滝に続く道
前回の「首吊りの家」が凄惨な内容でしたので、今回は少しほのぼのしたお話しにしてみました。
✳この物語はフィクションです。実在の人物、旅館とは一切関係はありません。
私たちは旅行が趣味だった。普段はお互い忙しくてなかなか一緒に出掛けられないが、年に三回。GWとお盆、そしてお正月には一緒に旅行に出かけるのが通例になっていた。
私は学生の頃はアルバイトでお金を貯め、バイクで色々な所に出掛けていた。その時に気に入った場所に妻を連れて行くのが楽しみだった。もちろん、それだけではなくて二人で新たに見つけた場所へも出掛けた。
妻に是非見せたいと思っていた上高地へも数年前に行って来た。私がバイクで訪れた時は信号で切り替わる一方通行の釜トンネルを抜けて河童橋付近まで行けたのだが、今は駐車場に車を停めそこからバスで向かうようになっていた。あの水滴が天井から滴っていた釜トンネルも新しくなっていて驚いたものだった。
その妻が突然亡くなり、一人残された私は途方に暮れていた。しばらくは気力も失くなり旅行にも行かなくなっていたが、まだ妻に見せたいと思っていた景色を全て見せていなかった事に気付いた。そこで私は妻の写真を持ち旅行に出掛けた。亡くなった妻にその景色を見せる為に……。
F県のS温泉に私はいた。この温泉はバイクで何度も来たことのある温泉だが妻と来たことはなかった。山中に老舗旅館が3軒だけある静かな落ち着いた温泉地だ。外で遊ぶような場所はないが、ゆっくりと温泉に浸かりリフレッシュ出来る。私はこの温泉旅館の3軒とも宿泊したことがあり、どの宿も素晴らしい宿だった。今回もその中の1軒に宿をとった。チェックインして部屋に入り、少し寛いだあと私は温泉に向かった。ここの温泉は泉質が良いのはもちろんだが、渓流に面した湯船は横にかなり細長く、脱衣所は男女別だが中の湯船は一つで混浴になっているのである。初めて入った時には驚いたが慣れてしまえば何でもない。ゆっくりと渓流を眺めながら湯船に浸かり、私はすっかりいい気持ちになり温泉から上がった。
さてと、これからが妻に見せたかった景色である。私はフロントに滝まで行って来ますと声をかけ靴を履いていると、女将さんが声をかけてきた。滝を見に行った帰りに不思議な声が聞こえる時があるが、けして振り向いたり、その声に反応して声を出したりしてはいけない、もしそうしてしまうと連れていかれてしまうと言うのだ。よくある話だ。私は笑って頷いた。
「大丈夫ですよ 振り向かずに黙って帰ってくれば良いのでしょう 」
私は女将さんにお礼を言うと旅館を後にした。旅館を出てから、だらだらと坂を上り5分ほど歩くと右側に渓流に降りる階段が現れる。そこにはS大滝入り口の看板も出ている。私は階段を降り始めたが、これがなかなか都会にあるようなキチンとした階段ではないので大変である。それでも滝見台までたどり着きS大滝を眺める。1本の滝が豪快に落ちていて、見応えがある。マイナスイオンが溢れているようで気持ち良い。私はしばらく妻の写真に滝を見せて、滝見台の木製の簡易ベンチに腰を降ろしていた。頬を撫でる微風も気持ちよく、緑の木々の匂い、滝の流れ落ちる音と、横を流れる渓流の音、それに蝉の鳴き声が重なり、何時までも座っていたい気分だった。
・・・ほら、小さいけれどなかなか豪快だろう ・・・
私は写真の中の妻に語りかけていた。妻もにっこりと笑顔を見せており、私も笑顔になっていた。ふと腕時計を見ると、もうかなりの時間が経過している。この腕時計も妻がプレゼントしてくれた物だ。機械式自動巻きのオリエントの腕時計。高価な時計ではないが私はデザインとオレンジ色の文字盤が気に入り、何処に行くにも身に付けていた。
・・・そろそろ戻るか ・・・
私はベンチから腰を上げると滝に一礼し、山道を登り始めた。前に来たときはこんなにしんどいとは思わなかったが、ハーッハーッと息が切れる。それだけ私も年をとったという事だ。
途中で立ち止まり休み休み登って行くと、不意に滝の流れ落ちる音も、さわさわと流れる渓流の音も、周りの木々のざわめきも、蝉の鳴き声も聞こえなくなる。シーンとした無音の状態だ。
・・・あなた、待って ・・・
懐かしい妻の声だった。私は足を止めていた。これで振り返れば妻と一緒に行けるのかと思った。それも良いなと考えてる自分がいた。
・・・歩くの早いよ ちょっと私の手を引いてよ ・・・
再び妻の声が聞こえる。私は笑みを浮かべていた。
・・・ああ、妻の声だ また聞けるとは思わなかった ・・・
私は止めていた足をまた前に進めた。すると、また周囲の音が戻ってくる。ゴォーッという滝の音、ツクツクいう蝉の声。私の周りはまた様々な音に包まれていた。
私は山道から舗装された道路に出て旅館に戻った。戻ってきた私の顔を見て女将さんは、良かったという顔で迎えてくれた。
「もう少ししましたら夕食の準備が出来ますから、お部屋でお待ちになって下さいね 」
「あっ、そうそう 夕食の時、ビール2本お願いします グラスは二つで 」
私は女将に告げ部屋に向かった。部屋の渓流沿いの窓から椅子に座り外を眺めていると中居さんが夕食を運んできてくれた。豪華な夕食だ。私は二つのグラスにビールを注ぎ、一つは妻の写真の前に置いた。今夜は妻と二人でゆっくりと夕食を楽しむつもりだった。
・・・久しぶりにお前の声を聞いたよ 本物のお前だったら良かったけどな お前なら、あんなこと言う筈ないもんな ・・・
私の心の中に妻の姿がよみがえる。
「あなた、遅いわよ もう、早く歩きなさいよ ほら、手を引いてあげるから 」
記憶の中の妻は元気に私に声をかけ手を伸ばした。
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