第76話 世界近況は帰還と共に
己が極限にまで引き延ばされて、途端に弾き飛ばされるような感覚。あるいは、体をどろどろに溶かされて無理やり鋳型に注がれるような最低の感触。
およそ、世界を越えた移動に快適さなど皆無である。むしろ、存在を無理やり違う世界に飛ばしているのだから、最低最悪の悪酔い程度で済むこと自体が奇跡だろう。
奇跡とは、必ずしも美しい物ではないし、心地良くなる物では無い。
されど、それがどんなものであろうが、意図的に奇跡さえも引き寄せなければ世界間の移動などは不可能なのだ。
「えろろろろろろ……」
「うわ、大丈夫かよ、お前」
そんなわけで、良い雰囲気で転移したリリーであったが、転移直後に胃の中の物を全部床にぶちまける羽目になってしまった。ちなみに、賢悟は普段から高速戦闘を縦横無尽に行っているので、この程度では嘔吐しない。
「すみません、賢悟様……思いのほか、えろろろ……気持ちわ……えろろー」
「あー、はいはい、良いからげーしなさい、げー。話すのは落ち着いてからでいいから、な? あんまり無理すんなよ? そして、俺に吐しゃ物を掛けるなよ?」
リリーの背中をさすって心配しながらも、自らは汚れないように注意を払う賢悟。流石に、美少女の出した物とはいえ、汚い物は汚いのだ。そういう物に興奮を覚えるような特殊嗜好は賢悟には備わっていなかった。
「えほ、えほ……あーうー。せっかく賢悟様といい感じでしたのに」
「安心しろ、生理反応は仕方ない。俺はその程度で幻滅したりはしないさ」
「賢悟……」
「おっと、近寄るな、臭い。ちょっとシャワー浴びて来いよ」
「その台詞はもっと別のタイミングで聞きたかったです、賢悟様……」
しょんぼりと肩を落とすリリーを流して、賢悟は周囲の確認を行う。
ざっと賢悟が見回した結果、どうやらここは地下の実験施設であること分かった。窓が備え付けられていない事や、様々な実験器具が並べられていることからそれは明白だっただろう。けれど、気になる点……というか、賢悟はこの地下実験室に見覚えがあった。
「…………あー、ここってば、ヘレンの研究室じゃねーか。そうか、ここは学園の地下かよ。また、よくわからない所に転送されて…………って、んん?」
賢悟が首を傾げていると、『どたたたたたっ』という妙に慌ただしい足音が部屋の外から響いてくる。その足音の主は乱暴に実験室のドアを開くと、二人の――特に賢悟の姿を見つめて、目を見開いた。
「――――――ぁああああああっ!」
感極まったように声を上げたのは、白衣の発明王であり、この実験室の主であるヘレンだ。
「あ、あああっ! け、けん、ケンちゃん!」
普段は飄々とふざけた発言しかしていないヘレンであるが、この時ばかりは違っていた。見開いた両目からは大粒の涙を流し、わなわなと口を震わせている。
「ケンちゃん! ケンちゃん! ケンちゃん!」
「お、おう。俺だが?」
「ケンちゃぁああああああん!!!」
「うぉおおおおう!?」
何度も名前を呼んだかと思うと、ヘレンはそのまま賢悟へと抱き付く。背中に手を回して、力いっぱい抱きしめて、その感触で存在を確認する。
「本当に、本当にケンちゃんだよね!? 悪辣な原初神が用意したドッペルゲンガーとかじゃないよね? だって、ケンちゃんの魂を感じるもん!」
「魂を知覚できるとか、流石というか、なんというか。とりあえず、動きづらいから離して欲しいんだが?」
「嫌だ! 絶対に離さない!」
「えぇー」
賢悟の要求を頑なに拒否して、さらに抱きしめる力を強めるヘレン。
そんなヘレンの駄々に困惑する賢悟だったが、やがて、己の耳元で絞り出された声に気付く。
「よかった……本当に、生きててよかったよぅ」
一つに気付けば、次々と賢悟は気づいていく。
