第90話 キメリズム
モストリアの目立たぬ小さな洞窟の中で、激闘は続いている。インポスト氏を締め上げ続ける、肉体的変革の真っ只中にあるリモスと、激怒によって自我を失えば誰よりも強いもがき続けるインポスト氏。氏は体の自由を完全に封じられていたが、戦いはそれ以上進展はしない。リモスに、氏を締め落とせるほどの力がない為である。決め手を欠いた二体は無言のまま、しばらくの時を過ごした。
それはある種、特異な時間だった。横たわる氏は抵抗しても脱出できないと悟り、リモスを宥めすかす言葉をを考え始める、一方のリモスの方では、肉体的飛躍への感激に震えながらも、その後どうすれば良いのか、皆目見当がつかなかった。
「凡……リモスや、もうここいらでどうかね」
氏は精一杯の猫なで声を出すが、かえって不気味ですらある。しかし、次なる一手を見失っていたリモスは、その音葉に飛びついた。
「閣下、私の免責について、ご確約を」
「無論だとも」
この場には二体きり。インポスト氏が偽りを述べていれば、解放した後に、引き続き攻撃を受けるだろう。それで殺されてしまうかもしれぬ。しかし、人の良いリモスはもう一度念押しをして、心と行動の保証を得ようとする。
「か、閣下。間違いはございませんね」
「ああ、保証するよ凡夫」
すでに氏が通常運転に戻ったと判断したリモスは、ここで拘束を解きにかかった。ニタリと笑みを剥き出してしまったインポスト氏は、緩みを確認すると、次の攻撃行動に移ろうとする。
「はい待った」
しかし、行動は起きなかった。二体とも夢中で気がつかなかったが、すでに意識を取り戻した猿が戻ってきており、その手に持つ小刀をインポスト氏の喉元に突きつけていたからである。
「リモス甘いぞ。せっかくの優位を自分から捨てるなんて、もったいない」
「凡猿、なにを言うか!」
猿の言葉で気を引き締め直したリモスは、再び拘束を強くする。苦しさの中、憎しみに満ちた表情で猿を威嚇する氏だが、それを無視して小刀を繰りインポスト氏の顎髭を剃り始める猿。
「ああ……」
つい恍惚の表情を浮かべる氏は、快感を振り払い、先ほどから脳裏に浮かんでいた疑問を猿にぶつける。曰く、
「凡猿よ。そなた、両腕とも無いのにどうやって小刀を持っているのだ」
ニヤリと微笑んだ猿は、氏の顎髭を整えながら曰く、
「これこそ奇跡の名に値するというもんです。俺がリモスに感じていた可能性とはいささかながら方向性は違っていましたがね」
「これは……ボクがやったものか」
リモスも驚いた現象、それは猿の腕に残ったリモスの粘液物が、まるで猿の腕のように形を変じ、小刀を握り、丁寧に髭を剃り続けているということ。猿自身の意思によって、その粘液手は動いているように見えた。
「リモス、大した特質だ。傷の痛みももう無いし、俺も片輪の端を失わずに済んだようだ。この先、原理原則も分からないこの義手がどうなるかは、さっぱりだがね」
猿は目覚ましいリモスのステップアップに賛辞を贈り、インポスト氏への説得を始める。もはやリモスは、金の採掘のみでしか活躍できないわけではなく、見た通り闘いの役にも立つだろうと。心中のところ、顎で使える部下を欲していた氏は、この言葉が耳に入るやようやく頭を冷やす事が出来た。そして、今後の方針について、ようやく話し始める事ができたのである。
「あの売女には男を視る目はあるようだ。黒髪にトカゲ軍人、どれも後には勇者に僭称輩だ。奴と寝れば、幸運が舞い込むというワケだ」
そう嗤うインポスト氏に猿は曰く、
「黒髪は死にましたがね。それにその法則が成り立つなら、ここのリモスにだって幸運の目がある」
「傷を治したり、体を伸ばしたり、無力な粘液体としては多才になれたではないか」
「閣下やヘルメットに殺されそうになって、追い詰められたからでしょうが」
「そのヘルメット。あれが未来都市で最も腕が立つ戦士だろう。軍の実質的な統率者でもある。あれを殺せば、未来都市の瓦解を狙えるはずだ」
「確かにそうでしょう。しかし、未来都市を今滅ぼす理由はありますか」
「そなたら凡夫どもの命を狙っているではないか」
