15
ローナの作り出した水壁は、全てが水でできている。
彼女の場合、本来必要である媒介を必要としない。
第三魔法を扱うものならば、ほとんどの人間が持ち運ぶ水袋を所持していないのは、彼女の才能をすぐにわからせることができる。
「すごいね。詠唱もなしに」
その子供がいるのは水の中である。
普通ならば、声を出すことはできるはずもないし、呼吸もできないはずである。
ローナは、その少年の魔法力を察した。
少なくとも、自分と同じレベルの魔法は使えるようである。
「変化の魔法――完全に自分の体を水に変えることも可能なのね」
「んふふ。お前、弱いだろ」
一瞬で弾け飛ぶ水壁。
その水滴ひとつひとつは、もう既にローナの作り出したものではなかった。
彼女の魔力を通しても操ることはできない。
既にベルという少年のものだ。
水滴ひとつひとつ、大したものに見えなくとも触れることは躊躇われた。
水滴に混じる黒い螺旋。
正面からくる全てを避けることは不可能だ。
「くっ!」
ここで同じように水壁を作り出して防御したとしても、結果は同じだ。
とすれば、他の方法を見つけなければならない。
ローナは自分に触れる可能性のある水滴を目で追う。
そして、見えなくなったベルの姿に気がついた。
水滴に混じっている可能性は高いが、それではどうしても特定ができない。
「貰ったよ」
背後からの攻撃――勝利を確信したベルの必殺の一撃だった。
「うっ!」
しかし声をあげたのは、ローナではなかった。
「お前! 僕を騙したな!」
「なに? 信じたほうが悪いのよ」
ローナは無傷だった。
水滴はどこにも見当たらない。
腹部を抑えて立つベルは、悔しげに声を荒げる。
騙すことが彼の生きることだ。
騙されることなど、彼のプライドが許さない。
ローナが握っていたのは杖であったはずである。
だからこそ、ベルは近接攻撃を仕掛けたのだ。
離れていれば、魔法攻撃の危険性が高まるのみ。
近づくのが最適だった。
いくら無詠唱で魔法が唱えられるにしたって、近づかれてしまえば自分を巻き込む可能性もある.
だからこそベルは安全であるはずの背後から、一気に襲い掛かった。
しかし、いまローナが持っているものは違う。
「仕込み刀なんて卑怯だぞ!」
「だれも杖が適正武器だなんて言ってないもの」
「うぎぎぎ」
ベルは彼女の刀を睨みつける。
刀が適正武器だとも言っていない。
いや、そもそも人間同士の戦いにおいて、適正武器なのかどうかは問題ではない。
扱いさえ知っていれば、人を傷つけることはできるのだ。
魔物でないのなら、どの武器でも傷をつけることができる。
武器スキルが扱えるのは武器適性のある武器のみ――それがどの武器から飛んでくるのかがわからないのが、対人において気にしなければならないところだ。
ローナにとっても、相手の武器がわからないのは気にかかるところだった。
水滴に混じっていた黒の螺旋。
風魔法で吹き飛ばしただけで、それがなになのかはわからなかった。
それより気にかかるのは、一瞬で姿を消し、気づけば背後に現れた妙技。
もし仮に透明に変身できるにしても、全方位に飛び散った水滴を追い抜いて背後に回りこむことが可能なのかどうか。
そもそも水滴を避けて背後に回ったのなら、ローナにもできないことではないはず。
水滴に化けていたのだとして、まだローナに到達していない段階で背後から攻撃があったのだ。
動きが速すぎる。
その割に、ローナからの攻撃は避けきれなかったのだ。
不意の一撃とはいえ、ローナには引っかかった。
「あんたは商人を装いあの子達を街の外に出した。ある程度離れたら全員を一人ずつ洗脳して、そしてどうするつもり? 『血に溺れた英雄』っていったい何なのかしら」
「なんだよ、僕に勝ったつもりなのか?」
「切ったのは腹だけじゃないわ」
「え? そうなの? ここ?」
ぱっくりと足に切り傷が現れる。
痛がる様子はなかった。
ローナは自分の刀に視線を移す――血が付いていない。
なにも切ってなどいないようだった。
しかし、彼女には確かに、手応えというものがあった。
なにかを断ち切った感覚はあったのだ。
「その姿、油断させるための姿だって思ってたけど――」
「これは僕の本当の姿だよ」
「人間じゃないわね、あんた」
「そうだよ。だから僕には、武器適正のある武器以外の攻撃は通らない。騙していたのは僕の方さ。わざわざ傷ついたように変身してあげたんだよ。信用していいよ。うふふ」
そんなことはありえない。
魔物が魔法を扱うことはいままで一度も確認されたことがない。
酒場という情報が行き交う場所にいるローナが、知らないことはないと言っても過言ではないのだ。
人型の魔物はいくつか見つかっているが、獣耳のこれほどにまで人間に近い魔物はそもそも聞いたこともない。
「まさか――」
人間にしか扱えない魔法と、魔物にしかありえない耐性。
その両方を持ち合わせているとしたら――。
「んふふ」
ローナは振り返る。
何かがおかしいと、そんなことを思いながらも、確信は持てなかった。
「うふふ」
笑い声が重なる。
彼女の視界に広がっていたのは、黒の螺旋だった。
――――――――
「よし! パット下がって!」
相手がスライムだというおかげで、攻撃パターンは全て知っていた。
攻撃は全て俺が弾きかえす。
パットの攻撃はしっかりとダメージが通った。
どうやらATKが高い代わりに、防御が異常に低くなっているようだった。
しっかりと攻撃を凌げば、倒すことは不可能ではない。
「あれ?」
パットが声を上げる。
俺はすでにシールドバッシュをしている。
次はスライムのターンだったが、攻撃をしかけてくる様子がない。
「逃げた?」
背を向けて駆けていく。
恐れて逃げたというよりは、ただこの場を去っただけのように思える。
「リゼが心配だ。行こう」
「うん」
二人でテントに向かって駆け出した。
やけに静かだった。
テントについていたはずの明かりが消えている。
誰かが倒れていた。
なにか争ったような跡がある。
「ローナさん?」
パットが慌てて駆け寄る。
ぐったりと力が入っておらず、見た所気を失っているだけだろうか――。
それにしてもどうしてこんなところに。
「う……」
うっすらと目を開けるが、どこか様子がおかしい。
「街に戻ろう、パット」
「でも、まだ暗いし……ローナさんも」
「ここで戦闘があったんだ。ここにいるはずのゲントさんの姿はないし、リゼもいない。そしてローナが倒れてる。事情がわかるのはローナだけだ」
このままテントで夜を過ごすのは危険なように感じた。
ゲントさんとリゼの姿がないのはなぜなのだろう。
荷物は残されたまま、人だけがいないとなれば――。
「二人は攫われた可能性が高い。一度ギルドに戻ろう」
「攫われたって――ならすぐ助けに行かないと!」
「俺たちだけじゃ無理だ!」
「でも……」
パットの言いたいことは分かる。
このままこの場を去るということは、リゼから離れていくということになるのだから。
「俺たちだけじゃ――」
遠くの空が少しだけ明るくなり始めていた。
何かが崩れ始めている。
俺の周りが少しずつ狂っていく。
耐え切れず泣き出したパットの声が、胸に刺さるような痛みを生んだ。