元々痩せていたヘレンの体は、抱きしめられた感触でさらに痩せていることが分かった。白衣だって、所々が汚れて、もう何日もまともに服を変えていないだろう。藍色の髪だってくすんで見えて、汗の匂いが感じられた。
それでも、賢悟は何も言わずにヘレンの背中に手を回して、抱きしめ返す。
「大丈夫だ、ヘレン。俺は、ここに居る。もう、どこにも行きやしねーよ」
「うん…………うんっ!」
何度も、何度も、ヘレンは賢悟の存在を確かめるように頷く。
その度に賢悟が相槌を打って、ヘレンが落ち着くまでのしばしの間、その手を解くことはしなかった。
「……ぐぎぎぎ、落ち着くのです、リリー・アルレシア。今は割と真面目な再会シーン。ここで邪魔すると確実に軽蔑される……」
なお、感動の再開中もリリーは安定のリリーだった模様。
「う、うぅ……とにかく、生きてて、生きててよかったよぅ。生きていると思ったけど、だけど、相手はあの原初神だったんだもの……」
「悪かった、悪かった。ちょっと召喚直後にぶち殺してやろうと思ったんだが、思いのほか手ごたえが浅くてなぁ。色々あってサイエンスから帰ってきたわけだ。そうそう、サイエンスなわけだが、実は――」
「この際、科学の事なんてどうでもいい!」
「マジか!? お前をそこまで言わせるか!?」
科学マニアであり、生涯をささげるほどに狂信しているヘレンが、そう言い切るほど、賢悟の帰還はヘレンにとって感動的な物だったらしい。
ヘレンは、大粒の涙を賢悟の肩に零しながら、言葉を続ける。
「だって、発明は、研究は、誰か他の人に見てもらって、初めて意味が宿るんだよ。それなのに、発明を、研究を見せたい相手が居なくなったら……私は、どうしていいのか、わからないよ」
「……そっか」
「うん、だから――」
潤んだ目で何かを言いかけていたヘレンだったが、ふと何かに気付いたように賢悟の体から離れる。正確には、肩に手を置いたまま、ゆっくりと賢悟の全身を確認するように後退した。そして、鶏が絞められたかのような悲鳴を上げる。
「くきゃああああああああ!? な、なんて状態なんだぁーよ、ケンちゃん!? 死にかけも死にかけ! 外的要因の怪我だけじゃなくてぇ、内的要因による魂の存在情報が欠損しているじゃん!? 何があったのさ!?」
「ちょっと、故郷の世界と自分の関係性の断絶を」
「ばぁああああああああかっ! ばぁあああああああかあっ! 死ぬ! 死ぬ! むしろ何で死んでないのか不思議なレベルぅ!?」
悲鳴を上げながら、ヘレンは瞬く間に万能薬諸々を手元に召喚。それらを一見無造作に、けれど高度に計算されたタイミングと調合で賢悟の体にぶちまけていく。
「ちょ、ヘレン。やけにこの薬品染みるんだけど?」
「全身有り得ない苦痛に蝕まれている癖に、そこを気にするなぁああああああっ!!」
「…………あの、そこの変態白衣少女。賢悟様がピンチなのは分かっていましたが、そこまでガチでピンチなので?」
ヘレンのあまりのガチの慌てぶりに、様子を伺っていたリリーも恐る恐る訊ねた。色々賢悟が無理をしているのは知っていたが、平然としていたのでまさかそこまでとは思っていなかったようである。
だが、それに対するヘレンの返答は無情だった。
「今治療中で忙しい!」
「…………」
どうやら、リリーへの対応に思考を裂く暇が無いほどの事態らしい。
それから数十分の間、ヘレンは真顔で賢悟の処置を行った。発明王と呼ばれるヘレンが無言で処置をしなければならないほど、賢悟の症状は深刻であり、見る見るうちに賢悟の体に呪符やら、包帯やらがくっついていく。
「ふぅううういぃいい……と、とりあえず峠は越えた……さ、流石私ぃ。百人中百人が無言で首を横に振るデッドラインをぶっちぎってやったぜぇ!」
