第5話 敗北と敬意
レベッカがエリと初めて出会ったのは、幼少の頃。
王都で開かれたとある舞踏会で。
まだ幼い少女でありながら、レベッカは民衆の模範となるべく淑女としての修練を積んでいた。それは幼い少女に課せられるには、いささか厳しい教育であったが、レベッカは持ち前の負けん気を発揮して、教えられた全てを問答無用に吸収していく。
公爵家の娘という肩書に、かくあるべし、と強要された淑女像を押し付けられてなお、レベッカは真っすぐに育っていた。元より、アヴァロン家に生まれる女性は女傑が多い。そして、レベッカも幼くしてその頭角を現していた。
そんなときである、エリと出会ったのは。
「初めまして、レベッカ様。私はエリ・アルレシア。よければお友達になっていただければ嬉しいです」
エリは美しく、白い少女だった。だが、同時にレベッカはエリを、どす黒い少女であると、一目見てそんな印象を抱いた。
言葉遣いに問題は無かった、むしろ、自分より礼儀正しいほどだ。
佇まいにも優美はお嬢様といった風情だ。成り上がりの商家としては、上等過ぎるほどに。
けれど、目が。エリが己を見る目が、レベッカは恐ろしくてたまらなかった。
エリの目は、路傍の石ころを見つめるようだった。人間に向けていい視線では無かった。世界中を須らく呪っていなければ、こんな目は出来ないはずである。
一体、何がそんなに恨めしいのか?
あるいは、生まれた瞬間から何もかもが憎かったのだろうか?
そんな疑問が浮かんでしまう程度には、レベッカはエリとの出会いに戦慄を受けたのである。
「レベッカ。今日会った同い年ぐらいの女の子が居たね? そう、エリちゃんだ。出来ることなら、彼女とは遊ばないようにしなさい。まだ、君は彼女の毒に耐えられるほど強くはないだろうから」
幼いレベッカは、その舞踏会の夜、一緒に居た兄から忠告を受けた。そして、レベッカはそれを疑問に思うことも無く頷いた。
理屈では無く、本能で理解していたからだ。あれと関わると、ろくなことにならないだろうと。関わるだけそんな人種なのだと。
そして、二度目の出会いはエルメキドン学園高等部での事。何の因果か、レベッカとエリは同じクラスに割り当てられた。
「あら、お久しぶりですねぇ、レベッカ様」
八年ぶりほどに再会したエリは、その邪悪さを増していた。
例えるのなら、幼少のエリは純粋な黒を連想させる不吉さを纏っていた。だが、再会したエリは混沌の黒という言葉が良く似合うほど、悍ましさを纏っていた。黒く濁るまで、いろんな色をごちゃまぜにしたような、全てを台無しにするような美しい笑みを浮かべて。
エリが居る限り、ろくなことにならない学園生活になりそうだと、その時、レベッカは直感した。そして、その直感は見事に当たっていて、エリは悪魔的な頭脳を己の欲望のまま、邪悪に使い、騒動をばら撒いていく。
その中には、レベッカがどうしようもなく許容できない事件もあって、だから、正義という御旗を振りかざし、エリを学園から駆逐した。力任せに、強引に。そうでもしなければ、学園が壊れてしまうと思ったから。
正義を振りかざしておいて、レベッカは己のやったことが正しいとは思っていない。理由はどうであれ、大人数でたった一人を迫害し、排除したのだ。褒められた行為では無い。それでも、排除しなければならない悪が居た……だから、後悔は無い。
これでいいと、レベッカは自分を納得させた。
己の中に消えない傷が残ろうとも、それで罪の無い学生たちが平穏に過ごせるのなら、それで、と。
だが、再びエリは現れた。
長く不吉な白い髪をざっくばらんに切り捨てて。
嫌味ったらしい丁寧語が、ぎごちないそれに代わっていて。挙句の果てには、まるで獣のような目で己を見つめてくるのだ。まるで、挑戦者のように。
確かめなければならない。
この不自然なエリがはたして、排除すべき悪なのか、どうかを。
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《灼熱魔人の右手》はレベッカが修得している魔術の中で、最上級の戦闘魔術だ。かつては魔術の天才であるエリに傷を負わせたほどの威力を持つ。並の魔術師だったら十人束になって防壁を作ろうが、貫通する自信もある。
もっとも、この決闘場内ではそんな協力無比な魔術も、直接肉体には被害を及ぼさない幻に変換されてしまうのだが。しかし、肉体に影響を及ぼさなくとも、精神は別だ。例え幻で会ったとしても、決闘場の生み出す幻は、現実と同等の痛みを対象に与える。セーフティでショック死だけはしないようになっているが、気絶、失禁はもちろん、後遺症の残るダメージが精神に与えられる場合もある。
これは、あくまでも決闘であり、遊びではないのだから。
学生同士といえど、互いに決闘を行った結果として痛みを覚えなければいけない、という学園創立者の教訓である。
そして、《灼熱魔人の右手》の灼熱の痛みは、必ずエリを跪かせることが可能だと、レベッカは自負していた。人体が骨ごと焼かれる痛みだ、耐えられるわけがない。加えて、今の魔力が皆無なエリでは、己の一撃を防げないこともレベッカは知っている。
つまり、エリに出来る残された手は二つ。
何かしらの策を巡らせて、レベッカを嵌めるか、大人しく逃げ帰るか。
