のようなものが、目玉の奥からこちらへ伸びてきていた。
私は、ただ静かに見つめた。
それが、自分自身のものであると、確信していた。
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第5章 回復不能点
すでに、私は「前の私」には戻れなかった。
世界の構造が音もなく変質していた。外の景色は昨日と同じように見えていた。駅へ向かう人の足取り、交差点に停車する車列、カフェのスピーカーから流れる曖昧なジャズ。しかし、そのすべてに、どこか微細な「歪み」があった。
言葉では表せない、わずかな遅延。五感の同期が一瞬ずつズレていく。歩行のリズムが定まらず、視線の合わぬまま人々とすれ違っていく。誰も私に触れない。私は、社会という透明な膜の外側に立っていた。
便所の穴は、もはや「異物」ではなかった。
それは、私にとってこの世界と自分を繋ぐ、ただ一つの現実であった。眼球が日ごとに前へ出てくる速度は変わらなかった。一日におよそ一ミリ。私の視界に映るその量的な変化は、逆にこの異常がどこか「法則」に基づいていることを示していた。
この現象には、意志がある。
理屈ではない。理論ではない。ただ、明確な「方向性」が存在していた。
向こうから、私に近づいてくるのではない。私が、向こうへと「引かれて」いるのだ。そう理解した瞬間、私はぞっとした。すでに足元は滑りはじめている。後戻りはできない。いずれ「完全な一致」が訪れる。それを私は悟っていた。
記憶の回復は断片的だった。だが、それは再生というよりはむしろ、「流出」に近い。思い出すたびに、私は一部を失っていく。日常の言葉を忘れた。道順を忘れた。買ったものを覚えていられなくなった。
そして、夢が始まった。
それは「夢」と呼ぶにはあまりに現実的で、目覚めの感覚を持たない幻視だった。
私はその中で、例の白い部屋を幾度も訪れていた。誰も話さない。誰も名を呼ばない。ただ注射器の影だけが、静かに私の腕に近づいてくる。針が皮膚に触れるたび、私はかすかな痛みと共に「過去」を引き抜かれていた。
誰が、なぜ、私をそこに置いたのか。思い出す術はなかった。ただ、確かなのは、その場所に自らの意思で入ったということだ。
私は選んだのだ。
何を?
それはわからない。だが、何かを差し出し、何かを手に入れようとした。その結果が、今である。代償というにはあまりに不明瞭で、取引というにはあまりに理不尽だ。けれども、間違いなく「自業」であるのだ。
ある夜、私は再びあの穴の前に立った。
月も星もない夜だった。換気扇の回転音が、低く鳴っている。壁に手をついた私は、ふと、かすかな「声」に気づいた。声というにはあまりに曖昧な響き。風か、水か、あるいは血流か。だが、それはたしかに意味を孕んでいた。
「——ここにいる」
それは穴の奥からではなく、私の内側から聞こえていた。あの目玉は、もはや完全に顔の輪郭を持っていた。目、まぶた、眼窩、そしてその周囲の皮膚。人間の半顔が、白い壁に埋もれるように生えていた。
私はしゃがみ込み、その顔を凝視した。
まぎれもなく、自分だった。
額の皺、眉毛の流れ、頬のこけ方。私が鏡で見慣れた顔よりも、ずっと「私らしい」顔。だが、そこには明確な違いがあった。その「私」は、笑っていた。微笑というにはあまりに歪で、恐怖というにはあまりに静かな笑みだった。
そのとき、私の中で何かが切れた。
私は笑い返した。
なぜか、そうしなければならないと、感じた。
自分を受け入れなければならないと。
そして私は、そっと指を伸ばした。壁の肉に触れた。その温度は、自分の肌とまったく同じだった。触れた場所が微かに脈打った。私はもう一方の手でも頬をなぞった。そのときだった。
——私は、自分の目玉に触れていた。
指先に柔らかな球体の感触。まぶたがない。直に眼球。粘膜。湿り気。視覚が揺れた。触れているのに、見ている。見ているのに、触れている。私は、自分の内と外を同時に支配していた。
