第9話 旅の目的
就寝
酒場の営業が忙しくなる前に二階にある泊まり部屋に移動して早寝することにした。
一番街道上にある宿屋といっても行商人が引っ切り無しに移動しているわけではないので、この日の泊り客はウルルと僕の二人だけだった。
個室から大部屋まであって、自由に選ばせてもらえたけど、別々の部屋で休むのは怖いので大きな寝台のある個室で一緒に眠ることにした。
個室といっても意匠を凝らした調度品があるわけではなかった。木箱を万年床にした寝台が置かれてあるだけである。
荷車持ちの裕福な行商人は蔵のある一棟貸しのコテージを利用するので酒場宿には泊まらないそうだ。
ムキンバさんも酒場を訪れることはあっても、大事な塩を守らなければいけないので、交代制で休みを取っていたらしい。
雑学
ちなみにコテージとはトイレや調理場などの設備が整っている小屋で、設備がない、または少ないところをバンガローと呼ぶ。また、ロッジとは山小屋の総称なので高級な貸別荘から素泊まりの安宿までロッジと呼ぶ場合がある。
寝る位置
ウルルと一緒の部屋に泊まることになったけど、寝台の右と左、どちらで眠るか決められずにいた。
「いくら扉に閂が掛けられるからといっても、危険があるといけないし、僕は男だから、入り口に近い方で眠る方が安心できるんだ」
日本と違って安全ではないので、僕が身体を張って女の子であるウルルを守らなければならない。
「うん、でも、窓際は、ちょっと」
と言って、入り口側の寝台の縁に腰を下ろして頑として譲ろうとしないのだった。
おそらくだけど、僕にとっては弱弱しい月光も、現地人である彼女にとっては強すぎるのかもしれないと、そんなことを思った。
「ウルルが嫌なら僕が窓際で寝るよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ユタカは優しいんだ」
僕は幼稚園児の頃から、優しい人には優しくして、優しくない人には優しくしないと決めているから、ウルルは自分の優しさの見返りを受け取っているにすぎないのである。
「じゃあ早起きしたいから眠ろうか」
「うん」
二人とも肌着姿で布団に潜り込んだけど、ウルルは赤頭巾だけは脱ごうとしないのだった。
朝食
夜明けと共に村を出るという話をしていたので、宿のご主人も暇なのにわざわざ早起きして朝食を作ってくれた。
席は前日と同じで広場を見渡せる窓際のテーブル席だ。外は静かで平和そのものに感じられた。
「自慢の料理だ、さぁ、食べてくれ」
塩蔵したしょっぱいハムと、分厚くスライスした味のしないチーズを重ねて、穀物を練り込んだパンと一緒に食べるという、現代の地球でも高級の部類に入る贅沢な食事だ。
それをウルルはチャーミングな八重歯を見せながら大きな口を開けて「ハゥムッ」と頬張るのである。
僕は山羊乳のあったか砂糖ミルクに感動していた。それでもお腹を壊しそうな気がしたので、おかわりは丁重にお断りしたけど。
憲兵隊
食事中、最初にウルルが窓の外に目を凝らし、宿屋の主人が外に出たので、何事かと思ったけど、馬に乗った十二人の憲兵隊が広場に現れたのを見て、異世界人の聴覚の敏感さに驚かされた。
地球だと昔の馬は平均して小型だったと本に書いてあるけど、こちらの馬は僕が知っている馬と変わらない大きさだった。
しかし憲兵隊が着ている鎧は確実に僕の知らないものであった。金属製ではなく、革鎧でもなく、鱗鎧でもなく、茶色のプラスチックを筋肉の形に合わせて加工したかのような見た目をしているのだった。
肩や大胸筋、脇や腹筋が分厚い装甲で守られているけど、馬から降りた身のこなしを見ると、すごく軽やかで、マントの方が重そうに見えたくらいであった。
その一人だけマントをヒラヒラさせている二十代前半のガタイのいい精悍な顔つきの男がリーダーなのだろう、二人の部下を従えて店の中に入ってくるのだった。(部下といっても二人ともオジサンだけど)
「園中の中嶋はいるか?」
そこで目が合った。
「貴君で相違ないな?」
「はい、僕が中園中の中嶋優孝です」
正確には卒業したばかりだけど、説明するとややこしくなるので省略した。
「俺は第一分隊のカシラギだ」
立ち上がって挨拶をしようと思ったけど、手で制されたので、座ったまま握手を交わした。
