第59話 英雄殺し
皇国のとある田舎町に、ごく平凡な少年が居た。
少年は平凡の極みのような人間だったが、ただ一つ、生まれつき魔力が無いという大きな欠落があった。ライフラインの多くを魔術で代用している『マジック』に置いて、それは大きなハンデとなっていたが、幸いなことにそこまで苦労はしなかった。
同世代の子供たちからは多少、苛められることもあったが、そこまでひどくは無い。田舎町ゆえ、魔力による最先端の技術が無くても、手作業で代用することが可能だった。
なにより、両親の愛情を受けた少年は、多少の苛めや苦労で曲がることなく、いじけることなく、真っ直ぐ育って、平凡な日常を過ごしていたのである。
ただ、そんな平凡な日常が変わってしまったのは、少年の元に祖父がやってきてからだった。
どうやら、両親は駆け落ち同然で田舎町まで逃げていたらしく、祖父はそれを追いかけて探しに来たらしい。おまけに、祖父はとある英雄の血を引く剣の達人だから、さぁ大変。
娘である母を誑かしたと、祖父は父を半殺しに。さらには、母と孫である少年を無理やり実家の道場へと連れて帰ってしまった。
それからの少年の日常は、過酷の一言に尽きる。
朝起きたら、鍛錬。
昼も鍛錬。
夜も、倒れるまで鍛錬。
睡眠時間は気を失っている間だけ。
食事は、格上の相手に稽古で一本取った時だけ。
今まで平凡に生きてきた少年であるが故に、当然の如く、そんな日常には耐えられなかった。鍛錬から何度も逃げようとしたが、その度に捕まえられて、道場に戻される日々。
そんな苦痛の日々が終わったのは、ある日、祖父が少年にこう告げたからだ。
「お前は期待外れだった。ここまで才能の無い人間は初めてだ。どこへなりとも、消えるがいい。跡継ぎは外から取るとしよう」
こうして、少年は鍛錬と言う名のリンチを受けた後、山の中に捨てられた。
怪異が良く出没し、人々が滅多に近寄らない山の奥。そこに、今まで平凡だった少年が一人。手には鍛錬の時に持っていた木刀が一本だけ。魔力は最初から持ち合わせていない。
どう考えても、バッドエンド。
この後、少年には無残な死しか残されていない――――そのはずだった。
生きたい。
少年の心に、生まれて初めて渇望と呼ぶべき感情が生まれた。
追い詰められて、追い詰められて、極限の状態にまで追い詰められてようやく、少年は生物としての当たり前の本能を思い出したのである。
少年は痛む体を引きずって、必死に生き延びようと思考を巡らせた。
手持ちの装備は木刀一本。
コンディションはかつてないほど最悪。
それでも、少年は出来ることから始めた。
幼い頃に図鑑で見た知識を必死に思い出し、食べられる植物を探す。神経を尖らせて、湧き水を探す。唸る獣からは逃げ、時になけなしの力で追い払い、怪異と出会わないように体全てを探知機へと変える。
一つ間違えれば、絶体絶命という状況で、少年は何とか傷が塞がるまで生き延びた。
そして、少しばかりの余裕が出来たところで、ふと、少年は気づく。何もかも足りないのならば、他から奪えばいい、と。
少年の倫理は既に、一年に及ぶ虐待染みた鍛錬と、生存への渇望で壊れていた。
当然である。倫理なんて贅沢品は、余裕が伴って初めて身に付く物。下手をすれば、明日すら生き延びられてない少年には、持ち合わせていない。
故に、少年が選んだ方法は騙し討ちだった。
幸いなことに、少年は己が平凡かつ無害そうな容姿をしていることを知っていた。なので、被害者ぶって麓付近を歩く人間を襲うことにした。
最初はやはり、失敗の連続である。
怪異が出現する山の付近を歩く者がいるならば、それは当たり前の理屈として、怪異に対する対抗手段を持っている可能性が高い。騙し討ちしようとすれば、あっさりと返り討ち。あるいは、捕まりそうになったりなど、少年は手痛い失敗を繰り返した。
そんな失敗を繰り返している内に、少年は己の言葉遣いを出来るだけ丁寧に、佇まいや雰囲気を、出来るだけ無害な物にしようと努めた。凶器は木刀から、懐に仕舞える程度に小さな、けれど先が尖った小枝へ。痛みと共に学んだ、相手の呼吸を掴む術を実践し…………やがて、襲撃が成功する回数が多くなった。
成功を重ねるごとに、少年の生活は豊かになっていく。
火を使い、獣の肉が焼けた。
水以外の飲み物で喉を潤せる。
服を手に入れた。
木刀以外の、まともな武器も手に入れた。
怪異を、斬れるようになった。
だが、少年の生活が豊かになっていくにつれて、周囲からの警戒度も上がっていった。当然である。いくら怪異の現れる山だとしても、少年が行った野盗の痕跡は人そのもの。
討伐隊が派遣され、山狩りが行われる。
