第12話 満月の夜
短期逗留
第一隊商が村を出たばかりということで、牧草地の貸し小屋が空いていたので何日か滞在させてもらうことができた。
一日に三、四時間しか歩いていないけど、昨日から足の裏に水ぶくれが出来てしまったので助かった。
それでも昨日知り合った見回り組のリーダーが「村の連中に顔見せしておく必要がある」というので、村の隅から隅まで歩かされる羽目になった。
広場村
酒畑村では多くの小作人を抱える地主が広範囲に独立した住居を構えているが、村の催事を行う広場村も存在しており、頻繁に寄合も行われるのだそうだ。
かなり裕福な村なので広場の周辺には音楽堂や演舞場などもあり、久し振りに人工的に奏でられた音を聞くことができた。
僕とウルルしか観客はいなかったけど、合唱団も楽器奏者も踊り子も、みんな嬉しそうにしていたのが印象的だった。
貸し小屋
寄合所で食事を頂いてから、日没前に牧草地の小屋まで送ってもらって、「火の元には気を付けて」と注意を受けて、見回り組のリーダーと別れた。
一棟貸しのコテージだけど、建物は間取りが八畳の寝台しか置かれていない簡素な羽目板小屋だ。
それでも調理場と庭先に井戸があるので一等地で間違いない。おまけに周辺に家畜はないので魔物が出没する危険もないそうだ。
魔力の不思議
朝から村中を連れ回されたので疲れたのか、ウルルはコテージに入ると服を脱ぎ散らかして、寝台で横になるとすぐに寝息を立てるのだった。
僕も疲れていたので隣で眠ったけど、月が眩しくてすぐに目を覚ましてしまった。といっても、何時間眠ったか分からないけど。
「ウルル?」
横を見ると、小さく丸まって小刻みに震えているのだった。
「寒いの?」
「寒くはない」
気丈に振る舞っているわけではなさそうだ。
「どんな感じ?」
「こわい」
不安で押しつぶされそうな感じだろうか。
「お話はできる?」
「うん」
そこで寝台の縁に並んで腰掛けることにした。窓から満月の光が差し込んでいるので明かりは必要なかった。
「ウルルにとってはつらいかもしれないけど、僕はね、魔人化は恥ずかしいことでも隠すことでもないと思っているんだ」
言葉は慎重に。
「なぜなら、この世界では僕だって今日にも魔人化してもおかしくないからなんだ。だからウルルの問題は、僕の問題でもあるんだよ」
魔獣医学への関心は自分のためでもある。
「ウルル一人が問題を背負うことはないから、僕にも同じ問題を分けてほしい。それが僕の望みなんだ」
それでもウルルは不安げだ。
「ユタカを傷つけてしまうかもしれないよ?」
興味深い発言だ。
「傷つけるって、具体的にどんな危険性を想像しているの?」
真剣に考えてくれている。
「魔物みたいに人間を食べてしまうんじゃないかって」
非常に重要な話だ。地球には可愛くて食べたくなる衝動を現した「キュートアグレッション」という言葉がある。
「僕のことを食べたいと思ったことはある?」
ウルルが答えようとしなかった。ここで無理に答えを引き出そうとすると洗脳という加害行為になるので自重した。
「……咬みたいと思ったことはある」
恥ずかしそうな顔をしているので、ありったけの勇気を振り絞って言葉にしたのだろう。
「具体的に、どこを噛んでみたいと思った?」
「腕の太いところ」
鍛えていないので細いけど、ウルルよりは太かった。
「噛んでもいいよ」
Tシャツから見えている二の腕をウルルに差し出した。
「痛くしちゃう」
「構わない」
そこでウルルが両手を添えて、僕の腕にかぶりつくのだった。それでも犬や狼と違って牙がないから少しも痛くなかった。
「痛い?」
「痛くないよ」
そう言うと、安心した顔で腕を咬み続けるのだった。
「噛み千切りたいとは思わないの?」
「うん、ずっと噛んでいたい」
今度は指を差し出すと、それも両手を添えて口に含み、色んな歯を当てながら噛み始めるのだった。
「ちゃんと自制できてるじゃないか」
「わたし、我慢できてる?」
