メル、目醒める
キリのいいとことで、少々長めです。
「メル、さぁお茶にしましょう。あなたの好きなふわふわの焼き菓子もあるわ」
「やったあ! エイダ、早く食べましょう!」
エイダはおかしそうに笑って「落ち着いてね」と言った。
私は、お菓子だって食べられるのが嫌で逃げるかもしれないわ! 昨日、ソフィとパンケーキが逃げるお話を呼んでもらったもの! って思っていたけど、お茶の席に着いたら、レディらしくしなきゃいけないと知っていた。エイダはお行儀には厳しいのだ。でも私は、香ばしい匂いの茶と、ふわふわのカップケーキを平らげて満足すると「レディらしく」をすっかり忘れてしまった。だって、ソフィが練習でお茶を入れてくれるところを見てたら、私もしたくなったのだ。
「ソフィ、わたしにもさせて!」
私はソフィがポットを持ち上げる前に、サッと取り上げてエイダのカップにお茶を注いで見せた。でも、半分くらいこぼれちゃって失敗。ソフィは泣きながら汚れたクロスを拭いていて、エイダは笑ってる顔なのにすごく恐かった。どうしてこぼれちゃうのかしら。
今度の私は、木の枝にしがみついて2階のバルコニーに飛び移ろうとしていた。
手を伸ばして届かないわ、どうしようかなぁ、と悩んでいた。気の下でソフィが青ざめて見つめているけど、そんなに心配しなくていいのにって思う。ソフィはいつも心配してる。うーん、仕方ないから降りようかしら、と思っていたら「ルーク様!」とソフィの声がした。
「メル! 何してるんだ!」
「バルコニーに登れないかと思って、登ってみたの。でも届かないから今降りるわね」
「! 分かったから、ちょっと待って! 今僕が登るから、大人しく待ってるんだ!」
ルークはびっくりするくらい上手に登ってきて、私のお腹に手を回した。ルークの手はあったかかった。
「ルーク、とっても木登りが上手なのね!」
「いいから! 姉さんに見つかったらただじゃ済まないよ、メル。ほら、じっとしてるんだ」
「はーい」
私はルークに支えられたまま、無事に地面に降りた。木登りなんて全然平気って思ってたけど、足が地面に着いたら安心して、ぺたっと座り込んじゃった。ソフィは「メルお嬢様ぁ」ってまた泣き出してしまった。ソフィは泣き虫なのだ、私がしっかりしなくちゃ。私はソフィを抱きしめてなぐさめた。
「ソフィ、バルコニーには届かなかったけど、私木登り上手だったでしょ。ルークの方が上手だったけどね」
「メル、そうじゃないだろ。ソフィに心配かけたんだ、君は謝らないといけないよ」
「え?」
「木登りがどうしたのですか? 詳しく聞かせていただきたいわ、メル?」
「……姉さん……」
ソフィはますます泣いちゃって、ルークと私はエイダにすごく怒られた。
木登りは禁止です! ってエイダが許してくれなかったから、ルークは時々「たかいたかーい」って私を空に放り投げて遊んでくれた。
私はエイダとルークの家に来てからも、毎日お祈りをしてた。ハンナが朝起きたらお祈りをしましょう、って毎日一緒にしてたから。でも、お祈りをするととってもお腹が減ったり、のどが乾くの。だから、朝食まで待てなくてソフィや侍女が来る前にこっそりルドのところに行ってちょっとだけお菓子をもらった。
ルドは毎朝、お邸の玄関広間の脇の部屋にいて、お仕事をしてるって知っていたから。ルドは困った顔をするけど、絶対くれた!「歩きながらではお行儀が悪いので、こちらにどうぞ」って言って、いつも席を譲ってくれた。
その日は、見たことのない小さな丸椅子に座らせてくれた。ルドが座るには小さすぎる。「私の椅子ね!」と私は嬉しくてルドに抱き着いた。ルドは「秘密ですよ」と笑った。
***
ふ、と笑い返したらルドはいなくなって、私は目が覚めたと分かった。格子のかかった窓と少しづつ細くなる天井が見えたからだ。少し暗い部屋の空気は、朝方のようだった。酷くのどが渇いて引きつりそうな程苦しい。水が欲しい……。でも、体も重たくて力が入らない。
「うぅ……」
声を出そうとしたけれど、全然だめだった。足や手を動かして音をたてようとしても、わずかにしか動かず、もっとのどの渇きは増すばかり。苦しくてまた寝てしまいそうになったとき、重い戸が開いて朝の白い光が部屋に差し込んできた。もう目が開けていられなかったけれど、カシャンと音がして誰かが近くに来たことは分かった。私は「水を」と言えたようだ。誰かが口に水を含ませてくれて、体に水分が入って来たのを感じた。
