第31話 グラシスの秘密
夜中のトイレ
夕食を食べた後、二階の自室に引き上げる際にウルルがコツブにトイレの確認を行っていたけど、僕も行っておけばと後悔しているところだ。
地球で得た情報によると、昔のヨーロッパの都市は糞尿で汚かったとよく聞くけれど、この異世界では魔物が跋扈するので街がすごくきれいなのだ。
人間だけではなく動物の死骸ですら魔虫を呼び寄せる原因になるので、法律で厳しく取り締まっているのだった。
飲食店に関しても、骨や内臓を捨てる際には処理業者を通すのが決まりだ。つまり安全にコストが掛けられているというわけである。
アポロス邸の場合
広いお邸なので客室のある二階廊下の並びにトイレはあり、部屋にも緊急用におまるが用意されているけど、執事のお爺さんからはなるべく一階のトイレを使うようにとお願いされていた。
魔性植物の研究をしているということもあり、魔虫が湧かないように建て付けのしっかりしたトイレを使ってほしいからなのだろう。
そういうわけで、真っ暗な洋館の中を、床にお尻をつけながら、ゆっくりと階段を下りているというわけである。
ランプの明かり
一階の玄関ホールには一日中燃やし続けている蝋燭の常夜灯があり、そこで火を貰うことができるので、持参したランプに火を付けることができた。
「よしっ」
マッチが発明されていないので、この異世界では火打ち金と火打ち石を使うのが一般的だが、燃料に余裕のある貴族の邸宅では貰い火が普通のようだ。
玄関ホールは長方形の建物の中心にあるので、左右に廊下が伸びている。客用トイレは研究室とは反対側の廊下の先にあるので、ランプで足元を照らしながら先を目指した。
幽霊屋敷?
用を足して、トイレから出てきた時だった。
ヒッ
どこからか、そんな音が聞こえてきた。
廊下が暗いので背筋の当たりが怖くて仕方なかった。
足が動かない。
ヒッ
また同じ音がした。
ラップ現象だろうか?
それとも魔物?
ヒッ
音に規則性がある。
それが怖かった。
音は間違いなく玄関ホールの方から聞こえた。
ヒッ
怖いけど、向かってみる。
ゆっくりと、
慌てずに。
ヒッ
魔物の笑い声。
それとも泣き声か。
そんな風に感じた。
ヒッ
玄関ホールに着いた。
当然ながら、誰もいない。
いや、
ヒッ
家主が使う階段の踊り場。
そこに人が倒れているのが見えた。
急いで駆け寄る。
ヒッ
踊り場で倒れていたのはグラシス先生だった。
シルクのネグリジェには血がべっとりと、
いや、違う。
ヒック
「先生?」
「ん? だれ?」
「助手のユタカです」
ヒック
「ユタカくん?」
「はい」
「こんな夜中に何してるの?」
お酒臭いので明らかに泥酔しているのが分かった。
「トイレです」
「うそ!」
「嘘じゃありませんよ」
「夜這いしに来たんでしょ?」
「よばい?」
いとこのお姉ちゃんと一緒で目が座っているので悪酔いするタイプだと思われる。
「夜這いなんてしませんよ」
「嘘おっしゃい」
「嘘じゃありません」
「昼間、先生のこと、いやらしい目で見てたクセに」
濡れ衣だ。
「見てません」
「胸を見てたもん」
「見てないですって」
関わってはいけない性質の悪い酔い方だ。
「子供のクセにスケベなんだから」
「誤解です」
「かわいい顔して野獣だったのね」
妄想が酷い。
「私、食べられるんだ」
「食べませんよ」
「その前に、もう一杯だけ呑ませて」
おかわりをしに下りてきたわけだ。
「呑もうとしたら、こぼしちゃって」
「それで御召し物を汚しちゃったわけですね」
「うふん」
吐息を漏らして胸元をつまみ上げるものだから、目のやり場に困ってしまった。
「先生、寝室に戻りましょう」
「おかわりは?」
「もう呑まない方がいいです」
「寝室で何をするの?」
「今夜はもう眠るんです」
「……うそ」
「嘘じゃありませんよ」
「子供の顔をした性獣に食べられるのね」
まるで官能小説の世界だ。
「寝室までお連れするので掴まってください」
それには素直に従ってくれたので、怪我をさせないように慎重に二階へと上がって、ドアが開いていたので、その部屋のベッドに寝かせることにした。
抱きかかえるとしゃっくりが止まって、代わりに寝息を立てはじめたので、無事に寝かせることができた。
研究室にいる先生しか知らなかったので堅物のイメージしかなかったけど、人間味があることを知って、なぜだか安心することができた。
翌日の仕事
前日と同じようにコツブの広告仕事のお手伝いをしてから研究室に出勤したのだが、グラシス先生の様子に変化がなかったので戸惑ってしまった。
事務机に座る先生は白衣に身を固めており、ふにゃっとした感じはなく、キリリと仕事を熟しているのだった。
「どうかした?」
「いえ」
「もう、指示を待つ必要はないのよ?」
「はぁ」
「勝手に座っても大丈夫だから」
まるで夢でも見た気分だ。
「先生、昨晩のことですが」
「昨晩?」
とぼけたが、それが演技ではなく、本当に心当たりがないみたいだった。
「昨晩、どうしたの?」
「玄関ホールで」
「ホール?」
先生はお酒を飲むと記憶を失くすタイプなのかもしれない。
「あの、おやすみの挨拶ができなくて、すみませんでした」
「ああ、そんなのどうでもいいのに」
先生の記憶にないのならば、あえて言及することでもないので誤魔化した。
「ユタカ君、ずっと下を向いてるけど、大丈夫?」
「あっ、はい」
僕がエロい目で見ている、と思われていることが分かったので、なるべく見ないようにしたが、どうやら不自然だったようである。
「具合が悪いなら、ちゃんと言わなきゃダメよ?」
「はい、お気遣い、ありがとうございます」
酔っ払う程度ならかわいいと思ったけど、記憶を失くすほど泥酔するとなると厄介だと思った。