「ちゃんとできてるよ」
「でも、もっと噛んでいたいと思う」
「それは元々おかしなことじゃないんだよ」
すると気に入ったのか、ふたたび僕の腕を掴んで噛み始めるのだった。これは魔人化したことで、イヌ科の習性が表出したのかもしれない。
犬にも噛み癖があり、持って生まれた習性なので、それ自体を悪癖として否定するのは間違いである。
「まだ不安を感じる?」
「感じない」
それでも飼い主が矯正するのは咬傷事故といって、甘噛みでも牙で出血させる可能性があるからだ。(身内でも警察沙汰になれば逮捕される)
ウルルには鋭い犬歯がないから被害は出ないだろうけれど、衝動を抑えるのではなく、満たしてあげる必要はある。
「しあわせ」
そう言って、噛むことに一定の満足感を得たのか、僕の肩に頭を預けてくれるのだった。
それは信頼の行動でもあるので、僕も喜びの気持ちを伝えるために、腕を回してくるむように抱き直して、優しく頭を撫でることにした。
「スー」
魔人化は、人間が一人で問題を抱えるには重たすぎるのだと思う。誰にも相談できずに、ウルルのように自分を罰してしまう人もいるに違いない。
魔人化は本人のせいではないのだから、絶対に一人で悩みを抱えさせてはいけないと思った。
そもそも魔人化は悪いことではないんだと、まずはそのことをしっかりと本人に認識させて、社会にも認知を広めていかなければならないと思った。
「スヤァ」
気がつくと、いつの間にかウルルが腕の中で気持ち良さそうに寝息を立てているのだった。
今度は起こさないように、そっと寝台に寝かせて、毛布を掛けてあげることにした。(日中は暖かいけど、夜は冷える)
「スヤァー」
この時、ウルルの寝顔を見て、不意に天啓を得た。突然の魔人化で苦しむ人たちのために力になろうと思ったのである。
何のスキルも与えられずに転移したけど、そんな僕でも異世界で役に立つことができるのではないかと考えた。
閃き
翌朝、現地の人が木の枝の繊維を解いて歯ブラシにしていたのを真似して、僕も庭先の井戸端で歯を磨いていたのだが、そこで早くも閃いた。
犬の噛み癖は適切な方法でしつけ直しすれば完璧に直ることが分かっているので、それを応用すれば良いのだと考えた。
「ゴシッ、ゴシッ」
絶対にやってはいけないのが暴力によるしつけ直しで、これは普通に犯罪なので真似してはいけない。
ではどうすればいいかというと、現代の地球にあるチューインガムを開発するだけで解決できるのではないかと思い至った。
「キュッ、キュッ」
昨夜も思ったけど、異世界に飛ばされても、インターネットや本で知識を得ている現代人ならば、特別な能力を授けられなくても無双できる可能性がある。
これは僕がスゴイというわけではなく、日本の義務教育課程だけでも充分にチートを手にする予備能力を持てることを意味しているわけだ。
「ゴシッゴシッ、キュッキュッ」
問題はどうやってチートを発動させるかだが、そこから先に進んで成功させるのが難しいのは地球と同じかもしれない。
ガムの作り方だけど、樹液を煮て作るという知識はあるけど、原材料となる木が生息しているのか見当もつかないのである。
「クチュクチュ」
メキシコ原産のサポジラの樹木から作る天然樹脂のチクルが有名だけど、どう考えても南米の気候とは違うので存在するはずがない。
そこで思いついたのが人喰い花の粘液だ。珍しいので水筒に入れて採取してあったのだが、それをガムに転用できないかと考えている。
ただし弾性を持つゴムにできるか分からないし、それ以前に毒性を持つ可能性や、歯を溶かしてしまう可能性も考慮せねばならない。
今さらながら、薬事開発や食品開発に関わる人たちの仕事の大変さに敬意と理解を持たないといけないと思った。
「ふぅ、すっきりした」
どうでもいいけど、僕と違ってウルルのような可愛い女の子は、口を濯いだ水を捨てる時も音を立てないように気を付けているのだと知った。




