第84話 正義と悪
レベッカ・アヴァロンは己を正義だとは思っていない。
しかし、御三家の一つに数えられる大貴族にして、戦闘魔術師の力を持つレベッカは、己が持つ力の責任を感じ取っていた。
強き者は、その強さに対して相応の因果が巡ってくる。
戦いを嫌おうが、戦う因果に絡みつかれた強者も居れば、力以外の全てを失った悲しき者も存在する。力があろうとも、相応の振る舞いを身に付けなければ、己の力と因果に振り回されて滅びるだけだ。
だからこそ、レベッカは己の強さに、立場に、誇りを持って生きているのだ。
強き力は正しき志の元に。
そんな綺麗ごとを己が体現するために。
善なる弱きを助け、悪なる強きを挫く。
完全無欠に振舞うのは無理だと知っていても、己の理想に近づけるように。
だからこそ、レベッカは邪悪を許せない。
かつて、絶大なる才能を邪悪なる本能のままに扱っていたエリと戦った時のように。レベッカは許せないのだ。
世界最強クラスの力を用い、他者を気まぐれに蹂躙するミツルギマオという魔王が。
その邪悪が、どうにもレベッカは許せない。
その上、妹……もとい、身内扱いしていた賢悟を傷つけた相手ならば、もはや容赦の欠片も存在しない。元からそんな物は存在していないが、レベッカはさらに手段を選ばなくなる。
故に、己の身を焦がすほどの神威に手を伸ばしたのだ。
●●●
紅蓮の劫火がレベッカの身を焦がす。
体の内側が炙られるような苦痛。口から煙でも吐き出しそうな、そんな錯覚を覚える灼熱の中に、レベッカはある。
灼熱魔人スルト。
神世の住人であり、世界の終末には携えた剣を持って世界を焼き尽くすとも言われている、終末の執行人だ。
いかにレベッカと言えど、大魔術を扱う高位の魔術師といえど、その身に宿らせて無事でいられるわけがない。だが、それでも苦悶を表情に出すことも無く、レベッカはその劫火を行使する。
許すべきでは無い、悪を裁くために。
「その悪性ごと塵に還りなさい」
炎髪を靡かせて、レベッカはその指先をマオへと向ける。
すると、告死を司る死神のように、指先によって示されたマオの体が瞬く間に発火。紅蓮の炎に包まれて、その艶やかな肢体を焼く。
炎を形成するのではなく、圧倒的な魔力によってその場を『劫火が満ちた空間』へと置換する。一種の世界改竄。絶対不可避なる御業。
例え、マオがどのような魔剣を持っていようとも、それを扱う間も無く殺せばいい。それがレベッカの考えた最善にして最速の攻略法だった。
「う、うふふふ――」
その程度で殺され尽されるのであれば、とっくの昔……七英雄が存在する時代でマオは死んでいただろう。
邪悪であるということは、正道を歩む者と敵対するということ。
ならば当然、正道を歩む英雄とも敵対するであろうし、多勢によって囲まれることもあるだろう。
「あ・つ・い・わぁー」
炭化しながらも、その声色は鈴が鳴るように涼やかだ。
苦痛は感じているのだろうが、絶大なる精神力がそれを凌駕しているのだ。この程度の責め苦で喚くほど、マオは生温い生を送っては居ない。
なぜならば、マオは反則者であると同時に、世界を敵に回してなおも嗤う強者であるから。
「亡霊剣軍――――脇差・雨守」
能力の宣言と同時に、マオは一瞬にしてその身を霧へと変じさせた。否、元々は己の身を液体化させる魔剣を使ったのだろうが、その身に籠る熱によって瞬く間に蒸発したのである。
されど、蒸発した状態でもマオの意識は肉体を超越した領域において健在だ。液体から気体に変じたマオは、その支配力によって周囲の空気を浸食、己へと同化させていく。
『う、ふふふふ』
空気が振動し、マオの声色を作る。
『お・か・え・し♪』
その次の瞬間、レベッカへ凄まじい暴風が叩きつけられた。
自然現象によって発生する風力の限界を易々と超え、王都の建物を軽々と吹き飛ばすほどの力が込められた暴風。局地的に発生した高密度のタイフーンと呼んでも過言では無いほどの、風の暴威。
まともな人間であれば、瞬く間に四肢がバラバラに引き裂かれ、空高く臓物が舞い上がる、エクストリームな死に様を体験するだろう。
だが、その身に神威を宿した人間が、まともな人間であるはずがない。
