第68話 逃れられない選択
マクガフィンこと、赤梨千花はすんなりと座敷に通されたことが意外だったようだ。
「てっきり、貴方とは交渉の前に一波乱あるかと思っていました」
「おいおい、お前、俺をなんだと思ってやがる?」
「かつて全国の番長を倒す旅を夏休みに行った、血の気の多い馬鹿。そして、思っていたよりも番長が存在せず、普通の観光旅行になった馬鹿……ですかね?」
「貴様、俺の中学時代の黒歴史をどうやって!?」
「これでも神の遣いですので」
マクガフィン――千花の淡々とした物言いに、賢悟は恐怖を抱いた。このままでは、こいつに黒歴史の数々をネタにして脅されてしまう、と。
「そうだ、殺すしかない」
「待ちましょう、交渉しましょうよ」
思わず後ずさり、三体の黒子を壁にする千花。
流石に黒歴史をちょっと弄った程度で、殺されようとは思っていなかったらしい。
「安心しろ、冗談だ」
「そうですね、流石にそうですよね」
「お前が俺の黒歴史を口にしない限りは」
「目が真剣だ……わ、分かりました、絶対に言いませんとも、ええ」
賢悟のただならぬ眼力に負けて、千花は目を逸らす。
マクガフィンの特性として不死ではあるが、それでも、個体数が無駄に減るのは避けたい物なのである。ましてや、黒歴史の隠ぺいに殺されたら、その個体が浮かばれなさすぎる。
「んじゃ、交渉な。待ってろ、お茶を入れるから」
「いえ、お構いなく」
「お茶を淹れるから。黒子の三人は必要か?」
「いえ、お構いな――」
「とりあえず淹れておくわ、残さず飲めよ?」
「…………はい」
マクガフィンである千花相手でも、有無を言わせぬ賢悟だった。
どうやら、交渉のイニシアチブを取るために、場の主導権を得ようとしているらしい。脳筋系の賢悟にしては考えている行動ではあるが、それは通常の交渉においての話である。わりかし、超常が巻き起こり過ぎる者同士においては、あまり意味は無い。
いくら主導権を握っていたとしても、土壇場の反則技で何もかもが覆される可能性があるのだから。
もっとも、お茶をうまく淹れることに集中し過ぎて、その辺はさっくりを意識から外れてしまうあたり、本末転倒な賢悟なのだったけれど。脳筋過ぎて、交渉以前の馬鹿さ加減なのだった。
「はい、これがお茶。んでもって、お茶菓子な。ツレならもっとうまく淹れられるんだが、生憎倒れていてな」
「あ、ありがとうございます…………ツレとは、あの銀髪の? 大丈夫ですか?」
「ああ、落ち込んでいたから元気付けるためにデコチューしたら、倒れた」
「心配して損しました」
口をへの字に曲げて、嘆息する千花。
賢悟の言葉に翻弄され、ころころと表情を変える姿は、『マクガフィン』という名前の印象からは想像できないほど、普通だ。まるで、普通の少女のように千花は反応している。
人の嘆きを好み、あらゆる手段を持って己の目的を為した悪夢的存在とは、あまりにもかけ離れていた。
「敵になるかもしれない相手を心配するんだな」
「ん? いや、そりゃ心配しますよ。誰だって、誰かが具合を悪そうにしていたら、普通に心配しません? 親密度によって、程度の違いはありますが」
「なんだ、お前……善人なのか?」
「いえいえ、私は偽善者ですので、別にそういうのではありません」
謙遜する風でもなく、ただ当たり前にように千花は答えた。
「子供を殺そうとしている者が、善人であるはずがないでしょう?」
「……そうか」
当たり前の理屈だった。
当たり前の倫理を当たり前の持っていて、なおかつそれに反する行動を行う者。これは手強い相手だ、と賢悟は内心警戒を高める。
「それで、交渉についてなのですが。まず、こちらから提示するのは、無条件での異世界への転移です。私どもには、何の対価も要求せず、貴方たちを別区域――マジックと呼称されている場所へ戻す用意があります」
「ほう」
交渉、と言われた時点で賢悟が予想していた条件だった。
世界の管理者側の存在。彼の原初神と同等の存在であれば、世界の壁を越えての転移は不可能では無いだろうと思っていた。ならば、当然の如く交渉材料にするだろう、と。
「ふん……よくこちらが欲している条件が分かるな? それも、神の遣いとやらの能力か?」
「そうとも言えるでしょう。私がやったことはアカシックレコードの閲覧です」
「アカシックレコード……確か、世界の過去も未来も、全部書き記されているだろうっていう、そういう奴だっけか? なんかの漫画で見たわ」
「大体そんな物であると考えていただければ。私は、その過去の記録を閲覧し、貴方たちが望むことを知ったのです」
「…………ふむ」
賢悟は顎に手を当てて、考える。