「もはや俺たちの事は追わないでしょう。それより今はモストリアの一角ででも力を蓄えて、好機を狙った方がいい。今、未来都市は神官を追い出して内政に力を入れているから、攻め時ではない」
「凡猿も他の輩と変わらん。同じ事を言う」
「その正しい事を言うのは、閣下の言う副官殿ですかね」
「私の考えでは正しくない…が、そうだ」
「何者ですか」
クスクスとわらったインポスト氏。
「覚えているだろう。お前の耳を石にして落としたあの査問官だよ。いい気味だな」
さすがにすぐに言葉が出てこなかった猿だが、慨嘆して曰く、
「この爪弾きの組は、本当に行き場を喪失した難民の集まりだ」
これを聞いて氏はまた激怒した。
リモスの体が分離した猿の右腕には、リモスの粘液体が残っている。というより、肉体と粘液の重なる箇所は一体化しているようである。それは猿の意志で手のようにも棒のようにもなり、
「義手というよりも、新しく移された手だ」
という実感が日々募っていく。だが、一度負傷し傷が塞がった場所へは、リモスの分離移植的治療は効能のない事も分かった。
「まるで接ぎ木のようだ」
とインポスト氏は笑ったが、その評価は意外と的を得ているのかもしれぬ。ところでリモスの特質を身を以て体験した猿がより重視していたのは、治療よりも、体の操作の方であった。意識を半ば以上喪失していたとはいえ、体をあのように操作された事を思うと、
「あれこそが真の奇跡だ。戦闘で無力な俺ではなく、例えば勇者黒髪や魔王、ヘルメットを操る事ができれば、リモスは一気に最強の戦士に並ぶではないか」
この実験を、猿はするつもりであった。また、リモスも猿を救い、ヘルメット魔人からの追跡を逃れ得た自身の底がまだ見えない能力について、さらなる理解を求めていた。
「シッミアーノでは上手く行ったけれど、やって見ないと、わからないよ、こればかりは」
「そうか、では実験体が必要だな。しかし喜んで腕を落としてくれる奴なんて、そうはいないよな。偉大なる閣下殿がこれに協力してくれたら良いんだがね」
たまたま通りがかって猿のこのセリフを聞いた氏は、真っ青になって激怒した。
「凡猿よ…わ、私を裏切るのか!」
腕を隠して後ずさりする氏に対して、本音ではそうしてやりたいという思いを隠して、猿は弁解する。
「閣下、そうではなく、適当な奴がいたら腕を切り落としてもらいたいという事ですよ」
ホッとしたインポスト氏曰く、
「あまり野蛮な事は好む所では無いのだが」
「インポスト閣下、戻りました」
そこに元査問官が帰ってきた。リクルートに成功した数多くの魔人を引き連れている。魔人らしき姿を見た段階で、勘の良い猿は奥へ引っ込んだ。しかし、このような時にインポスト氏はどこまでも善良である。両手を広げて、元査問官の帰りを歓迎する。
「おお、我が副官よ、よく戻った。この強兵達が、我が僕であるか」
「その前に、お伝えする事があります」
「何かね、国際情勢の急変か」
「いえ、閣下。後ろの者共も含め、私は閣下から離れ、未来都市に属する事と致しました。これまでの縁もあるので、何を置いてもまずそのお知らせをと思いまして」
キョトン顔の氏は、元査問官の言っている意味を理解できなかった。
「何を言っているのかね」
「ですが、お別れのご挨拶は致しません。閣下をこのまま、未来都市へお連れします。都市の政権に従うのであれば、閣下も厚遇が約束されるでしょう」
「しかし、未来都市は憎き勇者黒髪の残党腹が……」
「そう、その残党の側に私は与したのです」
「何故だね。兵力を得るためか」
裏で聞いていたリモスと猿は、元査問官の行いが裏切りであること、今まさに魔力を高め臨戦態勢に入っている事を敏感に感じていた。しかし、初心なインポスト氏は気がつかない。
「いやはや、ここまで愚かでは、未来都市の役には立ちますまい」
氏の正面に立った元査問官が魔力を解き放つと、インポスト氏の両腕が石のように固く重くなった。氏の驚愕と動揺が入り混じった悲鳴が響き渡る。この石化の被害を受けたことのある猿は、元査問官を見て名案を思いつく。
「リモス、あの野郎を乗っ取るぞ。そう、お前が乗っ取るんだ」
「しかし、傷を付けるはずの洞窟長があの有様では」
