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チェリー・ピッキング・コットン

 私はもういい年齢なのだから、あまり美味しいところだけを選り好んでいてはいけない。

 子どもの頃は自然と大人に成れると信じていた。

 そんな純真さを失って、もうどのくらい経つのだろう。

 お酒を飲んだら、煙草を吸ったら、セックスをしたら、まるで大人になったかのようにその時は錯覚して。

 ずるずると流されるまま、それなりに苦労しつつも進学、就職とこなしていって。

 そして、あんなに成りたかった大人という立場はいつのまにか当然になっていた。

 もう少し感慨深いターニングポイントがあってもいいのに、そんなわかりやすい出来事はなく。ただ仕事に追われていただけ。

 いつのまにか年上の人の数が減り、いつのまにか年下の数が増え、私は大人になっていた。

 何を得たかといえば、少しは自慢できる貯金と図々しさ。失ったものは、何だろう。あまり楽しい思い出がないことだろうか。

 だから、これはせめてもの自分へのご褒美だ。

 ほんの少しだけのつまみ食い。

 そう自分に言い聞かせる。



「お疲れ様です。歯医者の予約があるのでお先に失礼しますね」

 淀みなく退社の挨拶をこなす。

 幸い、上司は小さく「お疲れさん」と疲れた声色で呟いただけだった。

 長いこと勤めている職場だ、多少は融通が利くもののまだデスクに向かっている同僚たちを尻目にそそくさと逃げ出す。

 古い貸ビルの四階からわざわざ空調がろくに効いてないエレベーターに乗る気になれず、階段へと向かう。

 コツコツと響く足音。窓から入り込む日差しはまだ明るく、踊り場の姿見に写る自分の姿がはっきりと見えてしまう。

 髪はいつから染めていないのだろう。黒髪といえば聞こえはいいけれど暗く重いそれを適当に束ねているだけなので、不意に見ると自分でも野暮ったく思う。

 服装も洒落っ気のないパンツスーツと地味な鞄で女性らしさがない。本来、女子社員は華美なものでなければ私服が認められているのだけれど、もう面倒になってしまった。

 化粧だって手抜きを覚えて、もう五分も掛けていない。そんな女が休憩室で煙草をスパスパ吸ってるのだ。後輩たちがこっそりと「女を捨ててる」と言っているのは知っているけれど、何も反論が出来ない。

 けど私がスカートを履いたところで、メイクをしっかりしたところで、何が変わると言うのだろう。周りの好奇の眼差しと隠したつもりの失笑に、惨めな気持ちになるだけなのに。

 足取りは重い。

 けれど背筋を伸ばす。

 もう大人なのだから、意地くらい張らないといけない。



「お待たせ」

 意識して素っ気なく声をかける。

 待ち合わせ場所には既に彼が所在なさげに立っていた。スーパーの前に繋がれた犬のように少しだけ落ち着かない様子で。

 思わず頬が緩みかけるのを慌てて堪える。

「いえ、全然待ってないです」

 彼ははにかみながら返事をする。教科書じみた受け答えながらどこかそこに安堵する。

 もちろん歯医者の予約なんて嘘だ。

 これくらいの図々しさは年齢と一緒に得た。僅かな疚しさと責任感から、それほど忙しくない時にしか使えないけれど。

「どうする、先に食事行く?」

 そして歳を取って得たものは図々しさだけではない。このずるい計算高さもだろう。

 彼の僅かな躊躇いが顔に浮かぶのを見て、汚い感情が湧き上がる。でも彼にそれを言わせるのは酷だろう。

「じゃあ先に運動ね」

 それに私だってそうしたいのだから。



 一人でシャワールームに入る。この無防備な姿を遮っているのは曇りガラス一枚と思うと少し心許ない。

 それでも前に入ったホテルよりかは上等だと自分に言い聞かせる。あの部屋は安いのもあったのだろうか、ベッドから丸見えなのは辟易した。

 手早く肌着を脱ぎ、鞄に隠すようにしまう。仕事帰りなので身に付けていたのはベージュの色気のない、率直にいうならババくさい物だ。あまり見られたくはない。かといって派手な色の物を身に付けたいわけでもないのだ、面倒なことに。

 念入りに体を洗う。肌を打つ熱いシャワーが心地好い。そして期待と僅かな罪悪感が体を熱していく。

 けれどその熱は鏡に映った自分の姿を直視する度に少しずつ冷めていく。

 年齢の割にはスタイルは良いと自負している。掌から溢れるほどの大きさの乳房も、蕩けるような曲線を描く腰も充分に性的と言えるだろう。

 でも、私は醜悪だ。女性らしくといえば聞こえはいいが若いころよりも肉がついたというだけ。つまるところ年相応で、本来なら悲観することではない。でもやっていることといえば右も左も分からない子どもを騙し討ちしてるようなものだ。