「昨日、行商人のムキンバと話をして、貴君が女を連れているという情報を耳にしたので、確かめるために参じたというわけだ」
そこでウルルに目を移した。
「すまぬが、面を上げて、頭巾を取ってもらえぬか?」
官憲の命令は拒否できない土地柄なのか、素直に従うのだった。
「やはりコツブではないようだ」
それがお尋ね者の名前なのだろう。
「失敬した。食事を続けてくれ」
てっきり大きな耳でも隠し持っていると思ったが、ウルルは何事もなかったかのように赤頭巾を被り直してホットミルクを口に運ぶのだった。
「最後に一点だけ」
分隊長が大袈裟に一本指を立てて尋ねる。
「貴君はムキンバと都言葉で会話をしたらしいが、犬里村では田舎言葉で会話をしていたというじゃないか」
何を言っているのか解らなかった。
「その若さで一体いつ習得の難しい言葉を覚えたのか、みなが驚いていたので、是非とも聞かせてもらいたいと思ってな」
なんて答えればいいのか分からなかった。
「実をいうと、自分でも解らないのです。記憶も定かではないので、いきなり空から落っこちて来たとしか言いようがありません」
分隊長が目を見開く。
「それは天使、つまり神の御使いではないか」
そこで恥ずかしそうに手を振って否定する。
「いや、いやいや、それは大昔に寂れた古代宗教に、そういった言い伝えがあったというだけで、本気で口にしたわけではない」
分隊長の顔が真っ赤だ。
「いい年をしてこんなことを口にするとはお恥ずかしい。すまぬ、申し訳ないが、今のは聞かなかったことにしてくれ」
現代の地球では天使が描かれている教典を大切にしている信徒が数多く存在しているので、やっぱり僕は異世界に来たのだと思った。
「しかし記憶が覚束ないというのは難儀であるな」
「幸いなことに会う人すべてが親切にしてくれます」
ウルルの目を見て答えたので、照れ隠しで俯いてしまった。
「我々も治安維持に努めているからな」
「しかし大事件が起きたんでしょ?」
口を挟んだのは好奇心の強い宿屋の主人である。それに対して、分隊長が深刻な顔で説明するのだった。
「コツブという青髪の小娘が方々に出没しては村の祭事を邪魔して困っておる。地元の駐在では手に負えないということで泣きが入ったのだが、馬の足でも尻尾を掴むことができなくてな、どうしたものかと手を焼いているところだ」
正直、それのどこが事件なのかと思ったが、宿屋の主人の反応は違った。
「そいつは性質の悪い話だ。長い時間を掛けて準備をした祭り事をぶち壊しにされたんじゃ、誰だって怒りますよ。しかし、なんだってそんな真似をするんでしょうかね?」
分隊長がボディランゲージを使うが、使い方が驚くほど地球の現代人と似ていた。
「さあね、そいつは捕まえてみないことには分からんな」
「ウチの村も準備がそろそろなんで頼みますよ」
嘘でも返事をしないということは本当に捕まえる自信がないのだろう。
「ところで少年よ、都へ向かうと聞いたが、その目的を聞かせてもらおう」
学校の進路相談がそうであったように、僕は大人が喜ぶような夢ならいくらでも語ることができる。
だけど本音では、そんなに急いで目標を持たなければいけないことなのかと、ずっと反抗していた。
それでも高校進学を決めたのは、勉強しながらゆっくり決めればいいと考えたからである。
他人と比較すれば焦るし、比較しなければ怠けてしまう。それでも今の僕の願いは唯一つ、
「本を読むことです」
分隊長が部下らと顔を見合わせて驚くのだった。
「文字も読めるのか?」
「はい」
異世界文字が日本語なのが謎だけど。
「外交部が多言語話者を求めている。審査が厳しく、外国人なので合格しても嘱託採用となるが、興味があるなら受けてみるといい。せっかくの才能を活かさないという手はないぞ?」
ここ異世界でも外国語の習得は選択肢の幅を広げてくれるみたいだ。
「僕でもテストが受けられるのですか?」
「その気があるなら俺が推薦状を書いてやろう」
読み書きができるって当たり前のように思っていたけど、今さらながらチャンスを広げる教育環境に身を置かせてもらっていたんだと思い知らされた。
転移して判ったのは、学校に通える場所に生を受けただけでチートのような能力を手に入れることが出来ていたということである。
つまり僕はすごく恵まれていたというわけだ。