千花が管理者の遣いであれば、アカシックレコードとやらの話は大体真実味がある。しかし、『大体そんな物』と言ったのは恐らく、完全に『全知』の物では無いからだろう。
そうでなければ、賢悟と交渉する意味が無い。全知の力を使い、イヴを排除すればいい。予定調和の未来を創り上げればいいだけだ。
だから、この場においてそれは『大体過去の出来事について把握できる代物』と考えておいた方が無難である。賢悟はそう判断した。
「質問がある」
「いいでしょう、何なりと」
「まず一つ。お前たちはどうして、俺たちに交渉を持ちかけた? 管理者ほどの力があれば、俺たちなんぞ、強制的に異世界へ飛ばすことだって可能だろう?」
世界を管理する者であれば、別世界へ対象を転移させることだって可能であるはず。それが、例え任意でなくとも。
賢悟が考える管理者とは、それほどの力を有する者と仮定している。
「確かに、そうすることも不可能では無かったでしょう。貴方たちがあの忌子と異邦人に接触しなければ」
「と言うと?」
「貴方たちは会談していた際、システム側の干渉を弾く術式を付与されました。それにより、本人の同意が無ければ、強制転移はほぼ不可能となっています。仮に、無理に排除しようとすれば、この世界の運営に大きな歪みが生まれるでしょう。それは、あまりにも不合理と我が神は判断しました」
「なるほどね。あいつらしい、性格が悪い仕掛けだなぁ、おい」
ひとしきりけらけらと笑った後、賢悟はさらに質問を重ねた。
「仮に、俺たちがその提案を受け入れなかった場合は?」
「あらゆる手段を持って、貴方たちを屈服させる用意があります。それでも従わない場合は、全面戦争です」
「まぁ、妥当だな」
賢悟は納得したように頷く。
適切で合理的な判断だ。その上、世界を管理しているのだから、文字通り、どのような脅しだって、千花は用意して来るだろう。
「なら、最後の質問だ。あの少女――イヴを殺さずに物事を解決することは可能か?」
「不可能です」
千花は迷う素振りすら見せず、即答した。
「あのイレギュラーはあらゆる既存世界に対しての悪性を持っています。彼女が存在するだけで、世界にほころびが生まれ、やがて崩壊を迎えるでしょう。それこそ、彼女を殺すか、彼女を封じるために世界一つを作り替えなければいけません」
「世界を作り替えるってのは、無理なのか?」
「既存の人類に対して問題が起こるわけではありませんが、我が神が目指す正しい未来に辿り着けません。合理的では無いと、我が神は決してその判断を為されないでしょう」
「なるほどな」
たった一人のために、世界を作り替える。世界を敵に回す。愛する者が全てであり、それ以外の有象無象は価値が無い。たった一人が、世界にも勝る価値がある。
それはよく、思春期の少年少女が愛する展開であり、まさしく王道とも言える物だ。
だが、大人は知っている。たった一人によって世界が都合よく姿を変えてくれることなど、有り得ないのだと。圧倒的大多数の意見は、たった一つのマイノリティを許さないのだと。
もちろん、賢悟も見知らぬ誰かのために世界を敵に回すつもりなど、毛頭ない。
賢悟『は』そんなつもり、ありはしない。
「これで、質問は終わりですね?」
「ああ」
「ならば、どうぞご決断を。貴方の判断に応じて、私は適切に動きます」
千花は待つ。
どんな返答を賢悟がしても、合理的な判断の元、適切に動けるように。
「そうだなぁ……ふむ」
少し悩んでから、賢悟はそもそも、己が悩むこと自体、間違いだと気づく。
この判断は、田井中賢悟が下す物ではなかったからだ。
だから、賢悟は訊ねた。
「なぁ、リリー。お前はどうした方がいいと思う?」
何よりも、この問いを、選択肢を選ぶべき者へ――リリー・アルレシアへ訊ねた。
●●●
リリー・アルレシアは依存者である。
誰かに依存しなければ、生きていけない。
さながらそれは、寄生虫のような生き様だ、とリリー自身はそう思っている。
宿主に依存して、ほんの少しの好意でも渡されたのなら、それだけでリリーは生きていけるのだ。少なくとも、リリーがエリに依存していた時はそうだった。
邪神とさえ呼ばれる、邪悪な少女。
きっと、自身を拾ったのですら、気まぐれだろう。けれど、気まぐれでも誰にも向けない好意を、僅かであれ、向けてくれた。その事実こそが、リリーにとって大切だった。
だからこそ、捨てられた時は、それこそリリーの心は死んだ。
仕方のない状況だったのかもしれない。世界を越える術を持つとはいえ、それは極僅かな限定時間のみ。世界の修正力にすぐに戻されてしまう。だからこそ、エリの術では、リリーは連れていけない。捨てるしかなかった。