「残念ね、涼しくもならないわ」
レベッカは、軽く腕を薙ぐ動作をする。
ただそれだけによって、マオの暴風はあっさりとかき消された。無理も無い。熱を操る灼熱魔人にとって、風などは所詮、熱の移動に伴って生まれるだけの副産物。神世の灼熱を操る者には効果が薄いのだ。
「あらあら、思ったよりも遊べそうね」
その様子を、いつの間にか実態に戻ったマオが観察してる。宙に固定されたような姿で。まるで虚空に腰かけるかのように。
「ならば、遊んでなさい、魔王。私は貴方が遊んでいる間に、貴方を殺す」
余裕の溢れたマオの態度に、一切臆することなくレベッカは突撃していく。
オレンジ色の軌跡が描かれるほど、高速に、なおかつ超高温の突進。存在一つ丸々をぶつける、シンプルかつ最も強力な攻撃方法――体当たりがマオへ炸裂する。
文字通り、周囲の空間すら弾けるほどの威力を伴って。
「ざんねーん♪ その程度では全然、手ぬるいわぁ……って、あれぇ?」
当然の如く、魔剣の障壁でその体当たりを防ぐマオ。だが、レベッカの目的は他にあった。
「はぁあああああああああっ!!」
吠え猛るほどの気合いで、レベッカはマオの体を高度空域まで押し上げている。
そう、目的は戦闘区域の移動。被害の多い市街を避けて、限りなく周囲に何もない上空へとマオを連れてくるための攻撃だったのだ。
「ふぅん、そういうことなのね。なぁんだ、つまらないわ」
どこまでも実直で、誇りあるレベッカの行動。それをマオは嘲笑い、失望する。その程度の良識を携えたままで、私を倒せるものか、と。
「つまらなくて結構だわ。貴方を楽しませるつもりは無い」
「あらら、そうなの? なら、さっくりと終わらせてしまおうかしら?」
「そうね、終わらせましょう」
マオの傲慢さを切り捨てるように、レベッカは毅然と言い放った。
あまりにも真っ直ぐ告げられてしまったので、マオの方が困惑してしまうほどに。
「んー? 何のつもりか知らないけれど、まさか実力の彼我が分からないほど――」
次の瞬間、マオの言葉を遮るようにして、遥か高みから一条の閃光が落ちた。
そしてそれは、小首を傾げていたマオの右肩から、左足までを貫く。貫いて、血の一滴すら零さないほどの威力で、圧倒的に消し飛ばす。
「――は? え? なにこれ? 私の障壁ごと?」
「言ったはずよ、終わらせると」
上空から降り注がれるのは、マジックに存在する全ての物質をマナへと還元する絶対なる破壊の閃光。
エリの発想をリリーから伝えられたヘレンが、一切の容赦も無く作り上げた破壊兵器。
人道も、道徳も、道理も何もかも捨て去って作られた、ミツルギマオを消し去る為だけの魔導兵器である。
「言ったはずよ、『私たち』が貴方を殺すと」
レベッカは己に宿る神威を全開にして、魂すら焼き尽くす劫火を作り出す。
そしてそれは、レイピアを模した刀剣へと形成され、レベッカの右腕に携えられる。いかなる不死であろうと、世界を終わらせる終末の炎に耐えきれる道理はない。
超高度からの破壊兵器による狙撃。
神世の力を十全に用いた魔術師による攻撃。
その二つを前にして、初めてマオはレベッカに対して諦めという感情を抱いていた。
「これは、しょうがないわね」
いつの間にか、マオが常に纏っていた余裕の気配が消え去っていた。
●●●
ヘレンが作り上げた破壊兵器は、軍事衛星的なアレである。
名前はまだない。というか、マオを消し飛ばしたら、そのまま宇宙の果てまで廃棄する予定だ。強すぎる兵器など、無用な争いを呼ぶだけだから。
超高度――大気圏外から、全ての物質を分解、マナへと還元するビームを放つ。光の速さの射撃は、惑星圏内であれば対象に知覚する間も無く消し飛ばすことが可能だろう。
加えて、ビームを放つエネルギー源は大いなるマナの源の一つである、太陽から吸収しているので、エネルギー切れが起こることは無い。
まさしく、絶対的な戦略兵器。
仮にこれが量産されたのならば、戦争の形が何段階も未来へ飛躍するだろう。
「亡霊剣軍――――神剣・××」
その軍事衛星が、飛来した白色の刃によって切断された。
「世界を・斬り・裂け」
