殺意の沈黙
僕には、鳴き声が聞こえた気がした。
だが、キョロキョロと周囲を見渡すも、それらしい光景は目に入らない。
辺りは鬱陶しい人混みや交通渋滞で、五月蠅いほどの騒音に包まれているのだ。
大抵の小さな音など、街にかき消されてしまうだろう。
だが、僕の足は引き寄せられる様に、鳴き声がした方向に歩き出していた。
声の元を辿っていると、いつの間にか僕は裏路地まで入り込んでいた。
だが、特に気にすることもなく、ビルの隙間、1人が通り抜けるのがやっとの通路を抜けていく。
すると、片隅に青いゴミバケツがぽつんと置いてあるのを見つけた。
周囲には沢山の蠅がブンブンと不快な怪奇音を奏で、冷えた嘔吐物とアンモニアの臭いが充満している。
僕は迷わず近寄り、ガムテープで補強されている蓋を開けた。
中には死にかかった一匹の猫がいた。
黒くなったバナナの皮や、蟻が集まっている弁当箱の上に横たわっていた。
ブクブクと赤い気泡を吐き出しつつ、哀れな声で鳴いていた。
激しく酸素を求めているらしく、腹部を大きく動かしている。
急に怖くなった僕は慌てて蓋を戻し、その場から逃げる様に走って帰った。
家の中に飛び込み、靴を脱ぎ散らかし、水道に口を付けて水を飲み干した。
どうにも胸の奥が熱くて、無性に喉が渇いていたのだ。
激しく水飛沫が舞い、ワイシャツの胸元がビショビショになってしまった。
水分を取って少し落ち着いたのか、僕は部屋の中を見渡した。
どうやら母はまだ仕事から帰って来ていない様で、テーブルの上には簡単な晩ご飯がラップに包まれている。
僕は濡れたワイシャツを脱ぎ捨てると、上半身が裸のまま冷めたチャーハンを食べた。
お腹はふくれたが、このままではカゼを引きそうだったので、とりあえず湯につかることにした。
家のお風呂は24時間沸騰しており、何時でも入れるというのが今日は嬉しかった。
僕はゆっくりと肩まで沈め、心も体も暖めた。
明日も早く家を出るので、僕は早めに布団に潜り込んでおく。
そういえば、まだ登校の準備をしていなかったが、早朝にやれば良いかと思った。
暫くはモゾモゾと身体を動かしたりして寝返りをうつ。
足の裏だけが奇妙なほど熱を持っており、心臓の音は激しさを増すばかりであった。
眠れない理由は分かっていた。
気が付けば、僕はパジャマのまま家を飛び出していた。
外はポツポツと小雨が降り始めている。
だが、僕の足が緩むことはなく、全力で商店街を駆け抜けた。
途中、酸欠で意識が朦朧としていたらしく、携帯ばかり見ていたサラリーマンとぶつかって転倒してしまう。
少し膝を擦りむき、出血していたが、僕は直ぐに立ち上がった。
あの路地裏まで急いで行きたかったのだ。
僕がゴミ箱の蓋を持ち上げると、まだ猫はいた。
腐った灰色の汁と赤い血が混ざった液体から頭だけを出していた。
猫は心から空気が欲しかったのだろう。
ザラザラとした長い舌を付きだしたまま、はく製の様に動かなくなっていた。
僕は、それをヒョイと持ち上げ、股の間をのぞき込んだ。
逸物は付いていないので雌猫だった。
瞼が接着剤で固定され、開けない様になっている。
指がねじ切られていた跡があり、片腕だけは根本から引っこ抜かれていた。
尻尾から頭まで鋭利な傷が繋がっているのは、きっとハサミで切り裂き、皮を剥ぎ取ろうとした痕がある。
全身の骨は砕けているらしく、何処に触れても湿った雑巾の様な感触しかしなかった。
更に雨脚が強まったらしく、濡れたパジャマがピッタリと僕の素肌に吸い付いていった。
猫を握っている手にまで、どす黒い赤色が染みこんでいく。
僕は上着に血を擦りつけると、近くに落ちていた石を掴み取る。
丁度、段差が出来ている所があり、まるで祭壇に置く様に猫をアスファルトの上にねかせた。
口をだらしなく開けているので、そこに雨が降り注ぐ。
僕は石で猫の頭を砕いた。
薄っぺらい肉を叩いた音がした。
全てが雪崩れ込む排水溝に、一本の赤いラインが流れ込んでいった。
僕は猫を戻し、家に帰って布団に入った。
今度は直ぐに眠りにつけた。