ただ、慣れ親しんだ道具を捨てるかの如き躊躇いは合ったかもしれない。
それでもやはり、エリは何も罪悪感など覚えずに己を捨てだのだと、リリーは理解している。
その決断に、恨みは覚えなかった。
ひたすらに、悲しみが胸の中を占めて、リリーはきっと死んでしまっていただろう。賢悟が現れなければ。
賢悟は新たな宿主にするのは、粗暴で、けれど真っ当に善良で、優しくて、リリーが焼かれてしまいそうなほど温かい人間だった。依存しようとするすると、舌打ち混じりに蹴飛ばしてくるような賢悟だが、それでもリリーは賢悟から離れようとは思わなかった。
依存の中に、真っ当な好意が混じってしまったから。
寄生虫の癖に、人として好きになってしまったから。
だから、命だってかけようと思った。
だから、キス一つでうろたえるし、気絶もしてしまう。
だから――――こっそり、賢悟が見知らぬ女の子と話していれば、覗いてしまうのだ。
「なぁ、リリー。お前はどうした方がいいと思う?」
その結果により、逃れられぬ選択を迫られた。
かつての主を見捨てるかどうかの瀬戸際を選択しろと、賢悟はリリーに訊ねる。
かつて捨てられたリリーに、知っていて訊ねてくる。
リリーは、数秒の間に体中が業火に炙られたような錯覚を得た。それほどの苦痛が、熱い苦悩が、身を焼いていたのである。
賢悟の事を思うのであれば、間違いなく見捨てるべきだ。
かつて己を見捨てた相手なのだから、遠慮なんて要らない。それこそ、相手側も「仕方がないね」と納得するだろう。
けれど、ああ、それでも、リリー・アルレシアという少女はみっともないのだ。
みっともなく、過去に縋って、そして、
「お願いします、賢悟様…………エリ様を、助けて」
かつて愛した人を、見捨てることなど出来なかった。
それが、賢悟に対して残酷な懇願だと知って。それでも。言ってしまったのだ。
言った瞬間に、リリーは後悔した。すぐに取り消したかった。後数秒、誰も何も言わなかったら、きっと慌てながら、恥を忍んで前言撤回しただろう。
「わかった、俺に任せろ」
賢悟が、不敵な笑みと共に了承の言葉を返さなければ。
●●●
賢悟はふすまの間から飛び出たリリーの言葉に、頷いて笑みを作る。
その涙に報いるために、己が為すべきことのために、拳を作る。
「そういうわけだ、悪いな。これにて交渉は決裂……後は、そっちの出方次第ってわけだ。でもまぁ、何もしないなら、容赦なく倒させてもらうが」
「……なるほど、こういうことになりましたか」
賢悟の決断に、千花は揺れない。
予めこのような結果も予想していたのだから、何も揺れる要素などはない。ただ、これから為す己の悪辣さに、反吐が出るだけだ。
「分かりました。ならば、私も適切に対応しましょう」
千花は制服のポケットから、折り畳み式のナイフを取り出す。
その刀身は銀色。一見、何の魔術も、概念も付与されていない、ただのナイフ。今の賢悟であれば、刹那の間に消し飛ばせるであろう、陳腐な武器。
「どうぞ、私を恨んでくださいませ」
何気ない動作で、千花は何げなくナイフの切っ先を――黒子の一人、その喉元へ向けた。
「……お前、何のつもり――――いや、そうか」
「はい、その通りです」
一瞬訝しんだ賢悟であるが、直ぐにその意味を理解する。
千花は賢悟の理解を微笑んで歓迎し、無造作に黒子の頭巾を脱がせた。
「言ったでしょう? 私は、偽善者であると」
ナイフの切っ先を突きつけられた黒子。
その素顔は、賢悟が良く知る人物――――小野寺喜助だった。ただし、その瞳からは正気の光が失われ、人形のように傀儡になってしまっている。
「これは脅しです、田井中賢悟。私たちは既に、貴方と関係のある人物を全て抑えています。貴方のご両親もです。このナイフの切っ先は、その人達すべてに突き付けられていると思いなさい」
世界が敵に回るとは、即ちこういうことである。
親しい人物、少しでも関係があった人物、それを世界は見逃さない。抗う者には慈悲を与えず、残酷に追い詰めるのだ。
「大層な脅しだな」
「でも、予想していたのでしょう?」
「まぁな」
「ならば、貴方の抵抗が無駄であることも知っているはず……さぁ、早く私たちに屈しなさい、田井中賢悟。それが、貴方が傷つかない唯一の選択ですよ」
千花の言葉に嘘は無い。
マクガフィンたる者の役目を果たすため、千花は罪悪感を覚えても躊躇いはしないだろう。
故に、賢悟もまた選ばなければならない。
己が為すべき決断を。
戦うか、諦めるか、選ばなければならないのだ。
――――例え、どちらを選んでも『最良』にはならない事を、知っていたとしても。