名前を呼ぶことすらできない、神剣。
かつて、マオが『原初神と等しい上位存在』を殺し、手に入れたチートコード。
その能力を使えば、空間を超越して、超高度に存在する軍事衛星を斬り落とすことなど、動作も無い。
「魔人を・斬り・殺せ」
次いで、マオは美しき長剣を横凪に振るう。
それだけの動作で、世界に一条の切れ目が生まれた。空間を、世界構造すら切り裂くその神剣は、当然の如くレベッカの肉体にも及んで――――けれど、レベッカは生き延びていた。
「…………化物ね、本当に」
憑依させた魔人を身代わりに、辛うじての所で死を回避したのである。
幸いなことに、神剣に下された命令は、『魔人』を『斬って』、『殺す』こと。その三つのオーダーにレベッカの殺害は含まれていない。それ故に、命だけは拾うことが出来たのだ。
「うふふ、良く言われるわ。それより、随分さっぱりしたわね? お似合いよ」
ただ、その対価として、美しき金髪が切り裂かれて、強制的にショートへに変えられてしまったのだが……命の値段には変えられないだろう。
「そう? どうもありがとう。兄様がうるさくて中々切れなかったの。個人的には動きやすいから短い方が良いのだけれど」
「あらあら、そうだったの、それは良いことをしたわ。感謝してもいいのよ?」
「貴方が死ねば、涙を流して感謝してあげるわよ」
「うふふ♪ 最後まで口が減らない良い子ね? 命乞いをするのなら、お人形にして、生かして置いてあげるけど?」
「はっ、戯言ね」
マオの言葉を鼻で笑って、レベッカは相対した。
先ほどの緊急離脱で魔力の大半を失い、飛行魔術を保持するのがやっとの有様だというのに、なおも誇り高く。まったく、恐れの一つも見せずに。
だが、レベッカが誇り高くあればあるほど、マオの嗜虐心は刺激される。
マオとは、そういう邪悪であるがゆえに。
「――いいわ、いいわね、完璧。あの子と一緒に、貴方もお気に入りのお人形にしてあげる。大丈夫、たっぷり楽しんで、永遠に楽しめるように、私の魔剣で斬ってあげるから」
にぃ、と口を三日月に歪めてマオはレベッカに告げる。
「余計な何もかもを、全部切り捨てて、ね?」
殺されるよりもよっぽど凄惨な末路を。
「…………」
その宣言に、しばしの間じっと黙してレベッカはマオを見つめていた。
「あら? 今更怖がっているのかしら?」
「…………」
変わらない。
何も語らず、黙って、ずっとレベッカはマオを見つめるのみ。
「ふぅん?」
その碧眼に恐れは無い。
その碧眼に諦観は無い。
その碧眼に慢心は無い。
―――では、何がある?
「…………貴方、ひょっとしてまだ、勝てると思っているの?」
マオには結局、レベッカの考えは見抜けなかった。だから問う。強者という立場から、これから蹂躙する者へ問いかける。普段は蹂躙して、嬲って、強制的に『言わせる』というのに。
最悪の魔王ですら、レベッカの瞳に見つめられれば問わずには言われなかったのだろう。
だが、レベッカは答えない。
答えず、ただ、ぽつりと独り言のように呟いた。
「ぎりぎりだけれど、間に合ったみたいね」
呟きと共に、どす、という鈍く重い音が空に響く。
「……あ、え?」
そこでマオは気づく。
己の心臓を貫き、胸から生えている漆黒の槍を。
しかし、それは少しでも目を凝らせば、『槍』では無いと気づくだろう。なぜならば、その刃も、柄も、何もかもが――――黒色の呪いによって形作られているのだから。
原初神から与えられた原罪。
世界中の何よりも、最も強力な呪いの集合体が、その槍だったのだから。
もちろん、そんな呪いを扱えるものは、マジックにおいてたった一人しか存在しない。
「久しいじゃないか、最古最悪の魔王」
神亡き世界の管理者。
原罪保有者。
東の魔女。
オリエンス。
彼女を呼ぶ名称は多々あれど、この場において彼女を現す名称はどれでもない。
「まさか、私の名前を忘れていないだろうね――――真央」
「…………久しぶりね、『東子お姉ちゃん』」
最古の魔王――否、御剣真央の姉。
御剣東子。
それこそが、東の魔女の本名にして――――かつて原初神によって、理不尽に平穏を奪われた少女の名前だった。




