前編
初めて足を踏み入れた彼の自室にて、私達は応接テーブルを挟んで相対していた。
この部屋はきちんと太陽の光を取り込んでいるのに、どこか暗く見えるのは、私が拭いきれない悲しみを抱えているからだろう。
「アーノルド様。私、今日はお別れを告げに来たのです」
私はいつものように微笑んで見せたが、アーノルド様は何も言わなかった。
「婚約を解消しましょう。私ではあなたの奥方にはなれそうもありませんから」
真昼の光を受けて輝く彼の精悍な容貌が、驚きに彩られた。
ああ、やっぱりこの方は婚約解消をする気などなかったのだ。自らが申し出た縁組を破棄するわけにはいかないと、義務と誠意を優先させて。
このわかりにくい優しさに何度救われただろうか。
私は思い出す。彼と過ごした温かい日々を。
*
私は男爵家の長女で、名をセレスティア・ハウンドという。
ハウンド男爵家は領地も小さければ屋敷はボロボロで、常に金策に追われているような、典型的な貧乏貴族である。
普通なら私が金持ちの後妻にでも収まって、実家への援助を取り付けなければならないところだ。しかし両親は私に苦労をかけるのは忍びないと言って、なかなか娘の嫁入りに踏み切ろうとしなかった。
そして結婚適齢期も半ばが過ぎた頃。珍しく何処かしらのツテから紹介されたのが、アーノルド・ジェイナス様だった。
「お前がセレスティアか。ふん、貴族の娘にしては貧相だな。だがまあいいだろう、お前を私の妻にしてやる」
アーノルド様はそう宣って、腕を組んで私を見下ろしている。
ここはハウンド家の客間なので、こちらがもてなす側なのは間違いない。しかし初対面でこの上から目線、求婚に来たというのに高圧的な態度。五つ歳上の紳士とは思えない程に礼を欠いていて、どう考えても碌な人間ではなさそうに見える。
「俺は貴族と縁続きになり、社交界に出入りする権利を得たいと思っている。我が社を更に大きくするには、やはり貴族社会とのパイプが必要でな」
アーノルド様はエメラルドグリーンの瞳を笑みの形に細め、金褐色の髪を掻き上げて見せた。失礼な事を述べている最中でも、美形はちょっとした仕草が様になるのでずるいなと思う。
「いいか、俺は貴族なんて嫌いだが、仕事のために仕方なくお前と結婚しようというんだ。それをよくよく理解し、俺に要らぬ手間をかけさせないようにしろ。これが結婚の条件だ」
しかも貴族に対して貴族嫌いを公言してくるとは。どうやら歩み寄ろうと言う気は毛頭無いようだ。
「お前は俺から実家への援助を得る。俺はお前から貴族の親戚という身分を得る。この取り引きは双方実入りがあって、実に良いと思わないか」
結婚のことを真正面から取り引きだなんて言われるとは思わなかった。まったく、つくづくとんでもない人だ。
しかし私はこの話を受けなければならない。なぜならこのままでは我がハウンド家は、弟の社交界デビューの為の資金すら無いまま、ゆっくりと没落していくのが目に見えているからだ。
私の取り柄は冷静なことと、前向きなこと。いまこの性格を発揮せずに、どこで発揮するというのか。
「ええ、とてもよろしいかと存じます」
そう、二人ともに喜ばしいことがあるのなら、それでいい。
私にとってはこれ以上ない話なのだ。両親のため、家のため。せめてこの方に愛想を尽かされることの無いように、できる限り頑張ってみよう。
にこりと笑って告げると、アーノルド様は初めてその顔から笑みを消した。
「……妙な女だな」
その呟きが戸惑いに揺れているように聞こえたのは、私の気のせいだったのだろうか。
*
アーノルド様は月に一度ハウンド家を訪れるようになった。王都からこんな田舎にまで出向いて下さるとは、意外な律儀さに驚きを覚える。
しかし、残念ながら私は忙しかった。家事と弟たちの世話は私の担当なので、婚約者の来訪があるからと言って怠る訳にもいかない。
その結果、彼に掃除婦のような格好をしているところを見られようとも。
「アーノルド様、ようこそおいで下さいました」
「……おい、何なんだその格好は」
箒を手にしたまま淑女の礼をした私に、アーノルド様は呆れかえっているようだった。
対する私は焦るつもりは特にない。そもそも彼は先触れもなくここを訪れたのだし、見られてしまった以上は仕方がないのだから。
「掃除の途中でしたから。このワンピース、動きやすいんですよ」
