第70話 デウス・エクス・マキナ
エリ・アルレシアは気づいた時から邪悪だった。
物心ついた時から、エリにとって他者たただの実験対象でしかない。己こそが一番素晴らしく、己以外の有象無象は全て、紙風船の如く軽く、脆い存在でしかないのだと。
絶大なる魔力と、聡明な頭脳を使って、エリは様々な悪事を働いてきた。幸いなことに、父親は教育に関して不干渉。母親に至っては、顔すら知らない。どこぞの誰に産ませたかは不明であったが、愚鈍な父と何が交われば私が生まれるのだ? と不思議に思ったこともある。
そんなこんなですくすく悪意を育てて成長していたエリだったが、己が極度の運動嫌いであることをようやく自覚した。
悪党であるエリだが、それを自覚した時はまだ幼い頃。悪意の尻尾を見せずに、『良い子』として周囲を欺いている最中だった。なので、エリは『良い子』としては珍しく、父におねだりをすることにしたのである。
それが、リリー・アルレシアの存在だった。
エリはたまたまちょうどよく、己と髪の色が似た、珍しい孤児を見かけた。容姿も美しく、己の傍に侍らせてやっても良いと思うほどだ。だから、エリは父にわがままを言い、父も珍しい娘のわがままの一つを快く受け入れた。ただの孤児だったはずのリリーを、アルレシア家の養子にとったのだ。
リリーには己の従者として必要な事を叩き込み、ひたすら忠誠心を高めるように育てた。もっとも、エリにとって予想外だったのは、無表情系クール美少女だと思っていたリリーが、案外ポンコツ系依存体質だったことである。思いのほか依存が進み過ぎて、若干、変態っぽく育ってしまったのだ。おまけに、その他の部分は万能に育ったのだから、安易に捨てるわけにはいかない。
エリは多少の我慢という物を覚えて、いよいよもって悪党としての花を咲かせる。
エルメキドン学園という、絶好の遊び場を得て。
多種多様の人間が集まる王都の中でも、優れた者が集まる学園はエリにとっては好都合だった。様々な実験を行い、隠蔽するには人がたくさんいた方が良い。学園側は、エリがその頭脳で成果を出し続ければ、何も言ってい来ない。時々、やり過ぎた場合、風紀委員の猫耳がうるさかったけれど、それも大して問題にはしていなかった。
万人を集めても超えることが出来ない、絶大な魔力。
万人を欺き、魔術の秘奥すら暴く、圧倒的な才能。
その二つさえあったなら、エリはどんな困難な己に降りかかろうとも、鼻歌交じりに踏みつぶしてやれると思っていた。
「お前、世界の害悪だからとりあえず死んでおけよ」
甘かった。
エリの見通しはあまりにも甘く、そして傲慢な物だった。
突如、エリの前に現れたのは、黒衣に身を包む世界管理者。『東の魔女』の異名を持つ、呪術を極めた存在。
そんな超越者が、辻斬りにようにあっさりとエリに致死の呪いを与え、そしてエリが何かリアクションを取る前に、消え去ってしまったのである。
エリは全身全霊を持って、その呪いを解除しようと努めたが…………駄目であった。超越者の領域にまで達した、呪術の極致。それが『東の魔女』である。いかにエリと言えど、その極致にたった一年で達するのは不可能だったのだ。
エリ・アルレシアにとっては初めての敗北であり、挫折だった。
だが、その敗北と挫折をエリは認めず、何が何でも呪いから逃れる方法を探す。その結果が、賢悟を巻き込んだ異世界拉致からの魂の交換だった。
己の魂に適合する肉体を探し、世界の境界を超越する術を探し、果てには世界のバグたる悪魔契約まで行使して…………エリは、忌まわしき呪いから逃れられたのである。
唯一、己を心から愛していた従者すら、捨てて。
エリは異世界――サイエンスへと逃げ延びたのだった。
己の肉体を失ってまで生き延びたエリだったのだが、ここで問題が一つ。田井中賢悟の健全なる肉体だった。
賢悟の肉体はエリが驚くほど鍛え上げられ、健全で清廉な物だった。加えて、頭脳には愚直なまでに真っ直ぐな後悔の感情があって…………それが、エリの魂を非常に蝕んだのである。
さながら、悪魔が聖女と触れ合って、その清らかさに苦しむかのように。
賢悟の生前の行動をトレースするのすら、当時のエリには辛く、油断をすれば肉体の記憶に飲まれてしまいそうだった。だから、身を隠し、身分を新たに行動することを選ぶ。
幸いなことに、人間の頭脳は基本スペック自体、大して変わらず、エリが独自に開発した脳トレーニングを繰り返せば、ある程度の天才に覚醒できた。元々の頭脳に比べたら、多少は愚鈍であったが、それでも凡愚が集うサイエンスに於いてはそれで十分だった。
金を稼ぐ方法など、エリからすれば無限に存在していた。