山狩りとして選ばれたのは、少年がかつて閉じ込められていた道場の門下生たち。どうやら、野盗やら怪異やらを斬って、己の経歴に箔を付けようという魂胆だったらしい。その道場の門下生たちは祖父のツテによって、よく軍隊などからスカウトを受けていたからだ。スカウトを受けやすくするためには、実績を得るのが一番。
故に、安易な気持ちで門下生たちは山へと向かった。
誰一人として、門下生たちは山から戻らなかった。
門下生たちは全て、山に住まう少年によって殺されてしまったのである。
少年にとっては、門下生たちを殺すのは怪異を殺すよりも、遥に簡単な事だった。何せ、相手は山に慣れていない剣士なのだ。振り回せない刀を持ち、慣れない悪路で足元はふらふら。だから、門下生たちは少年の不意打ちに対応できない。トラップに無様に嵌り、あっさりと命を落とす。
少年が、門下生たちの和装に見覚えがあることに気付いたのは、彼らが全滅してからだった。
知り合い程度ではあるが、少年は顔見知りを殺すのは初めてだ。もっとも、今更その程度で動揺する倫理観など、少年には無い。
あったのはただ、思い出したように腹の底から込み上げてきた怒りだった。
その身に受けた理不尽を思い出し、囚われた母を思い出し、少年は怒りと共に決意する。
母を取り戻し、父の元へ返そうと。
今更、少年もまともな人間に戻れるとは思っていない。
けれど、けれども、なんとか母だけは父の元へ返してやりたいと……少年は、久しぶりに涙を流し、決意したのである。
少年は決意すると、即座に行動に移した。
殺した門下生たちの中から、少しでも己のサイズにあった和装を剥ぎ取り、着込む。刀を腰に差して、金を奪う。後は、道場時代を思い出しつつ、今まで培った演技で山から下りて、麓の人間たちを騙した。
野盗は殺せたが、怪異の群れに遭って仲間たちは死んでしまった、と。
幸いなことに、門下生の数が多かったので、麓の人間は一人一人の顔と名前を一致させることはできず、少年の言葉を信じ込む。
後は簡単だ。
命からがら生還した門下生を装い、道場の近くまで堂々と道を歩き…………その時なったら、夜の闇に乗じて忍び込めばいい。目的はあくまで、母の奪還だった。
少年は一年以上に及ぶ道場での生活により、ほぼ完全に道場の生活環境は把握していた。当然、門下生の多くが寝静まり、もっとも警備が薄くなる時間帯も知っている。
今の少年にとって、道場に忍び込むのは難しくない。
獣よりも警戒の薄い人間を相手に、少々静かに動けばいいだけだ。
後は、適当に夜の番をしていた門下生を一人、闇討ちによって捕縛。母の居場所について聞き出そうと、首元へ刃を突きつける。
けれど、帰ってきた答えは無情なものであった。
「ひ、や、やめてくれ……あ、あの方だったら、二か月前に亡くなられた! 心を病んで、自害なされたのだ。だから、もうここにはいな――」
少年は捕えた門下生を殺した後、その言葉を否定するように母を探し回った。
気配を消すさえ忘れ、知らずの内に否定の言葉を繰り返し。
そして、少年が母の死を受け入れたのは皮肉にも――――少年を斬りにやってきた、祖父の言葉によるものだった。
「なんだ、どこの鼠かと思えば、お前か。出来そこないの屑が、畜生に成り果てるとはな。母だと? ああ、残念だったわ。生きていれば、もう少しまともな跡継ぎを産ませたものを」
祖父は少年の気配に気づき、誰よりも早く少年を斬りにやってきた。
かつての少年の平凡さを知る祖父は、達人ながらどこか油断していた。
少年は怒りのあまり感情が消え、無我に等しい状態になっていた。
以上、三つの理由により――――少年は生まれて初めて、格上殺しを成し遂げる。
「何だ? 怒りに任せて刀を抜かないのか、貴様は。ふん、やはり畜生風情には、刀を扱うのは到底無理だったようだ――――」
かつての鍛錬の記憶が、少年の肉体から呼び起される。
山での生活により培った観察眼が、祖父の隙を見つけ出す。
他者の意識の間隙を突く動きで、少年は思考するよりも先に、剣を抜き放った。
神速とまでは呼べない抜刀。
けれど、老いて慢心した剣士の首を斬り飛ばすには、充分だったらしい。
怨敵をその一刀で斬り殺したところで、少年の記憶は一旦、途絶える。その後、気付くと少年は道場に住まう全ての者を斬り殺し、立ち尽くしていた。
「あ、あ――――」
血で汚れた刀身が、赤く染まった少年を映し出す。
母を失い、怨敵を殺し、心が虚無へと堕ちる寸前…………少年が己の姿に見出したのは、修羅の道。
もはや、人として生きられないことを自覚していた少年は、己の名を捨て、ただの一介の剣士として生きることを選んだ。
魔力が無く、才能さえも無く、ただ血の滲むような経験のみで格上を殺した少年は、一つの興味を抱いたのである。
自分は一体、どこまでやれるのだろうか?