「俺はそんな事を聞いているんじゃない。何故お前が掃除なんぞしているのかと聞いているんだ」
「それはもちろん、使用人がいないからですわ。我が家は人手が足りていないのです」
私はぺこりと頭を下げて、無作法を詫びた。
「お見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ありません。すぐに着替えて参りますので、お待ち下さーーー」
「ただでさえ貧相な見た目が、余計みすぼらしくなってるぞ。この黒髪も…頭巾で覆っていては台無しだ」
溜息を吐いたアーノルド様は、手を伸ばして私の頭の頭巾を取り去ってしまった。急な事で目を白黒させていると、彼がその頭巾を差し出して来たので反射的に受け取る。
「手が荒れているな」
「あ……申し訳ありません……」
私は慌てて両手を引っ込めた。この貴族の娘らしくない手は、私の地味な外見の中でも一際目立つ瑕疵だ。この暮らしを嘆いたことは無かったけれど、年頃の娘として悩まずにはいられない。
ましてやこの悩みを面と向かって指摘してきたのが婚約者とあっては、図太い私も堪えるものがあった。
俯いた私をどう思ったのか、アーノルド様は特に声をかけることもなく歩き出してしまった。彼は私の貴族という身分さえあればどうでも良いのだろうが、このみすぼらしさには流石に幻滅したのかもしれない。
遠ざかる背中を見つめて不安になっていると、彼は急に振り返って、面倒くさそうにため息をついた。
「おい、この俺を待たせる気か? さっさと着替えてこい」
「は、はい! 行って参ります」
私は再度礼を取ると、今度こそ自室へ向かって歩き始めた。
どうやら彼はまだ私に愛想を尽かしたわけでは無いらしい。ほっと胸を撫で下ろしつつ、私は数少ないワードローブをどう組み合わせようか考え始めるのだった。
アーノルド様が肌荒れに効く軟膏を持って現れたのは次の訪問でのこと。その際についでのように使用人を紹介され、給金はこちらで出すと断言されてしまい、恐縮した私と押し問答を繰り広げる事となるのだが、それは長くなるので割愛しようと思う。
*
どこまでも広がる青い空の下、私達は馬車に揺られていた。
アーノルド様が長期休暇を取ったということで、ハウンド領に滞在する事になったのだ。絶好のお出かけ日和である今日、私は彼を案内しようと張り切っていた。
「どうです、のんびりとしたところでしょう」
ハウンド男爵領はこの国でもど田舎と言うべき場所にある。羊の放牧地と畑が大半を占め、領民の気性は優しく気候も穏やか。ゆったりとした時間が流れるこの場所を、私は心から愛していた。
しかし、アーノルド様から見ればどうなのか。王都にて商社を経営し、華やかな暮らしぶりで知られるこの方からすれば、きっと退屈に感じられる事だろう。
私は恐る恐るアーノルド様の表情を窺った。すると、予想外にも彼は安らいだように目を細めているではないか。
「ああ、悪くない。俺は北の方の出身だから、こういう土地には憧れがあるんだ」
「本当ですか? そう言って頂けると有り難いのですが」
アーノルド様は田舎に嫌悪感を抱くタイプの御仁だろうと考えていた私は、なんだか無性に嬉しくなって微笑んでいた。
どうせなら私の愛するこの土地を気に入ってもらいたい。彼が私に興味がないことは解っているが、それくらいの願いを抱くことは許されるはずだ。
「随分と広大な葡萄畑だな」
「ええ、ハウンド領の特産品なんですよ」
「へえ…」
馬車は葡萄畑に四方を囲まれた通りへと差し掛かっていた。興味深そうに窓の外を注視する横顔に、私は思いつきを口に乗せることにした。
「行ってみましょう、アーノルド様」
「何?」
「ここの葡萄はとても美味しいのです。是非食べてみてください」
私はアーノルド様の答えを聞く前に、御者の方へ馬車を止めるよう頼んでいた。この後は景勝地をいくつか回る予定だったが、少しの寄り道はむしろ旅を楽しくさせるものだ。
アーノルド様は何も言わなかったが、いつもの呆れ調子ではなく、表裏のない苦笑を浮かべているようだった。そんなに葡萄が食べたかったのだろうか。
程なくして馬車が停止する。一人で外へと降り立った私は、キョロキョロと視線を彷徨わせると、作業中の丸い後ろ姿を見つけて声を上げた。
「フェルマーさん!」