だから、一生生活に困らない金を得るのはあっという間で、そこからは適当な投資家として、あまり目立ち過ぎないようにエリは生活していた。
全ては、いずれ再び邪悪として返り咲くために。
――もっとも、気付いた時には既に、エリは手遅れだったわけだが。
最初、エリが気づいたのは、世界の境界すら超えて届く賢悟の記憶映像から。
エリはマジックの情報を見るため、あるいは絶望に沈んでいく賢悟の記憶を楽しむために、そのような仕掛けを賢悟に施していたのだが…………その映像で、賢悟が苦しむたびに、エリの心が痛み始めた。
それが始まったころは、ただの同調からくる錯覚だと思っていたが、違っていた。
エリは、賢悟が己の所為で痛み、苦しむことに対して罪悪感を覚えてしまっていたのである。邪神とさえ呼ばれば、生まれついての悪性が。
一つ、気付いてしまえば、後は坂を転がるかのように過去の悪行に対して、罪悪感がエリにのしかかった。いかにエリの魂が邪悪であれど、清廉なる肉体と記憶に寄り添われ続けては、変容は避けられない。
エリはいつの間にか、己の悪性が浄化され、『まとも』になってしまったのだと、気付いた。
他者の人生を台無しにしようとすると、胸が痛んで手が止まる。
他者の不幸を踏みつぶし、幸福を積むと、心が癒えて、温かくなる。
そんな当たり前に気づいた時、エリは初めて絶望した。『東の魔女』の呪いからですら逃げ切って、心が折れなかったエリが、初めて観念したのである。
そう、既にエリ・アルレシアという個人は存在していなかった。
田井中賢悟という肉体と記憶を得たエリは、既に別人とも呼べる変化を遂げていたのだから。
自分であるのに、己では無い。
既に取り返しのつかないほど変わってしまった事実に、エリはしばしの間、絶望に沈むこととなる。
エリが、イヴと出会うその時まで。
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「…………あー、これがいわゆる走馬灯という奴かな、新鮮な物だね。肉体と魂、両方の記憶が駆け巡って、愉快な気持ちになったよ」
よろめきつつ、ウリエルは瓦礫の中から立ち上がった。
既にしこたま防御術式を付与したスーツはボロボロで、ワイシャツの部分が多く露出している。けれど幸いなことに、鍛え上げられた肉体は多少出血していても、ほとんどがかすり傷。今だ重症には至っていない。
つまり、まだ戦闘続行が可能というわけだ。
「やれ、しかし酷い物だね。世界の守護者たる存在が、まさかこんな手段を取るとは。というか、マクガフィンでもこんな事やってこなかったのだけれど、一体、君は何者なんだい?」
立ち上がったウリエルは、即座に視線を敵対者へと向けた。
敵対者は瓦礫の山、その頂上に佇み、抗うウリエルの姿を見下ろしている。
「俺はデウス・エクス・マキナ」
見下ろす者は、美しい少年だった。
艶やかな黒髪に、黒曜石を連想させる双眸。整った顔立ちは、さながら神が自ら至高の人形を創り上げたかの様。
それは、まるで美に祝福されたような美しい少年だった。
纏う学生服は何の変哲もない物であるはずなのに、少年が着用しているという一点だけで、あらゆる服飾に勝っている。
「名前は鈴木 二雄だ」
「意外と普通な名前だね」
「親から貰った名前を馬鹿にしたな死ね」
美しき少年――鈴木二雄は淡々と攻撃を再開する。
高密度のエネルギー球体を周囲に数十個展開。それらを、音速を越える早さで、なおかつ精密な誘導の元、ウリエルへと撃ちこむ。
「ちぃ! 切れやすい若者かね!」
ウリエルは呪符を用いて、障壁を展開。即座に球体の威力、速度を見抜いて次々に撃ちこまれるエネルギー球体を弾き飛ばす。いかに相手の攻撃速度が音速を越えていようとも、己に魔改造を施したウリエルの肉体は、光速レベルの神経伝達、雷速における術式の展開が可能になっている。故に、後れを取る理由にはならない。
「失礼だな、俺は怒りを覚えていない。ただ、死ねと思っただけだ」
「怒っているじゃないか」
「うるさいしね」
淡々と無表情に攻撃を続ける二雄。
その攻撃を、ウリエルは時に回避し、時に障壁を用いて弾く。
二人の戦いは当然、余波を周囲にまき散らしていた。具体的に言うのであれば、ウリエルが弾いたエネルギー球体が、街を瓦礫の山へと変えていっている。
それも当然だ。何せ、二雄が放つエネルギー球体の一つが爆発しただけで、一つの高層ビルがあっさりと瓦解していくのだから。はっきり言って、過剰な火力だった。
「大体、君は無駄に街を破壊し過ぎじゃないかね? 無辜の民が何人消滅したか」
「お前たち以外の生命体は、別空間に隔離し、凍結してある。問題ない」