それ以来、少年は『剣士』として生きている。
心にただ一つの探求心を抱えたまま、『剣士』は鍛錬を繰り返す。やがて、青年となり、英雄殺しになっても、『剣士』は止まらない。
きっと『剣士』は、己の心臓が止まるまで、探求することを止めないだろう。
もはや、それだけが『剣士』にとっての存在理由なのだから。
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賢悟と『剣士』の戦いは、以前と変わって静かな物だった。
両者とも何も語らず、叫ばず、ただ、風切り音と地面が擦れる音のみが、延々と繰り返されている。
以前の戦いでは、『剣士』の放つ抜刀術に対応しきれず、ほぼ直感で回避していた賢悟。けれど、今は違う。以前よりも死を身近に感じ、なおかつそれを握りしめた賢悟は、『剣士』が放つ刃を見極めることが可能となっていた。
なぜなら、『剣士』の放つ剣閃のほぼ全てが、賢悟の死へ、終わりへ繋がっているのだ。死の恐怖を知った賢悟にとっては、己がどう動けば死に至るのかが良く分かる。
即ち、どう動けば死なないのかも分かる。
「…………予想以上ですね」
沈黙を破り、『剣士』が感心の呟きを漏らす。
『剣士』の剣閃は全て、賢悟の好まない間で放たれ、一撃必殺を狙っている。あるいは、初太刀が躱されても、二度目の太刀で仕留めるための術理を持って放っている。
けれど、賢悟はそれら全てを紙一重、最小限の動きで見切っているのだ。
以前とはまるで、賢悟の動きの質が違う。
下手に『剣士』の隙を狙い撃とうせず、最初から回避と観察に集中することにより、無駄のない見切りが可能となっていた。
「ここか」
そして、初めて賢悟が拳を振るう。
それは遠当てでもない、普通の近距離の打撃。
振り下ろされた刀を回避し、すれ違いざまに賢悟は小さく拳を振るった。
渾身の力も込められていない、ただのジャブのような打撃だった。しかし、その打撃は『剣士』によって回避されることも無く、綺麗に『剣士』の脇腹へ叩きこまれる。
「……ぐっ」
軽くはあっても、賢悟の拳は筋肉の継ぎ目を狙うように正確だ。加えて、『剣士』の肉体は魔術防御も無い、ただの人間の体だ。異影牙や『僧侶』のように、尋常ならざる防御力を持っているわけでは無い。
つまり、常人が死ぬような攻撃を与えれば、普通に死ぬのだ。
「ふむ、重ねる必要があるか」
賢悟は己が放った打撃の感触を確かめるように右拳を鳴らし、頷く。
『剣士』の扱う剣術は、紛れも無い英雄殺しだ。
特殊な能力や、高い身体能力がある者の隙を突き、針の穴を貫くように必殺の一撃を放つ。
されど、英雄殺しであっても、『剣士』の肉体は凡庸なる人間が鍛え上げた物に過ぎない。本質は、暗殺者に過ぎない。
「テメェと一撃終幕は相性が悪い。だから、順当に重ねて――削り倒す」
だからこそ、『剣士』の弱点は物量と時間経過である。
英雄では難なく殲滅できる数の兵士でも、暗殺に特化した『剣士』にとっては難関だ。何せ、まともに戦えば、剣術が見切られる前に体力が尽きる。
そして、英雄と呼ばれるような存在と長く戦うのもまずい。なぜならば、英雄とは戦いの中でも成長していく理不尽であり、『剣士』の剣術を観察し、適応して来るからだ。
故に、『剣士』と一度戦った経験を持つ賢悟は、『剣士』の弱点推測、看破して……冷静に相手に打撃を重ねていくことを選んだのである。
「はは、これは参りました」
『剣士』は苦笑と共に、額から冷や汗を流す。
予想以上だった。