「おお、姫さま! どうなさったのです?」
フェルマーさんは作業の手を止めると、近頃めっきり寂しくなった頭をぬぐいながら、こちらへと歩いてきてくれた。その背には収穫したばかりの葡萄を入れた籠を背負っている。
「忙しい所ごめんなさい。実は、ある方に葡萄を召し上がって頂きたくて」
「アーノルド・ジェイナスだ。はじめまして」
間髪入れずに自己紹介の言葉が飛び出してきて、私はビックリして後ろを振り返った。アーノルド様は愛想笑いを浮かべはしなかったものの、ごく真面目にフェルマーさんと向き合ってくれているようだった。
「これはご丁寧に。私は葡萄農家をやっとりまして、フェルマーといいます。姫さま、こちらは?」
「あ、ええと、婚約者なの。最近決まって」
「おお、そうでしたか! これは、おめでとうございます!」
「ありがとう」
ついどもってしまったが、フェルマーさんは何の疑いもなく祝福の言葉をかけてくれた。経緯が経緯なのもあって、未だに婚約した実感が湧かないのは、そろそろどうにかした方がいいのかもしれない。
「葡萄ならちょうど採りたてですよ! 姫さまでしたらいくらでも持って行って下さい」
「そんな訳にいかないわ。大事に育てた葡萄なのだから」
実のところ、今日は母からおこづかいをもらってきたのだ。私にとってフルーツは贅沢品という認識だが、両親も案内をするのにそんなことでは失礼だと思ったらしい。
「何をおっしゃるんです姫さま。お祝いにしちゃ質素ですが、もらって下さいよ」
「いえでも、いきなり訪ねてきて葡萄を寄越せだなんて、そんな図々しいことは——」
「俺が頂こう。いくらだ」
押し問答はすぐに終わりを告げた。アーノルド様がため息混じりにそう申し出たので、私は随分慌ててしまった。
「いえあの、アーノルド様。ここは私が」
「いいから。いくらだ、ご主人」
アーノルド様にしては下手に出ている方なのだが、それでも有無を言わせぬ迫力があるのは間違いない。結局のところ、フェルマーさんは勢いに押されるようにして頷いたのだった。
「は、はい。90リーンです」
「それは卸値か? 随分安いな」
「え? そうですか? この辺じゃ相場ですがね」
アーノルド様は少々怪訝な顔をしながらコインと引き換えに葡萄を受け取って、一粒ちぎって口に放り込んだ。私はあまりの展開の早さに唖然としていたのだが、彼がいつになく真剣な顔をしていることに気付いて口を噤む。
「ご主人、この葡萄はどこに卸しているんだ」
「この村の市場や、隣町の商店ですが」
「なるほど、それは安いはずだ。ご主人、この葡萄、王都に持って行く気はないか」
私は一瞬聞き間違いかと思ったのだが、アーノルド様は至って真剣だった。フェルマーさんに至っては驚きすぎて、開いた口が塞がらないといった状態だ。
けど無理もない。いきなり王都で商売をしろと言われて、驚かない方が無理がある。
「うちの葡萄を王都に、ですか? いやいやそんな、こんな田舎のもん、売れないでしょう」
「この葡萄は甘く酸味が少ない。王都なら800リーンは下らないだろう」
「800リーン⁉︎」
今度はフェルマーさんと揃って大声を上げてしまった。800リーンといえば、ハウンド領の領民の2日分の食費に相当する。
「場所を変えれば価値が変わる。この葡萄の価値がわかる買い手を俺は知ってる。ご主人、幾つなら用意できる?」
「は、はい。週末までに100ってところでしょうか」
「全て頂こう。まずは——」
ここからは本格的な商談になってしまって、私はただ彼らの真剣な横顔を見つめることになった。
さして出来の良くない私の頭は、専門用語混じりの会話を右から左へと受け流して行く。話合いが終わったことに気が付いたのは、二人が固い握手を交わした時のことだった。
「ではフェルマー殿、よろしく頼む」
「ええ、こちらこそ。ジェイナス殿」
いつの間にか名前で呼び合う仲になっている。何が何だかよくわからないが、しかし唯一確かなことがあった。
アーノルド様は、この貧しい土地に一つのチャンスを与えてくださったのだ。
とても嬉しそうなフェルマーさんに見送られて、私達は農園を後にした。
馬車に向かって歩くアーノルド様は、やはりこちらを振り返ったりはしなかった。けれどその背中に今までとは比べ物にならないくらいの親近感を感じて、私は思わず駆け出していた。