「建物の被害は?」
「多分、管理者が修復するはずだ、きっと」
「断言できてないよ、こいつ」
「うるさいしね」
二雄の攻撃の苛烈さが増す。
エネルギー球体の数は数百を超えて、幾度もウリエルの障壁を破壊し、それ以上に周囲を破壊しつくす。
やがて、街一つが、完全な廃墟に変わる頃。
「やれ、君は手加減という物を知った方が良い」
ウリエルは変わらず健在だった。
多少傷ついてはいるが、変わらずに戦闘可能状態。回避と防御だけを繰り返していたにしても、恐るべき防御能力である。
だが、それでも呪符が無限にあるわけでは無い。
いかに屈強な肉体を持っていたとしても、無限に体力は続かない。
けれど、二雄はあれほどの猛攻を続けていたというのに、息一つも切らしていない有様だった。これは、明らかに長期戦においてウリエルが不利。
故に、ウリエルは密かに策を二つ仕込んでいた。
一つは、反撃のための策。二雄をこの場で仕留めて、後のマクガフィンとの戦いで有利に立つための策だ。
一つは、撤退のための策。二雄が予想以上の戦力を保有していた場合のために、策だ。
「…………これより、対象を排除するための更新を開始する」
そして、ウリエルは二雄の変化を感じ取り、即座に反撃のための策を廃棄した。
「殲滅タイプから、白兵特化へ。上位スキルの獲得を開始する…………獲得完了。これより、対象の破壊を再開する」
淡々と呟く二雄の右手に、一本の刀が召喚される。
それは一見、何の変哲もない日本刀のようにも見えるが、付与されている概念の情報密度の桁が違う。『破壊不能』、『絶対切断』、『剣聖転写』など、いくつもの破格の概念が付与されたそれは、マジックにおける神器にも劣らない代物だろう。
「――っ、まずいね、これは」
二雄の猛攻が再開される。
振るわれるのは、恐るべき概念情報量の刀。
それはたった一振りで、易々とウリエルの障壁を切り裂き、今までの防御を許さない。加えて、二雄の身のこなしはさながら達人のそれであり。素人が相対すれば、瞬く間すら与えられず、なます切りにされるはずだ。
「…………これでも、まだ耐えるか」
「ははは、彼の戦闘経験に感謝だよ」
けれど、ウリエルは素人では無い。
正確に言えば、エリの魂は白兵戦の経験は無いが、賢悟の肉体には膨大なまでの戦闘経験が積み込まれている。
そして、かつて賢悟がルイズから身体強化の魔術を受け、上位魔物たちを一掃した状態。その状態を八割と例えた、賢悟の全盛期の肉体が、ウリエルにはあるのだ。
「双・列――破戒」
さらに、ウリエルは己の両腕に術式を付与する。
イヴの異能を研究し、開発した…………世界の既存法則を乱す、ウイルスのような術式を。
「一打百裂」
ウリエルの戦闘技能が本領を発揮する。
賢悟が好んで使う打法と同じ。たった一振りで、百の打撃を叩き込む条理を外れた拳。ただし、ウリエルの拳には特殊な術式が込められている。
「む、う――――厄介な」
ウリエルの打撃を全て受け、それでもなお、二雄は健在だ。
しかし、高密度の概念が付与された刀は、跡形も無く砕かれてしまっている。二雄が打撃の身代わりとして刀で受けたのだが、百の打撃によって微塵に叩き壊されたらしい。本来なら、絶対に破壊されない概念も付与されいるのだが、それはウリエルが付与した術式に浸食され、無効化された。
「対象の脅威度を更新…………全性能を持って、排除する」
二雄は即座に認識を改める。
眼前の敵対者は、己の存在に手を届かせる能力を持っている。全力で排除しなければ、排除されるのは自分になるのだと。
だからこそ、周囲百キロ圏内を全て灰塵に還すリスクも考慮して――
「君が全力を出そうとする、その時を待っていた! イヴ、今だ!」
その直前、ウリエルの合図とともに、隠れ潜んでいたイヴの異能が行使された。
二雄が全力を出すため、管理者へのパスを強めた時、イヴの異能が、それを乱す。ラジオノイズのように、雑音を織り交ぜる。二雄の意識を一瞬、途絶えさせた。
「くっ!?」
即座にイヴの干渉を弾き、二雄の意識が復帰する。
ただし、既に一瞬の間隙をぬって、ウリエルたちは撤退した後だった。残されたのは、二雄と、荒野となった街の残骸のみ。
「…………今回のイレギュラーは、面倒だな」
忌々し気に呟くと、その場から二雄の姿も掻き消えた。
即座に標的の痕跡を走査し、空間転移したのだろう。
彼はデウス・エクス・マキナ。
舞台を終焉させる、機械仕掛けの神。
その役割を担ってしまった、憐れな少年だ。されど、有史以来、サイエンスに一切の異常を許さない、絶対なる守護者でもある。
サイエンスに居る限り、彼の追跡から逃げられる者など存在しない。