次の瞬間、私は倒れた。
背後のタイルに後頭部がぶつかる音。視界が波打ち、天井が歪む。穴の顔がこちらを覗いていた。だが、それはもう「向こうの私」ではなかった。
完全に、こちら側に来ていた。
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最終章 眼の記憶
私は床に横たわっていた。全身が粘着質の膜に包まれているようだった。動かぬ手。鈍い耳。舌先には、あの匂いが張りついていた。血と肉の湿りと、日を置いた水道管の錆。あれが穴の匂いなのか、私自身の匂いなのか、もはや区別はつかない。
天井を見上げたまま、まぶたを閉じた。いや、閉じたつもりで、私は依然としてすべてを「見て」いた。まぶたという境界が存在しない。私の眼はすでに、身体という外殻を失っていた。私が「見ている」のか、「見られている」のか。その区別も溶けていた。
視覚が、剥き出しになっていた。
それがどういう意味なのか、今の私ははっきりと理解していた。私は「眼」としてだけ、存在していたのだ。壁のなかに埋め込まれた眼球。その球体の奥に記憶が宿り、その記憶が視界を持ち、その視界が意識を支配していた。
——私は、あの穴のなかにいた。
どこからが私で、どこからが「向こう側の私」か、もう定義できなかった。もともと境界などなかったのだ。穴の発見など、演出にすぎなかった。すべてはあらかじめ、設計されていたのだ。
投薬という言葉は思い出されない。ただ、ある「処置」がなされたことは確信している。それは精神の構造を根本から改変するような、静かな操作だった。目には見えず、記録にも残らないが、確実に世界の解像度を変える操作。私はその過程を受け入れ、記憶を差し出した。
なぜか。
理由は、もう必要なかった。理由を問うことは、今の私には許されていなかった。私はただ「結果」として残されていた。
眼球は、もはや完全に壁から生えていた。薄い皮膚が、私の頬と繋がり、血管がうっすらと浮かび上がっていた。あの目は開き、私を見ていた。けれど、それは「見る」ことを超えていた。観察でも凝視でもない。ただ、すべてを受け入れる、不可逆の同化。
私は立ち上がろうとした。だが、体が動かない。いや、むしろ、動かす意味が見つからなかった。動くという行為そのものが、記憶のなかの行動であり、今の私には必要のない振る舞いだった。
——私は、もうここにいる。
暗がりが視界を満たす。空間の輪郭が滲み、すべてが流体化していく。部屋の構造が融解し、床と天井が溶け合い、重力の存在が曖昧になる。音が吸収される。鼓動の音だけが、低く、遠く、繰り返されていた。
どれほどの時間が経過したのか、私は知らない。時という感覚も、また過去に属するものだった。
そして、ある瞬間、私は完全に「見た」。
——全ての記憶を。
手術台に横たわる私。天井の蛍光灯がまぶしい。誰かの指が、私のまぶたを撫でている。注射針が皮膚を破る感覚。白衣の背中。誰一人、私の名を呼ばない。コード番号だけが、私を指していた。
「被験体ではない」と何度も誰かが囁いた。私はそれを信じていた。だがその声の主の顔を、どうしても思い出せなかった。いや、思い出したくなかった。
記憶の最後に、私ははっきりと笑っていた。何かを知っている者の笑みだった。あの目のように。
——私は、この状態になることを望んでいたのではないか?
その問いが、突如として内部から湧き上がった。
すべてを遮断し、すべてから離れ、自分だけの「真実」と向き合う場。それがこの穴だったのではないか。私自身が、自分の精神の奥底に穿った、唯一の通路。肉体の向こう、時間の向こう、言葉の外。
私は今、そこにいる。
最後に私は、もう一度、自分の目を見た。
それは私ではなかった。けれど私だった。
笑っていた。泣いていた。
そして、静かにまぶたが閉じられた。
——すべては、見終えられた。
室内は、再び沈黙に包まれた。
穴のなかには、もう何もなかった。