賢悟は、『剣士』の予想を遥に超えて成長していた。
一度、限界まで死に近づいたため、より死の気配に敏感になった賢悟は、戦いに落ち着きと冷静さを取り入れた。本能のままに抗うのではなく、受け入れ、観察し、対抗する。当たり前の事を、当たり前に出来るようになり、結果、見切りの精度が格段に上がったのである。
それが、『剣士』にとってはかなりのネックとなっていた。
冷静に観察されているのであれば、いずれ剣術の癖を見抜かれる。かといって、急げば隙を大きくし、叩きこまれる拳の回数も上がるだろう。瞬く間に成長し、やがて『剣士』の体を穿つ打撃を放つだろう。
このままでは、負ける。
そう、本能で確信した『剣士』は、静かに納刀。肩を竦めて、賢悟へ語り掛けた。
「随分と成長なされましたね、貴方は。今まで数々の英雄と戦ってきましたが、流石に二度目で拳を当てられたのは初めてです」
「そいつぁ、人生経験が足りなかったな? お兄さんよ」
刀を収めた『剣士』へ、賢悟は殴り掛からない。慌てない。明らかな誘いと分かっている物には乗らず、静かに観察を続ける。
「かもしれませんが、正直、驚きです。この差し迫った状況で、ここまで冷静に俺の見極めるとは思っていませんでした」
「いや、だってお前……見極めないと殺されるだろうが」
「くは、はははは……そうですね、違いない」
呆気からんと言う賢悟の反応を笑うと、『剣士』は自然と柄へ手を添えた。
「なら、俺もこのままだと殺されそうなので――――とっておきを出しましょう」
言葉が終えると同時に、『剣士』から笑みが消え去る。
穏やかな雰囲気も、隠した殺気も、全て『剣士』は己の内へ収めていく。
やがて、『剣士』の気配は無機質な物へと変貌した。さながら、ただ剣を振るだけの機械へ成り下がったかのように。
「宣言します。この一刀を放てば、貴方か俺のどちらかが死にます。今から放つのは、そういう類の物です…………遺言はありますか?」
淡々と紡がれる『剣士』の言葉は偽りでは無い。
なぜならば、『剣士』が放とうとしているのは、彼の世界最強の剣士が辿り着いた極致。その内の一つなのだから。
「ちなみに、俺はありますよ。ああ、そうだな……俺は、『死にたくない』とでも言っておきましょうかね」
凡庸であった『剣士』が、魂がすり減るほどの鍛錬を重ね続け…………たった一つだけ手に入れた、条理を越えた魔剣。
それは一撃必殺でありながら、同時に、使用者である『剣士』へ致命的な隙を生ませてしまう欠陥技である。さながら、シイの全身全霊のように。
だからこそ、『剣士』はわざわざ奇襲の機会を逃しても宣言したのだ。
強敵と認めた、賢悟に対する敬意として。
「は、遺言ね…………悪いが、この後も予定が詰まってんだ。今から遺言なんてほざけば、きっと友達と妹に殴られちまう」
賢悟は、『剣士』からの敬意を受け取り、拳を構える。
死の気配は、賢悟自身から濃厚に、そして、『剣士』からも感じ取れていた。
決して『剣士』の言葉が偽りで無い事を理解しつつ、なおかつ賢悟は己の勝利を信じぬく。
もう、死の恐怖には怯えない。
それを受け入れてなお、賢悟は先へ進むことを選んだ。
「良い返事ですね、羨ましい…………では」
「ああ、来やがれ」
賢悟と『剣士』、両者の覚悟が定まり、空気が刺激を帯びる。
さながらそれは、ガンマンが早打ちで決闘するかの如く。命を賭けた者だけが味わえる最高の緊迫感が、両者の肌を焦がし……そして、
「――――抜かずの太刀」
鮮血が花弁の如く、舞い散った。




