詩集の自費出版について
紙媒体の出版は先細りと言われて久しいけれど、中でも詩集は売れない。
詩集は、その時の心象風景が切り取られた写真集に似ている。
残念ながら、無名の新人の写真集を購入しようとする人は少ないと思う。まだテーマがはっきりしているもの、例えば廃墟とか、洞窟とか島とか、あるいは地下アイドルの写真集ならそれなりに需要があるかも知れない。けれど、詩集となるとそのテーマさえ漠然としていたりする。
私自身、本屋や図書館で詩集を探すのは調べたいことがある時くらい。最後に自分で購入したのはかなり前で、中原中也だったと思う。
けれど、本棚には詩集がいっぱいある。すべて、献本として頂いたもので、ほとんどの著者の方とは一面識もないし、名前も存じ上げなかった方ばかり。
それでもせっかく贈ってくださったのだから、できる限り目を通したいと思っているけれど、毎月、時には数冊も届くので、到底追いつかない。
感想やお礼を送れば喜ばれるのはわかっているけれど、それもなかなか難しい。お付き合いのない方にはごめんなさいと心で詫びるが、知人であれば、そうは行かない。感想とお礼に遅れたお詫びまで追加されることになる。
この献本、著者から直接送られてくるのもあるけれど、多くは著者の代理で出版社から送られてくる。献本先は出版社に一任されていることがほとんどだと思う。
繰り返すけど、詩集は売れない。それでも多くの詩人たちや一部の出版社が、詩集を出版しつづけるのは、利益のためではなく、たぶん残すため、伝えるため、という意味合いが強いのだと思う。
著者によって違うだろうけれど、例えば日本の美しい文化や言葉、人の心や美しい風景、絶望、苦しみ、悲惨な事実を残すため、後世に伝えたいため。
戦争や震災や、虐待や貧困、今社会で起きていることを、今生きている人がどう捉えていたかを伝える一つの手段として。
ゲーテや鮎川信夫、金子みすゞや中原中也などの詩集を読めば、その人が生きた時代そのものが浮かび上がってくるように。
実際、最近頂いた詩集ではコロナ禍を扱った詩が多かったりする。
自費出版でも、大手ならそれなりの金額で、新聞広告や、書店の棚をキープしてくれると思うが、それでも在庫をさばくのは容易ではない。
そもそも詩の需要がない。詩や短歌を恋人に贈った時代もあるけれど、今は、恋人に贈りたくなるような、素敵な曲や心憎い洒落た歌詞の歌がいっぱいある。
人から貰って困るものというアンケートを採れば、自費出版の自伝や詩集は毎回上位にくるらしい。
知人からいただけば、お礼に加えて一言でも感想などと頭を悩ます人も多いだろう。そもそも興味がないものを読むのも苦痛だと思う。それでもまだ小説なら、極端な話、「面白かった!」でもギリ許されそうな気がするけれど、詩集に「面白かった!」は使いにくい。
新刊が次々と並べられ、国内外問わず次々と面白い小説が並べられる書店で、いくら費用をかけて、広告を出して、書店の棚を確保してもらっても、平積みで、インパクトのある話題でもない限り、片隅に僅かにある詩のコーナーに足を運んで、無名の新人の詩集を手にする人は少ないと思う。
ある意味、詩の世界は、同人誌のように、愛好家の集まりに近いかも知れない。意外に横のつながりも強かったりする。
詩集の賞など、推薦という形も多い。詩を世に出していきたいなら、まずは詩人の人たちに名前を知ってもらうことも一つの方法だと思う。
献本は読まれないことも多いけれど、なかには詩に何か見いだしてくれ、感想を返してくれたり、同人に誘ってくれたり、何かに推薦してくれる人もいるかも知れない。
伊東静雄賞で佳作を2回、詩人会議の年間最優秀賞、現代詩手帳一般投稿で2回掲載、その他多数の詩誌に掲載していただいているけれど、そういうのは詩集を売る上で、何の役にも立たない。まったく、砂粒ほどにも役立たない。
さすがにH氏賞でも受賞すれば違うのかも知れないけれど、そもそもH氏賞自体、推薦で決まる。
けれど、その地道な投稿や活動などを通じて出会った方々は大きな財産になった。
稿料はわずかですが、詩誌に書いていただけませんか? と声をかけていただけるのは、詩人の方たちとの付き合いの中からしかまず生まれない。
詩集を、記念に一度だけ出すなら、どこの出版社でもいいと思う。自費出版でも大手なら、広告も打ってくれるし、一定期間棚も確保してくれる。でも、多分献本はあまり期待できないと思う。
そういうオプションもあるかも知れないけれど、詩専門の出版社でなければ、献本先が、どのあたりなのか予想がつかないという不安がある。
詩などほとんど読まないという作家さんに送っても山ほどある献本の中に埋もれて二度と日の目を見ることはないと思う。