「え? 俺ってそんなにやばかったのか? 確かにまぁ、やけに寒気が止まらず、全身を万力で千切られるような苦痛はあったが」
処置が終わったころには、完全に賢悟は包帯男状態であった。おまけに、腕に点滴を何本も打たれているので、完全に重病人である。いや、実際に死にかけの重病人だったのだ。だというのに、本人がけろっとした顔で常人なら発狂する痛みを耐えるので性質が悪い。
「そこのメイド。この馬鹿の精神は鋼を通り越して未知物質だから、絶対に本人の申告をあてにしないように」
「はい、今心に刻み込みました」
普段ふざけているヘレンのガチ忠告だけに、リリーも真剣に頷かざるを得ない。この時ばかりは、リリーの余計な嫉妬心も湧いて出てこなかった。流石に、愛する人に対する大事な忠告を受けて、それを妬むほど精神が捻じれ過ぎではなかったということだろう。
「さって、このお馬鹿なケンちゃんはちゃんと清潔な場所で安静にさせて、と」
「いやいやいや、ヘレン。それよりも、まず、原初神が復活したことに関する状況の変化をだな――」
「だまらっしゃーい。ケンちゃんさぁああああああ! 死にかけてたって自覚あるぅ!? 無いよね!? 良し分かった。君が完治するまで、絶対に外に出さない」
「おまっ、それだと俺が気合いを入れて帰ってきた意味が――」
「メイドの変態。今から拘束して再生液で満たした浴槽にぶち込むから、手伝え?」
「あいあいさー、です。白衣の変態」
二人の変態少女は、今だけは真面目に協力し合って馬鹿一人を捕まえる。
「待て待て待て、せめて話だけでも聞かせてくれねーと、対策も考えられないからぁ! 近況だけでも!」
「それに関しては、容態が安定してから話すよぉ? だから、大人しくしなさい、ばぁーか」
騒ぎ立てる馬鹿を動かないように拘束し、二人は決して逃がさず回復施設にぶち込むだろう。
世界の危機や、その対策に関しては――愛しい馬鹿の傷が治ってからだ。
●●●
原初神の再臨は世界に大きな影響をもたらした。
まず、彼の原初神にはマジックの環境をある程度まで弄って操る権限がある。その力を使って、原初神はマジックにタイムリミットを設定したのだ。
「今から一か月以内に私を殺してみなさい。出来なければ、世界滅亡ね」
世界全てに届く声を使って、神託を告げたのである。
それから、世界中で魔物の動きが活発化した。凶暴化し、強力、巨大になる物もあり――何よりも、圧倒的なほどに数が増え始めていた。王国でも、常駐戦力が少ない辺境だと、魔物の大勢によって滅ぼされてしまうほどに。
さらには、魔物の増加に合わせて残された十大魔王全てが人に対する本格的な殺戮を開始した。己が創造主である原初神の意向に従って。
まだ、それだけならば人類は何とかなっただろう。
世界結界による戦争の禁止。それによる世界各国の兵力が無駄に浪費することなく、充実していたのが幸いした。現代を生きる兵士たちは、最新の魔導兵器をここぞとばかりに使いこなし、魔物の増殖や、恐るべき十大魔王の侵略にも耐えてみせたのである。
「へー、やるようになったなぁ、人類。と言っても、主役が戻ってくる前にこっちが負けてもあれだよね。はい、そんなわけで難易度調整するよ」
へらへらとした、気の抜けた声の神託。
されど、その後にもたらされた災厄は、人類が本気で絶望を覚悟するのには十分過ぎた。
煩悩天使。
あるいは、審判者。
そう呼ばれる純白の羽を持つ、美しき人型の魔物。
スペックだけならが、十大魔王にも匹敵するような化物どもが、合計百八体。それらが、一斉に世界に放たれたのである。
さながら、黙示録を始めるかのように。
仮に、これが何らかのゲームであれば、思わず「ふざけるなぁ!」と叫び散らしたくなるほどの難易度設定だろう。プレイヤーのことなど考えないクソゲーの上に、無理ゲーだ。これを作ったゲームマスターは最低のゴミクズと呼ばれても仕方がない。