「あの……!」
走る勢いのまま彼の腕を掴む。ようやく合わせたエメラルドグリーンの瞳は驚きに見開かれていて、そういえば触れるのなんて初めてだなと頭の片隅で思った。
「アーノルド様、ありがとうございます」
「な、何が」
「フェルマーさんの葡萄は美味しいので、王都の方にも食べていただけたら嬉しいです。ですから、ありがとうございます」
「俺は商売をしただけだ」
「それでも、私は嬉しいんです」
この取引をきっかけに農民の暮らし向きも楽になっていくかもしれない。アーノルド様は単に仕事をしたつもりなのだろうが、私は彼が取り計らってくれた事が嬉しくて仕方がなかった。
「俺は一度王都に戻るぞ」
「あ……はい。そう、ですよね」
だから、寂しいなんて思うのは間違っている。ただでさえアーノルド様はこんな田舎にしょっ中出向いて下さっているのだ。仕事のために結婚するという彼の、大事な仕事の邪魔をするわけにはいかない。
「セレスティア」
「はい」
反射的に返事をしたものの、名前を呼ばれるのなんて初めてだったので驚いた。急にどうしたのだろうか。
「もう社交シーズンだろう。王都に来たら言え。顔を出す」
「………え」
「今日の案内の礼だ。何かしら見繕っておく」
今、なんて。
私は確認しようとしたのだが、アーノルド様は目を逸らすと、そのまま馬車へと歩いて行ってしまった。
その時、彼の耳が赤くなっていたのは気のせいではないと思う。どうしたのだろう。そんなに寒い日だとも思わないのだけれど。
*
華やかな舞台の余韻で、目の前が輝いているかのようだった。観客たちは皆満足の面持ちで語り合っており、劇場の玄関ホールは華やかな喧騒で満たされていた。
私は素晴らしい歌声を思い出して、一人心のうちで口ずさむ。
「はあ……本当に素敵でしたね。歌手さんの美しさといったらもう」
実を言うと、私はオペラ初鑑賞だったのだ。
あまりにも素晴らし過ぎて先程から溜息しか出てこない。そんな私に、アーノルド様はいつもの如く呆れ返っているようだった。
「そんなに良いか? 俺にはよくわからんがな」
「あら、それならどうしてオペラに誘って下さったのです?」
「この間、お前がこのオペラのポスターを見て羨ましそうにしていたからだろう」
この間というのは、アーノルド様が王都を案内して下さった際、共に街を歩いていたときの事だろうか。確かにこの演目のポスターを目にしてどんなに素晴らしいものかと想像していたのだが、顔に出したつもりはなかったというのに。もしかして、私は自分で思っているよりもわかりやすいのかもしれない。
「それで連れてきて下さったのですか? ありがとうございます」
「別にお前の為じゃない。オペラは貴族から庶民まで立ち入り可能の数少ない社交場だからな、ついでだ」
「こんな楽しいついでなら大歓迎ですわ」
「……お前と話していると調子が狂う」
そっけない言葉の割に、アーノルド様の口調は柔らかかった。
出会った頃は横柄な態度の方が目についたものの、彼は本来とても優しくて不器用な人なのだと思う。決して「お前のためにやった」と口にしないから分かりにくいが、何度彼に助けられた事か。
今日のドレスだってそうだ。アーノルド様は、私に社交界を出入りするために必要なものを買い与えて下さったのだ。
私はデビューの時以来、殆ど社交を行わないまま結婚適齢期を過ごしていた。王都に出てくるための馬車も、ドレスも靴も、我が家では到底用立てられなかったからだ。
あまりにも上等な衣装の数々に私は恐縮しきりだったのだが、彼は「領地案内の礼だから何も言わず受け取れ」と言って聞いてくれなかった。
貰ってばかりだな、と思う。これだけ沢山の物を頂いておいて、私は何も返せていない。
近頃心の奥底にわだかまる澱のようなものは、どうやら罪悪感から来ているらしい。地味で何の取り柄もなく、ただ貴族というだけでアーノルド様と婚約した私。二人で参加した舞踏会で陰口を囁かれたのも道理だとすら思える程、私は彼に釣り合っていないのだ。
思わず溜息をつきそうになったとき、アーノルド様が何かに気付いたように声を上げた。
「取引先の令息だ。挨拶してくるから、お前はこの辺りでなるべく地味に待っていろ」
「はい。承知しました」