だいぶん前は、献本したいと言えば、希望した作家さんの送り先、自宅住所などを教えてくれた出版社もあって、自分で贈ったりもしたけれど、今はまずそういうことはないと思う。
数年前に文芸社から詩集を出版した。詩人仲間から、そろそろ詩集を出してはと勧められ、ついでに詩集を主に扱う出版社をいくつも紹介されていた。ただ、それぞれ多少のしがらみがあって決めかねていたところに、文芸社から電話をいただいた。
どこから連絡先をひっぱり出してくるのか、一年に一度くらい電話をいただくけれど、その時は本当にタイミングが良かった。
出版後、1年くらいして契約が切れると、余った在庫が送られてくるけれど、幸い残ったのは僅かだった。すべて詩人仲間の存在のおかげだと思う。口コミや、友人知人に勧めてくれたおかげで感想もたくさんいただいた。
何の伝手もなく出版していたら、今も出版した部数の半分くらいの在庫を抱えて途方に暮れていたと思う。
もしまた出版するなら、今度は友人、知人が紹介してくれる小さくても詩に強い出版社にしたいと思っている。小さな出版社でも流通に必要なISBNコードはつけられるし、詩の同人誌や専門誌に出版告知もしてもらえる。
書店の棚は押さえられなくても、実際詩を読む人、書く人に献本という形で送ってくれる。無理をしなくても予算にあわせて作ってくれる。
最近知人が立ち上げた出版社ではそれなりの部数でもかなりの低価格で作れると言っていた。今はデータで原稿を入れるし、装丁や表紙に友人、知人のイラストを使用したりして、価格も抑えられると聞いた。もちろん編集も校正もしてくれる。案外、小さいところほど親身に相談に乗ってくれるかも知れない。
文芸社もそれなりに頑張ってくれたが、こういうわりと大手で出版すると、メールアドレスなどは載せられない。感想その他、すべて出版社経由となる。
小さな出版社から送られてきた献本を見ると、メールアドレスどころか、現住所まで書いてあったりするので、直接感想を送るのには便利だなと思う。それもあまり読まれていないからこそできることだったりするのだろうけど。
詩集の売れゆきは、作品の善し悪しと直結していない。そこはすべての芸術に共通すると思うけれど、素晴らしいから売れるとは限らないし、失礼ながら、中身がなくても話題性があればそこそこ売れたりする。
せっかく出版した詩集が売れなくても、それで詩の価値が変わるわけではないし、そもそも普段詩など読まない友人、知人の感想も気にしなくていいと思う。
詩を自分だけのために書くのもいいと思う。その時の自分の気持ちを整理したり、残しておくために。でも誰かに言葉を、詩を届けたいと思うなら、ちゃんと読んでくれる人の手に取ってもらいたい。詩人の人たちに名前を知ってもらうことは、そのための一つの手段にはなると思う。
投稿から声をかけていただき、初めて詩人の団体、同人誌などの合評会に参加する時、実はかなり懐疑的だった。詩は自分の気持ちなんだから、書きたいように書けばいいし、人が批評することでもないと思っていた。
でも、実際に参加し、普段から詩に親しんでいる人たちに読んでもらい、忌憚なく評価してもらうのは新鮮な経験だった。
人に読んでもらって初めて伝わっていないことの多さに驚いた。自分では当然、伝わっていると思うようなことが伝わってない、それどころか逆の意味に受け取られていたり。
芸能人が人に見られることでどんどん垢抜けていくように、詩も人の目に触れることで洗練されていくことはあると思う。
書いてる時、自分でもよくわからなかった感情が他人によって掘り出されることも。
ほんの少し他人の言葉に耳を傾ければ格段に作品や創作の質が上がることは確かにあると思う。
詩の団体には政治色の強い団体もある。反戦の詩がたくさんあったように、それも詩が持つ一つの側面だと思う。
私自身は政治的な活動や団体は苦手なので、自由に書けるところで活動している。
昨年、文学フリマに参加したけれど、大学生が中心の詩の同人誌もいっぱいあった。みんな楽しそうに書いていたし、なかなかのクオリティだった。
創作は孤独な作業だけど、だからこそ理解しあえることも多いような気がする。
社会で協調性のない人も、同人誌の会合ではまったく目立たない。何を言っても詩を書いてるからね、創作してるからねと思えば、何ら違和感なく、逆にその個性を羨ましいと思えたりする。
話すことが苦手だから書く。誰とも共有できないから書く。溢れ出るから書く。
詩は売れない。
それでも詩を書かずにはいられない人の不器用な誠実さを好きだと思う。
どのような形であれ、心を込めてこの世に送り出す我が子のような詩集は、いつか、何年か、何十年後か、誰かの心を温め、生きる勇気になるかも知れない。
長いエッセイを読んで下さってありがとうございます。
誤字報告ありがとうございます!