第29話 アポロス邸の生活
はじめての晩餐
アルバイトの面接を終えた夕方、まだ働いてもいないのに夕食をご馳走してもらえることになった。
だだっ広いダイニングに長いテーブルが設えてあるけど、食事をするのはグラシス先生と僕たち三人だけである。
借りて来た猫という言葉があるけれど、犬のようなウルルや、カワウソのようなコツブも、どちらもここでは「借り猫」状態であった。(当然、日本人の僕も同様だ)
どんな食事が出てくるのかと期待していたけど、先生は「食と医学」の研究もしているので、ダイニングのテーブルに出された料理は健康的なメニューばかりであった。
「ううっ、すっぱいです」
「おらっちは好きだぞ」
フルーツビネガーを掛けた野菜サラダだが、ウルルの舌には合わなかったようである。
「辛いな」
「ううぅ、口の中が痛いです」
粒コショウがたっぷり振りかけられたチキンソテーだが、二人には刺激が強すぎたようだ。
「慣れると美味しく感じられるけど、まだ早かったかしらね」
「僕は美味しかったです」
料理長を同席させており、料理の感想をお世辞抜きで正直に伝えるように言われていた。ここでの感想が、次の食事に反映されるというわけである。
「おらっち、辛いのは嫌いじゃないぞ?」
「ううっ、わたしもです」
「じゃあ、量が多すぎたのね」
「僕はちょうど良かったです」
デトックス効果のある香辛料を取り入れた料理は、最も理にかなった食事療法である。
もどかしいのは、もうすでにトウガラシが伝播しているはずなのに、市場で目にしたことがないことだ。
考察
その日の夜、久し振りに部屋で一人きりになったということもあり、ベッドに入って考え事をして過ごした。頭の中を巡っているのは、食べ物の謎についてである。
この異世界が近世ヨーロッパに似ているのは確かだが、市場でトマトすら見掛けないということは、やはり魔物の発生が隔絶された鎖国社会を生み出したとみて間違いなさそうである。
今も時々恋しくなるが、いつかカレーライスやピザが本格的に食べたくなると思うので、その時に備えて封鎖されているであろう国境を結ぶ交易路を目指す必要があると考えた。
問題は、その危険を冒す勇気を持てるかどうかだが、決意するに至らずに眠気に襲われてしまった。
朝のお仕事
コツブの仕事は勉強と同じくらい大事なので、翌朝も早起きして市場通りにあるパン屋さんに行った。
先生も応援してくれていて、僕たち三人のために送迎車を用意してくれたのだった。
憧れの馬車である。
キャリッジと呼ばれる二頭立ての四輪馬車がアポロス邸の玄関前に横付けされており、馭者が僕たちを貴族のように接してくれるのだった。
すぐにお尻が痛くなるものと覚悟していたけど、革張りのソファのような座席とサスペンションが装備されているということもあり、快適そのものだった。
「馬車のおじさん、すごい有名なんだな」
「みんな帽子を取って挨拶してるね」
すれ違う馭者だけではなく、沿道を歩く人までわざわざ足を止めて脱帽して挨拶するのだった。
「向こうから来る馬車、道を譲ってくれたぞ」
「ううっ、ありがとうございますっ!」
この村ではアポロス家の馬車に路上優先権があるのだろう。それが周知されているのがスゴイと思った。
「さぁ、着いたぞ」
あっという間の通勤だった。
「懐中時計は持っているね?」
「はい」
邸を出る前に執事さんに渡されていた。
「長針が一周したら迎えに上がるとしよう」
そう言って、馬車を走らせるのだった。
時計について
地球における機械時計の歴史は古く、十三世紀には発明されていたことが認められている。この世界は近世に似ているということもあり、充分予想できたので携帯時計を渡されても驚かなかった。時計の進歩には宗教が大きく関わっているので、この異世界にも戒律の厳しい宗教が存在していたのだろう。
しかし魔物が出現してから自然宗教に回帰してしまったので、これから文明が進歩するかは未知である。大規模遠征ができないため大陸間戦争は起こらないが、同時に戦争による発明が生まれないとも考えられるからだ。
魔法が存在する世界で、ここからスマホが普及する地球の現代社会のように収斂するのか興味深いところだ。
世界史は侵略戦争の歴史だったのに対して、この異世界では魔物から身を守る防御の術が求められている。その違いが発明品に差を生むのか楽しみである。
食レポ
すでにお店のテラス席は僕たち三人の予約席となっていた。
「お肉がはみ出てるね」
「昨日約束したからな」
お肉たっぷりが売りの商品だ。
「食べ終わってないのに、おかわりがしたくなる」
「ううっ、わかります」
それを周囲の人に聞こえるように大きな声で言うのだった。
「今日も食ったぞ!」
「満足ですね」
この日も二人のおかげで完売御礼となった。
トマトの謎
いつものようにテラス席に座って寛ぐコツブの元に店主が挨拶をしに来たので、普及していてもおかしくないトマトについて尋ねてみることにした。
「悪いが、聞いたこともないな」
「赤くて酸味のある野菜なんですが」
腕を組んで天を見上げながら思い出そうとするが、表情から察するに、まるで見当がつかない感じであった。
「力になれなくて、すまないな」
タピオカ・ミルクティーが流行れば全国のコンビニで飲めるようになる時代じゃないので、ガッカリすることはなかった。
それに案外と近くで栽培されていて、普及するタイミングを逸しただけのような気もするからだ。
「市場には知り合いも多いから、聞いてみるとしよう」
「ありがとうございます」
僕がトマトに拘るのは、ウルルとコツブにオムライスを作ってあげたいからだ。そのためにケチャップとお米を手に入れる必要があった。
「トマトって、そんなに美味いのか?」
「わたしも気になります」
難しい質問だ。
「好きな野菜には選ばれないのに、ソースにすると誰からも愛される、そんな不思議な野菜さ」
光の当て方次第というのは、人間にも当てはまることだと思う。
「いいな、トマトいいな」
「ううっ、食べてみたいですね」
嫌いな人がいても構わないというのを、僕はトマトなどの野菜から学んだ。なぜなら愛されることの方が大事だからである。