そう、彼は仕事の場で私を紹介しない。私のような貧相な女では恥ずかしいし、婚約者としての務めなど期待していないという事なのだろう。
同年代の青年とその恋人らしき女性と、アーノルド様は楽しそうに会話している。その様子をぼんやりと見つめながら壁にもたれかかっていると、ひそやかな噂話が聞こえてきた。
「ご覧になって、ジェイナス卿よ。平民だけれど、彼ってやっぱり素敵だわ」
「ワイルドって感じよね。貴族にはいないタイプ」
「あーあ。ご婚約されてなければ、私が嫁ぎたいくらいなのに」
友人同士であろう貴族の娘が二人、程近い所で会話に花を咲かせていた。彼女たちは私に気がついていないらしく、アーノルド様の方をチラチラ見ながら頬を染めている。
やっぱりアーノルド様はモテるのね。
そう考えてしまえば、胸の内に巣食う澱がさらに濃度を増した。
どうしてこんなにモヤモヤするのだろう。私は混乱したが、次に彼女達の口から飛び出た言葉に全てを吹き飛ばされてしまった。
「馬鹿ね、あなたなんか相手にされないわ。近々ハウンド男爵令嬢との婚約を破棄して、オースター伯爵令嬢と婚約するって噂よ」
「ええ⁉︎何よそれ、最低じゃない! 社交界に出入りするために貧乏貴族に取り入って、いらなくなったらポイってこと?」
「何でも舞踏会で相思相愛になったんですって」
「ふーん、じゃあ恋愛結婚ってこと? まあ、そんな醜聞ごろごろ転がってるのが社交界だものね」
「間違いなくモテる方だろうし。あんな地味な子じゃ、満足できなかったんじゃない?」
「えー、じゃあ私、彼を満足させてみたいかも……」
きゃーやだ、破廉恥! などと笑いながら、彼女達は出口へと消えていった。反対に私は背中が壁に張り付いてしまって、しばらく動くことができなかった。
——貴族の娘にしては貧相だな。
彼の言葉が蘇る。そうだ最初から、アーノルド様は私について不満を口にしていた。
横柄で傲慢で、本当は不器用な優しさを秘めた人。全部嘘だったのだろうか。何度も助けてくれたことも、この半年間過ごした日々も。
——オースター伯爵令嬢と婚約するって噂よ。
オースター伯爵令嬢といえば、私ですら知っているほどの社交界の華だ。名門中の名門貴族で、我が家の家格とは比べることすらおこがましい。彼女はハニーブロンドと青い瞳を持っていて、アーノルド様と並べば、それは良くできた絵画のように美しく映えることだろう。
「相思相愛、かあ……」
「何が」
不意に頭上から不機嫌そうな声が降ってきて、私は弾かれたように顔を上げた。
アーノルド様は何か嫌なことでもあったのか、眉根を寄せて目を細めている。
「何が相思相愛なんだ。まさかお前、誰かに声でもかけられたのか」
「え? そんなわけありません。こんな地味な女に」
「自覚がないのか。こうしてきちんと着飾ったお前は、とても——」
アーノルド様はそこで不自然に言葉を切った。何を言いかけたのだろう。とても似合っていないからからかわれるはずだ、とかそんな所だろうか。
「……もういい。帰るぞ」
何故かアーノルド様は顔を赤くしている。何かを誤魔化すように踵を返した彼を、私は咄嗟に引き止めようとした。
「あの……!」
しかし結局のところ口を噤む。先程の噂の真偽を確かめようと思ったのに、喉に貼り付いて言葉が出てこなくなったからだ。
「何だ? どうかしたか」
どうして? 今ここで聞いてみればいいのに。その通りだと肯定されたところで、彼の考え方からすればおかしな事でもないのだから。
そう、初めから分かっていたのだ。この結婚はビジネスの一環であり、取引なのだから、ほんの些細なことで破談になっても仕方がないのだと。
「……何でもありません。帰りましょう」
それなのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。
どうしてこんなに、寂しいと思ってしまうのだろう。
*
アーノルド様の自宅を訪ねるのは、王都に到着した時以来初めてのことだった。
彼は珍しく上機嫌で、私を自室へと案内してくれた。品の良い老齢のメイドさんがお茶を用意して退室する段になって、私は早速本題を切り出すことにした。
「あの……伺いたいことがあるのですけど」
「何だ? 何でも言ってみろ」
尊大な仕草で脚を組んだアーノルド様は、舞台のポスターのように様になっていた。やはり彼は機嫌が良いようだ。命令口調に変わりは無かったが、声の端々から私の質問に答えようという誠意を感じる。
