第75話 栄光からの逃避行
モストリアでも比較的古参の怪物達が一体の指導者の背中を見つめている。スラリと美しい背中に堂々たる風格、気品、怪物世界の伝統的な神装であるその怪物は、その静かさをたたえた姿とは異なり心中の苛立ちを抑えるのに懸命であった。その怪物、神官に、伝令係が報告する。
「北西の衆はこちらに向かってはおりません。未來都市に入り、行政府に忠誠を誓ったものと思われます」
「やつら反妖精女の急先鋒だったくせに」
「もう、猊下に従うモストリアの衆は我々だけです……」
力なくうな垂れた古参の怪物衆を前に、神官は言葉もなかった。挫折に眩暈を覚えながらも考える、勇者黒髪の生前とはまるで風景が変わってしまったのか。思い出に浸れば、貴君と呼びかけた類まれな才能の持ち主の声が、今にも聞こえてくる。
「貴方は理知的で話が通じる。落としどころについて話し合える相手というのは、信頼がおけるよ」
「私は勇者としてモストリア総督として、どちらの名声も汚さないように働くつもりだが、それには貴方の協力が欠かせない。何があっても貴方を逃がすつもりはないぞ」
「我ら人間にとってだけではない。辺境の魔の地で、私と貴方が邂逅した事は、怪物世界にとっても圧倒的な幸福だと思うよ」
かつて黒髪が話しかけてきた思い出に浸っているだけで、神官は幸福だった。が、そんな怪物を、部下たちは不安そうに見つめている。そして、彼らが行う報告は、神官を現実に引き戻す役にだけは立つのである。
「猊下、今は逃れることに成功しましたが、このままではいずれ追撃を受けます。モストリアを逃れ、何処かの新天地で捲土重来を期すのです」
その言葉に頷き、逃走中にも果たしてそれが可能なのか、神官には疑問であった。不遜な妖精女は、かつての黒髪の如く装い、栄光を掴んだ。対する自分はどうか。逃避行中、喉を癒すために湖の前に立つと、湖面に映った己の姿を見て、神官は合点がいった。
「この姿は前の魔王に近い気がする。先祖の遺光に頼りきり、部下どもに命じるだけで自身から危険に身を晒そうとは決してしない、そんな存在……」
自嘲した神官は惨めな自分を見ることで、容易に目的を思い定める事ができた。逃避行中も隙を見ては部下達は去っていく。そしてそれを無理強いして止めるつもりにはなれないでいた神官だったが、その日はついに、逃げようとする部下を目で射て、動きを止めさせた。
「行く先を定めた」
「猊下、もうモストリアでは再起は不能です。ですがそれは猊下に限った事。我々だけなら、モストリアをに戻れるのです。そんな我らと、どこへ共に逃げようというのですか。ここまで付き従った忠誠に免じて見逃してください、お願いします」
「貴様達が人畜生より劣る裏切りに手を染めるというのであれば、あえて止めはしない。が、私は行く先を決めたのだ。新たなる魔王の下で怪物衆の世を支える」
「新たなる魔王の……トカゲ軍人の下ですかか。それはよした方がいい。猊下は黒髪が攻めて来た頃から、あちら側と懇意だったのですよ。対してトカゲ軍人は黒髪と敵対して、今の地位を持っている。今となっては相手にされんでしょう」
そういうと、その怪物は頭を下げながら、モストリアへ去っていった。ふと、周囲を見渡すと、神官はたった一体になっていた。
その通りかもしれない、と自身も思う神官だったが、もはや自身にとって価値のある行く場所はそこしかない。南東に向けて歩み始めた。
神官はグロッソ洞窟へ向かうさなら、新たなる魔王の実力について考えさせられる。平原を抜けて山岳地帯に入れば、少し前までは多少分裂気味ではあったがそれなりに力のある人間達の帝国が控えていたはずだ。だが今や、その国家の形は影程度にまで没落している。
「旦那、御旅行ですか、我々もですよ。あちらもその様で」
変わって、獣道を活発に行き交う怪物衆の数の多さに感心する。彼らは略奪品や人間の人質を連れていることもあるが、質実剛健とは一様に縁がないようであった。怪物達も着飾り、奴隷を従え、所有する物資財産の多さを自慢しているかのようであった。
「なるほど、これが新たなる魔王の治世か。怪物達にとっては間違いなく良い時代だろう。なにより品は無くとも活気がある」
神官は勇者黒髪の提唱した、怪物と人間の共存を目指した世界、あの未来都市に思いを馳せた。怠惰で数は多い怪物達と少数だが勤勉な人間達。両者の距離は、勇者の強制や法の整備があっても、一朝には縮まらなかった。
それがどうだ。新たなる魔王の施策で、怪物と人間の間の距離は一気に縮められたようだ。敵意は残りつつも、身近なものになっている。
「例え、怪物が主人で人間が奴隷だとしても。主人だって日々の雑事のために、そう簡単に奴隷を害したりはしないものだ」
怪物の主人に従う人間達も、諦めの境地にあるというよりは、その状況で如何に少しでも豊かになろうか、考えているようであった。
もちろん、勇者の黒髪がいなければ、トカゲ軍人も魔王に名乗りをあげることはできなかっただろう。それほどまでに、魔の住民たちにとって、勇者黒髪を討った、という事実は大きいのだ。怪物達に勇気と希望を与えるものだ。
「それに比べれば、勇者黒髪が提唱した人怪共存は、如何にも偽善的で胡乱なものに見えるに違いない」
神官は、魔王が自分を気に入ってくれるだろうかと考えはしなかった。逆であって、自分は魔王の粗野な振る舞いに耐えられるだろうか、と考えていたのである。
この怪物の生き様はともかく、神官は自分が必ず受け入れられると考えていたし、当てもあった。かつて勇者黒髪が帝国領へ進軍したとき、参加した魔人や怪物衆に給与代わりに渡していた証券の存在だ。将来の黄金支払いを約束したこの書類は勇者の死後、価値と将来性を失い紙切れになりかけていたが、勇者に扮した妖精女の活躍の結果、再びその価値を取り戻し始めていた。怪物間でも流通していたため、この証券に対して何かを仕掛けることは、すなわち
「極めて有効であって、経済混乱を事とする新たなる魔王は、決して捨てないはず」
この思いのみを胸に、過去も現在も未来もそりが合わないだろう新魔王の下へ走った神官は、何によって動いていたのだろうか。勇者黒髪への追慕、愛だろう。例え勇者を殺した相手であっても、敵の敵は味方なのだ。この生き方を選択した点では、神官は骨の髄まで感情に左右される怪物であったと言えるだろう。
最後に神官から離れたあの怪物は後に語る。
「後から歴史を振り返ると、あの時に猊下がモストリアに戻っていればどうなっていただろうか。戦士ハゲの一党がまさに混乱を引き起こしていたのだ。彼らが共闘をしていたらと思うと、猊下は幸運を掴むことには失敗したのだと思うよ」
対する勇者黒髪の遺産であるモストリアをついに統一した妖精女一党は、彼女自身が感じていたように幸運を手にしていた。勇者黒髪の死というどうしようもない打撃からなんとか立ち上がり、黒髪が妻を救いにゆく前の時点まで、体制を維持することができたのだから。
妖精女と神官、勇者黒髪の腹心だった二体は、二度と同じ陣営に立つことは無い。この極めて個人的感傷的な結果の決別は、時代を取り巻く登場人物たちの動きを加速させる一因になるのである。