「あのグレムリン野郎の体を切断することぐらい、俺にもできるはずだぜ」
そう言って、猿は火起こし用のナタを手に取った。
「それ錆びついているよ。大丈夫かな」
「切断しきれなくても、ともかく取り付け。ほっとくと元洞窟長閣下の腕も、俺の片耳みたいに落ちてしまうかもしれん。それではお前の能力を活かしきれんぜ、行くぞ!」
しかし、すでにインポスト氏が悲鳴とともに猿とリモスの名を呼んで救援を叫びまくっていたため、二体が躍り出た場所に、魔人達が控えていた。
元査問官は少し考えて、すぐに猿を思い出す。
「懐かしい。私がグロッソ洞窟で耳を落とした猿ではないか。インポスト殿とは敵対していたのではなかったかね。悪い事は言わんし悪いようにはしないから、降伏せよ」
「凡夫凡猿!この凡官は私を裏切って殺すつもりだ!う、腕が動かない……」
猿は武力の輩ではない。よって、生き残るには弁舌で戦わねばならなかった。立ちふさがる魔人の背を越えて、交渉を持つ
「閣下、お久しぶりです。俺たちのも降伏するのに吝かではないが、勇者代理に命を狙われている。命の保証さえあれば、まあ喜んで」
さらなる裏切りに絶句するインポスト氏。猿の言葉に元査問官曰く、
「インポスト氏の身柄と引き換えであれば、勇者代理も納得されよう。口添えを約束する」
「これはありがとうよ……一つ質問が。前の魔王陛下の行方は。いま何処へ?」
元査問官も少し肩を落とし申し訳なさそうに曰く、
「わからん……まるで情報が入っていない。その生死も依然不明だ」
「それにしても閣下はどうして未来都市側へ?領域リザーディアの新魔王の側へはなんでいかないの?」
思わぬ質問に、言葉を濁した元査問官へ、猿は畳み掛ける
「閣下にとって新魔王はかつての同僚で、その風下に立つのが嫌だから未来都市の側へ着き、新魔王を片付けたら未来都市を裏切って自分が魔王になる、という腹づもりかな」
「何を言う!」
「図星だろう。でなければ、わざわざインポスト氏を殺そうとはしないはずだ。はっきり言ってこのお方がどれほどの物か、知らぬはずはない」
要は、頭抜けた無能、と言っているのだが、その意味が通じた元査問官は言い返す。
「この鬼の下で雌伏していた頃の私の屈辱が、貴様に分かるはずがない!良いか、黙って降伏せよ!二度とつまらぬ事を口にしてみろ、その顔面を石塊に変えてや…る…」
元査問官がいい終わらぬ内に、猿とリモスは飛び出した。猿と元査問官のやりとりで、部下の魔人達に動揺が広がったタイミングを、猿は見事に掴んだ。
インポスト氏に比べれば遥かに小さな体系の小鬼である元査問官は、猿の攻勢を前に羽を揺り動かして宙へ逃げた。が、この時は猿の俊敏さが優った。振り回された錆びついたナタが、元査問官の右足を皮一枚で繋がるぐらいまで切断したのである。元査問官は悲鳴とともにその魔力を全開にし、当たるを幸い次々に石化させて行く。魔力の直撃を受けた猿も、周囲の魔人達も、石化禍を免れなかったが、猿の陰から飛び出したリモスが、狂える小鬼の傷口に取り付いた。そして浸潤を図る。
急激な鎮痛的快感が元査問官を襲う。頬を染めながらも取り付いたリモスを剥がすため、石化の魔力を撃つ。が、無機物であるリモスには、石化の魔力が効果が無い。
「なんと」
リモスのような粘液体、雑魚相手に魔力を行使したり、虐待をした経験がない清廉な性事が、この際は不覚につながった。そして、リモスはすでに体に取り憑いているのである。元査問官の魔力は、彼自身を侵し始めた。片足ほぼ切断に体の一部石化、そして波のように襲い来る快楽に、元査問官は一瞬、失神しかけた。
これまでひたすら腰の低い怪生を選択してきたリモスにとって、相手の様子を伺う事は生き方をそのものであった。気を離してしまった元査問官の体の操作権を、見事に奪った。リモスと元査問官の口から同時に言葉が漏れる。
「やった、シッミアーノやったよ!」
見事、査問官の体を乗っ取ったリモスが振り返り見た風景では、猿にインポスト氏、魔人達の石化した体が転がっていた。彼らの苦しげな呻き声が、洞窟内をどこまでもこだましていた。