私はすぐまた夢を見始めた。
***
私は庭の散歩が好きだった。緑がいっぱいでどんなに駆け回っても限りがない、花が咲き乱れる庭。
ハンナは黄色、私はピンク、母様は白のお花が好き。毎日お花を摘んで、ハンナや母様にプレゼント。外のテーブルでお茶を飲んだり、クッキーを食べたりするのが楽しいの。時々、父様も来て、私を抱っこしてくれるの。でも父様は「いそがしい」からすぐいなくなっちゃう。私はそれが嫌で父様がいなくなると、悲しくて泣く。ハンナや侍女が抱っこしてくれたけど、父様と違うんだもの。
「どうして、とおさまはいつもいそがしいの」
「メリル様、お父様がお仕事をしてくださっているから、メリル様やお母様、ハンナ……そうですねぇ、ジュダ様も毎日元気でいられるのですよ。お寂しいですが、メリル様は、ハンナ達と遊んでくださいませ」
「ジュダのおじいちゃんもそうなの?母様もハンナも仕方ないっていうけど、あたしはさびしいのに」
「では、陛下が庭の前を通られる時間を、ハンナがジュダ様より聞き出して参ります。お会いできなくても、少し見えるだけで我慢できますか?」
「あたし、がまんする!」
私、父様の明るい茶色の髪が好きだったの。庭で抱っこしてくれると、ほっぺにくっついてくすぐったいの。母様のおめめは、夜のパーティのときにつけるキラキラした宝石みたい。母様はいつも「メリルの瞳はきれいね」ってほめてくれるけど、自分のは見えないからわかんない。でも母様とおんなじ紫色だってハンナが教えてくれた。母様とおんなじなのが嬉しい。
母様が「おやすみなさい」って言ってキスしてくれた。ハンナが背中をトントンしてくれて、すぐ寝ちゃったみたい。
でも、起きたら大きな男の人ばっかりいる石の部屋にいた。寒くて、こわくて。ハンナや母様や父様を呼んでも来てくれなくて。たくさん泣いた。
気が付くと、石の部屋じゃなくて違うところにいた。どこだか分からなくて、ハンナを呼んだけど、やっぱり来なかった。でも、エイダが来たの。エイダは母様みたいな黒い髪で、初めは母様が来たんだと思って泣いた。でも母様じゃなくてまた泣いた。エイダはずっと抱っこしてくれた。
***
私は懸命に目の前の大きな鉛色の石を壊している。私の背より大きくて、行く手を塞いでいるけれど、ちょっと叩くと簡単に砕ける。叩くと手から白い光が溢れだしてぼろ、と崩れるのだ。
困るのは、叩く度に舞い上がる石の粉だ。吸い込むとごほごほっと咳や鼻水が出て苦しい。でも、見渡す限り鉛色。
石を叩き割る度、粉が舞って風に流されていく度、私はだんだん分かってきた。
これは夢みたいだ。
だって時々、あのエイダの家でもない母様たちのところでもない、小さな暗い部屋で目が覚める。そこで私はエイダや知らない誰かから水を飲ませてもらったり、口に砂糖を含ませてもらったりしているみたいだ。
そして1つ大きな石を砕く度、エイダのおうちにいたときのことを思い出す。母様のことを、父様を、ハンナを思い出していく。
どうして母様は迎えに来てくれないの? どうして私だけエイダのところに来たの? 私は要らなくなったの? どうしてあの暗い部屋にいるの? どうして病気になっちゃったの? どうして……?
私は夢の中でも分からないことだらけで、怖くて辛くて嫌で、手を振り回した。
全部消えてなくなれ────!!
***
暗い部屋、燭台の灯が揺れて、ルークとエイダの顔が影でよく見えない。
「では……メルのお父様もお母様も、もう死んでしまっていたということね」
両手で顔を覆うエイダ。
「……うん、そうだね」
ルークの背中は丸まっている。
「あの子がここに来た時にはもう亡くなっていたなんて……それが今更分かるなんて……」
ぐす、と鼻をすする音。
「仕方ないよ。メルが誰なのか、僕達も今まで知らなかったんだ。父さんですら」
「あぁ……メル……なんて可哀想な子。わたくし、あの子になんて言えば……」
つ、とエイダの頬に雫が流れた。
「僕は、これからどうなるかが心配だよ」
そうだ、私は、エイダとルークの話を聞いたのだ。
母様……! 父様……!