「アーノルド様は、オースター伯爵令嬢と仲がよろしいのですか?」
「は? 何だ、その質問は」
「お願いです。答えてください」
アーノルド様は唐突な質問に怪訝そうな顔をしたが、私が真剣そのものであることが伝わったのか、すぐにはっきりと頷いてみせた。
「彼女とは近頃商売仲間になってな、それなりに話は合う。それがどうかしたか」
貴族嫌いのこの方が、名門貴族のご令嬢と話が合うと仰るなんて。
これではっきりした。やっぱりアーノルド様は、あの美しいご令嬢のことを愛しているのだ。
あの噂を耳にして一週間経つが、彼は何も言わなかった。だからこそ私から伝えなければならない。
「アーノルド様。私、今日はお別れを告げに来たのです」
私はいつものように微笑んで見せたが、アーノルド様は何も言わなかった。
「婚約を解消しましょう。私では貴方の奥方にはなれそうもありませんから」
彼の表情が驚きに彩られていく。先程までの上機嫌を消し去って、何を言われたのかわからないとばかりに呆然としている。
ああ、やっぱりこの方は婚約解消をする気などなかったのだ。自らが申し出た縁組を破棄するわけにはいかないと、義務と誠意を優先させて。
「私のこと、ハウンド家のことはどうか気にしないでください。何とかやっていきますから」
まともな嫁ぎ先は見つからないだろうが、流石に皆無でもないだろう。これから頑張らなければ。
「既に頂いた援助に関しては、お返しできるように努力いたします。すぐは無理でしょうけど、長い目で見ていただけると助かります」
そういえば、フェルマーさんや、他の農家とも始めていたという取引はどうなるのだろう。皆には本当に申し訳ないことになってしまった。
「それでは、私はこれで。半年間ありがとうございました」
私は座り心地の良いソファから立ち上がると、丁寧なお辞儀をして踵を返した。
いつもの笑みを浮かべながらも、千切れそうなほどの胸の痛みのせいで足が重い。これでやるべき事は済んだ。さあ、もう帰ろう。首都の小さな別邸ではなく、大自然に囲まれた古くて大きな我が家へ。
しかしそれは叶わなかった。ドアノブにかけようとした右手を、後ろから掴まれてしまったからだ。
「待ってくれ!!!」
命令口調じゃないなんて随分珍しい。私はそんな事をぼんやりと思いながら、無意識の内に振り返っていた。
そこには見たことのないような表情をしたアーノルド様がいた。焦っているというか、切羽詰まっているというか。どうしてこんな顔をしているのだろう。これは彼にとって良いことのはずなのに。
「何が不満だ」
「え? あの……」
「いや、違うな。俺はお前にひどい態度を取ってきた自覚はある。貧相などと罵った事か。貴族は嫌いだと、この結婚は取引だと言った事か」
「アーノルド様? 私、別にそんなことは」
「だったら何故だ。言え」
「言えって……」
この時、私は彼と居て初めてムッとする思いを味わっていた。
どうしてそんな事を気にするのだ。この方は私のことなんてどうとも思っていないのだから、別れを切り出してくれてラッキーくらいに考えてくれれば良いのに。
「あなたがそうしたいようなので、察して動いただけのことでしょう」
「なんだと? どういう意味だ」
「どうして私がそんな事を口にしなければならないのですか。いいから、もう離して」
アーノルド様に対してこんなに冷たい態度を取るのも初めての事だった。私は彼と一切目線を合わせないまま、余計に痛みを増した胸の内を持て余していた。
きっとひどく怒らせてしまったことだろう。怒鳴り声でも飛んでくるだろうかと身構えていたのだが、長い時間の後に返ってきたのは、手首の拘束が解かれるという弱々しい反応だった。
「……そうか。そんなに俺のことが嫌いか」
聞いたことのないほど沈んだ声がして、びっくりして思わず顔を上げる。彼は悲しみをこらえるように目を細めていて、私は困惑するしかなかった。
どうしてそんな事をおっしゃるの。私があなたを嫌いなのではなくて、あなたが私の事をどうでもいいと思っているのでしょう。
私は疑問を言葉にするために口を開きかけたのだが、彼が爆弾を落とす方が早かった。
「それでも、俺はお前のことが好きなんだよ!」
………………はい?