 首を振って、そんな考えを追い払う。どうせ悲観したところでもう私の体は疼いてしまっているのだから。まとめていた髪をといて、バスローブを羽織る。彼と私を遮っていた曇りガラスの扉を開けて、踏み出す。必死に言い訳を自分に言い聞かせながら。

 既にシャワーを浴びた彼はベッドに横になりながらぼんやりとアダルトチャンネルを眺めていた。

「灯りを消して」

 扉から踏み出した場所で動かないまま、声をかける。

 懇願するように、命令するように。

 この体を明るい部屋で見せるわけにはいかない。

 彼は私以外の女を知らない。

 でもこれからいくらでも知る機会はあるだろう。その時に彼と同年代の少女のしなやかで張りのある肌や乳房と比べられるのは、耐えられない。

「お願いだから、灯りを消して」

 私の再度の言葉に彼はようやく灯りを小さくしてくれた。



 さっきシャワーを浴びたばかりだというのに、彼の肌には玉のような汗が浮かんでいる。張りのある肌を滴っていくそれをなんとはなしに眺めていた。

 同じように私もうっすらと汗をかいていて、でもそれは白さしか取り柄のない肌の表面に滲んでいる。

 彼は、若い。

 こんな時でさえ、年齢の違いを突き付けられる。

 けれど彼の乱暴な動きはそんなつまらないことを忘れさせてくれる。

 そう、今はただこの火照りのままに彼に溺れよう。淫らな声が漏れる。息づかいも甘くなる。私はこの欲望のままに彼を私の柔らかい部分でつまみ食いをするのだ。

 そして私が彼を食べれば食べるほど、彼も私を貪るのだ。

 私が欲望のままに求める様は彼の雄の本能を刺激する。わかっている、理解している。だからこそやめることは出来ないし、やめるつもりもない。

 歳と取って得たのは図々しさと計算高さ、それと快楽への素直さ。



 意外と厚い胸板に顔を埋める。

 まだ少年といっていい年頃だというのに、そこに確かに男を感じる。当の彼はまだ息も絶え絶えといった様子で起き上がる気配がない。

 そこまで急かす時間でもないと時計を確認し、シャワールームへと向かう。

 互いの汗やそれ以外の物で汚れた体は熱いシャワーで綺麗になるのだろうか。倦怠感と眠気に襲われ朦朧とした頭で、彼のことを、そして彼とのことを考える。

 この関係に疑問がないわけではない。時々会ってセックスと食事をする。会計は私が出す。彼はせめて半額は出すといってくれるのだけれど、それは私のつまらないプライドが許さない。

 端から見れば若い男を買っている色ボケババアだ。何も反論が出来ない。

 私はどうしたいのだろう。もう何度も繰り返している問いだけれど正しい答えは出せない。

 このつまみ食いを出来る限り続けていたい。ずるい思考だ。でもこれが私が私を許せる妥協点でもある。

 彼は質の悪い女に引っ掛かったものの、それなりに美味しい思いをしたらしい。最終的にそんな結果が望ましいのだ、多分。

 ちくり、と胸が痛む。

 自覚してはいけない。これを認めてしまったら私は、もう大人でいられなくなる。

 熱くて、痛い。

 意識がそこに辿り着く前に、のろのろと体を拭き、地味な肌着とパンツスーツを身に付ける。こうすれば私は大人として振る舞える。

 彼にもシャワーを浴びるよう促し、私はベッドに腰かける。

 ぐちゃぐちゃになったシーツ、転がってるコンドームの包装、体液の匂い。

 その全てから逃げるように煙草を吸い出す。最初は大人になりたくて始めたこれが今になって、こんなに滲みる。

 吸って、吐いて、吸って、吐いて、視線はぼんやりと天井に向かって。この煙と一緒に私の中のもやもやも体の外へ吐き出せてしまえたら。馬鹿みたいな考えがぐるぐると意識の中を巡る。

 そうしていたら結構な時間が経っていたらしく、いつのまにか服を着た彼が私の側に立っていた。

「煙草、最近よく吸ってますね」

「うん」

「俺も吸ってみようかな」

「ダメ」

「ダメなんですか?」

「だって貴方まだ二十歳になってないでしょう」

「セックスはいいのに?」

「セックスはいいの」

「へんなの」

 私はもう三十歳になる。

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