しかし、そんな難易度調整をされたのは、紛れも無く現実の世界の事だった。
世界は――――原初神の手によって、嘲笑うかの如く危機に陥れられていた。
●●●
「まー、そんなクソ天使共も十大魔王の大半も、まとめてうちの『世界最強』……ローデ・ベイリワードがぶった斬ったのだけれど」
「マジかよ、すげぇ」
賢悟は再生液という、非常に高価な治療薬で満たした浴槽に体を沈めていた。身に着けている物は、水着と包帯しかないという、良くわからない倒錯的とも言える格好である。だが、こんな格好でも賢悟に対する愛情が込められた、最大限の治療処置の結果なのだ。
「ただし、問題があるわ。いい加減にブチ切れたうちの世界最強が、諸々の障害を力任せで切り裂いて、原初神の元に辿り着いて、六回ぐらい微塵に消し飛ばしたらしいのだけれど」
「既に倒されている!?」
「ああいや、そうじゃなくて。『殺しきれなかった』らしいのよ、ローデ様では。移動砲台様が言う……もとい、ハルヨさんが言うには『何か小賢しい仕掛け』がしてあるらしいみたい」
浴槽に沈む賢悟へ、世界の近況を説明し続ける少女が居る。
金髪碧眼で、猫耳の少女。
翼のようなロングヘアーを靡かせて、美しいドレスを身に纏う令嬢。
その姿は何処からどう見ても、いや、実際に大貴族のお嬢様である。
けれど、その内は熱く正義の心を燃やし、自らが先陣を切って民草を守ろうとする猛々しい物だと賢悟は知っていた。
「んあー、なんか俺を主人公にするとかほざいていたし、俺以外の奴には殺されない、とかよくわからないスキルでもくっつけていたのかねぇ?」
「かもしれないわ。その所為で、ローデ様は仕掛けられていた罠によって異世界に追放されたらしいの。ハルヨさん曰く、自力でも戻って来られるから問題ないらしいけれど。こうなってしまうと、世界中の英雄を集結させて犠牲覚悟のごり押しかないというところで――」
「生死不明だった俺が帰ってきた、というわけか、なるほど」
金髪猫耳少女の説明を聞き、賢悟は納得したように頷く。
世界に運命などと言う小賢しい物が存在しているかなど、賢悟は分からない。だが、そんな物があってもおかしくは無いと思ってしまうほどにお膳立てされた状況だった。
まるで、世界が賢悟に英雄になれと命じているかの様である。
「…………はっ」
そんな気味悪い違和感を、賢悟は鼻で笑い飛ばす。
仮に賢悟が覚えている違和感が真実だとしても、そんな運命など失笑物だった。考慮に値しない、ただのクソッタレであった。
なぜならば、どの道、賢悟の行動に変わりなどは無いからだ。
例え、世界が拒絶しようと、歓迎しようとも、賢悟は己の為すべきことを、信念を持って貫くだろう。
世界にすら抗える、終幕の拳を携えて。
「いいぜ、世界中の英雄が集結する前に、俺が一丁あのクソ野郎をぶち殺す。舐めた真似してくれた礼もしてねーからな」
「はいはい、その前にしっかり治しなさい。感知しないと、ヘレンもリリーも私も、絶対に貴方を外には出さないわよ?」
「…………傷が塞がれば、完治だよな?」
「黙りにゃさい」
真顔で言う賢悟の額を指で弾き、金髪猫耳少女は言う。
「タイムリミットまではまだまだたくさんあるにゃ。ちゃんと体を治しにゃさい」
「……その語尾と訛りはマジで怒っているんだよなぁ。つーか、懐かしいわ。すげぇ、久しぶりに会ったような気がする」
「はぁ、だったら、もうちょっと言うことがあると思うにゃー」
その言葉に、しばし考えた後、賢悟は笑顔で告げた。
「ただいま、レベッカ」
「うん。おかえり、ケンゴ」
荒れ狂う世界近況の最中、こうして田井中賢悟とレベッカ・アヴァロンは再会の言葉を交わしたのである。