***
「ちいさい子、どうしたの? なんでここにいるの?」
「あ、しろいおにいさま。おにわでちょうちょをみつけてさがしてたら、ここにきたの」
「……はぁ、また迷ったんだね。本当ならここは来てはいけないところだよ。大人は探しに来られないから、きっと心配してる」
「まよったの? あたし」
「そうだよ。おいで」
白いお兄様はあたしを抱っこしていつもお庭に戻してくれる。時々、緑のお姉さまも一緒にいて、きれいな石をくれた。それはあたしの宝物で、ハンナにも秘密の場所に隠してある。
ぐるぐる混ざる。これまでの記憶。
私は、エイダの家で楽しく過ごしていたけれど、時々母様や父様を思い出して泣いてしまうことが増える。寂しくて泣き喚くと、みんな困った。私は暴れてしまう、らしい。いつの間にかお部屋じゃないところに寝ぼけて行ってしまうらしい。
そういう時、私は必ず外にいて、白いお兄様に助けてもらう。
「ちいさい子、また来たの?」
「白いお兄様? どうしてここにいるの?……母様と父様はどこにいるの? 私を母様のお庭に私を戻して!」
「それはもうできないんだよ、ちいさい子」
そう言って、お兄様はわたしのおでこに手を当てて何か言う。すると私は眠ってしまい。
次ぎにお兄様に会うまで、私は外に──深い森の中にいつの間にか出てしまうことを忘れてしまう。お兄様に会ったことも。母様と父様が死んでしまった、とエイダとルークが話していたことも。
私はずっと忘れていた……。
◆
「メル! 目が覚めたのね!」
「エ…いだ」
「! メル……。良かった……。さぁ、水を飲んで」
エイダは私を助け起こしてくれて、吸い飲みで水を飲ませてくれた。またひどくのどが渇いて飲んでも飲んでも物足りない。吸い飲みの水がなくなった。
エイダはゆっくり私を横たえて、目にかかった前髪を優しく払った。そして、私の目をじっと見て言った。
「メル、本当に良かったわ。あなた、3日も熱で眠ったままだったのよ」
「み、っか?」
「そうよ。いつも通り朝食を持ってきたら、声をかけても起きなくて。気分はどう? 熱は下がったみたいね」
「……のどがカラカラなの」
「また水をもってくるわね。口を開けて、砂糖を舐めて待っていて。少し楽になるわ」
そう言ってエイダは微笑んで盆を持って出て行った。
やっぱり、この部屋だわ。私、全部思い出した……。母様の家からエイダの家、そして今はここにいる。
体がだるくて、舌すらも満足に動かせなかったけれど、砂糖はひとりでに溶けてのどを流れて行った。甘さが心地よくてもっとほしい、と思った。首をゆっくり動かすと、卓に砂糖の瓶が置かれているのが見えた。私は、欲しくてほしくてたまらなくて、ベッドから降りようと体を横に向けた。
ずるっ、どん!
「メル様!」
誰かが助けに来てくれたらしい。私は、すぐ抱き起されてベッドに戻された。そうじゃない、砂糖が食べたいの。
落ちたときに打ちつけた背中も痛いけれど、のどが痛くて焼けそうだ。
「メル様、大丈夫ですか?」
「さと、う。たべ…た、い」
「ん? さとう?」
その人は「さとう」ともう一度呟いて理解した様子で、卓から砂糖の瓶を持ってきてくれた。そして私を横向きに寝せると、蓋を開けて、枕元に瓶ごと置いてくれた。2粒手に乗せて「これで食べられますね」「もうすぐエイダ様が戻りますよ」と言って出て行った。
私はゆっくり2粒一緒に口に入れて、舌で溶かした。砂糖が溶けてのどから体に入る度、少しずつ、本当に少しずつ元気になるのを感じた。
そしてその甘さで、エイダと食べたお菓子やルドがくれた飴、母様と食べたクッキーを思い出して涙が出た。
母様、父様、ハンナ……
ふと、お祈りは母様やハンナから教えてもらったことだった、と思い出した。初めて1人でできるようになったとき、みんな褒めてくれたのよね、とまた涙がにじんできたので、そのままの姿勢で手だけ組んで祈った。
ヴノー様、リュネー様、また朝を迎えられたことに感謝します。母様と父様、ハンナたちにどうかお恵みをもたらしください……。
元気になったら、エイダに聞こう。どうして私はここにいるのか。どうして、母様たちと離れ離れになったのか。
もう、鉛色の靄が出てくる気配はなかった。
お読みいただきありがとうございます。