レベッカの知っているエリは、陰湿で根暗で性格が最悪の人間だった。しかも、そこそこ自尊心が高いと言うのだから、困り物だ。そう、そこそこという点がかなり。己の不利な場面では冷静に撤退を選ぶ程度には自尊心に拘らず、後でたっぷりと復讐してやろうと企む程度には自尊心が高い。
故に、レベッカは確実にエリが逃走を図るだろうと思っていた。
事実、エリが制服のポケットから、赤い魔力石を取り出したので、そのまま転移呪文でこの場から逃げようとしているのだと推測していた。
「――おらぁ!」
だから、雄々しく叫び声を上げて、そのまま魔力石を投げつけられた時、レベッカの思考は一瞬、空白になってしまう。
大魔術一発ぐらいなら行使することが可能なほどの魔力が込められたそれを、まさか、原始人のように投石してくるなど、真っ当な魔術師であるなら考え付くはずがない。
よりによって、それをエリがしてくるなどとは。
「くっ、まずい!」
レベッカはとっさに風の暴風を収め、紅蓮の右手を操作する。投げつけられた魔力石から、遠ざけるように。下級魔術や中級魔術が行使できる程度の魔力石なら、こんな手間は取らない。普通に風の魔法で防ぐだけだ。だが、大魔術が行使できるレベルとなると違う。下手に魔術を使って干渉すれば、込められた魔力が暴走してしまう。
最悪、決闘場の術式が乱れ、セーフティが強制解除されてしまう恐れすらある。
「エリ! いくらにゃんでも、これは――っ!?」
あまりに幼稚かつ原始的な行動に、レベッカは非難の声を浴びせかけようとした。だが、その声は途中で中断される。駆けてきたからだ、エリが、真っすぐレベッカの元に。
何の魔術も使用せず、ただ愚直な全力疾走で。
「うぉおおおおおおおおおおおっ!」
エリは勝利を求めて、レベッカとの距離を縮め続ける。
それは蛮勇だった。
明らかに、馬鹿の行動だった。
幼稚な奇襲をかけて、時間を稼いで、必死になって拳の届く距離まで詰めようとするエリの姿は、かつての天才の姿からはほど遠い。
ここから勝利するのは簡単だ。ただ、走ってくるエリに向かって、紅蓮の右手を振り下ろせばいいだけ。そうすれば、骨すら焼く痛みでエリの精神を砕くだろう。
「…………魔人の右手よ!」
一瞬の迷いはあったが、レベッカは強い意思でそれを振り切る。
これは決闘である。そして、相手はそれを受けたのだ。ならば、全力を尽くすのみ。
例え、眼前の相手がエリでなかったとしても。
「愚者を喰らえ!」
振り下ろされた紅蓮は、瞬く間にエリの姿を飲み込んだ。
幻なれど、エリに与えられる痛みは歴戦の戦士ですら発狂し、人格を狂わせる劫火。激痛と灼熱により、指一本動かせないまま、灰になる己の姿を幻視するのみ。
――そのはず、だった。
「しゃらくせぇええええええええええっ! 地獄の業火にしちゃ、温すぎんぜぇ!!」
有り得ない光景が、レベッカの眼前で展開されていた。
凶暴な笑みを湛えたエリが、紅蓮の劫火を突っ切って、レベッカの眼前まで飛び込んできたのである。
「嘘よ、そんな!」
耐えきれるわけがない、人間の精神はそこまで強くないはずだ、とレベッカの思考は今度こそ混乱に陥った。思考が絡まり、ろくな考えもひねり出せない。
その隙を、エリが――――否、田井中賢悟が見逃すはずがない。
「ゲロ吐きなぁ!」
「おぶぅ!!」
本日二度目の、痛烈なボディブロー。
それは容赦なくレベッカの華奢な体を九の字に曲げて、
「――負けないっ! 絶対に!」
けれども、レベッカの意思は折れなかった。
無意識に滲む視界で、賢悟の凶相を睨みつけて詠唱破棄。低級の火焔魔術を連発して、賢悟を焼き潰さんとする。
「くくくかかかっかあはああああああっ!!」
火焔に焼かれる痛みを受けながら、なおも賢悟は拳を振るう。
何度も、何度も、同じ場所に、レベッカの腹部にブローを繰り返す。いっそのこと、顔面でも殴り飛ばした方が効果的であろうに、まるで我慢比べをするように。
「うらぁああああああああああああああああああああああっ!」
「はぁあああああああああああああああああああああああっ!」
賢悟は美貌を台無しにするような、獣の笑みで。
レベッカは涙を滲ませながらも、強く唇を噛みしめて。
片や肉体に直接ダメージを累積さえるボディブロー。
片や精神を焼き尽くす火焔。
つまるところはレベッカの肉体が決闘場のセーフティに引っかかるか、それとも、賢悟の気力が先に果てるかの問題だった。
「…………はぁ……はぁ……」
しかし、結局のところ、勝負は初めから決まっていたのかもしれない。
それは覚悟の違いである。
それは背負う物の違いである。
「勝った…………勝った!」
決闘場に木霊する歓喜は、誇りと共に響き渡った。
「私、レベッカ・アヴァロンの勝利よ!」
涙を流し、口元からは込み上げた胃液が零れ、それでもレベッカは美しかった。
これは誇りを競う決闘である。ならば、興味本位で戦っていた賢悟よりも、レベッカの方が上回るのは当然の理だ。
レベッカの誇りとは、己のためだけの物では無く、他者を背負ってなお誇る物なのだから。
「…………ちくしょう、かっこいいなぁ、おい」
仰向けに、大の字で倒れる賢悟の口元には柔らかな苦笑が滲んでいた。
久しぶりの敗北だというのに、賢悟の心が清々しく晴れやかだった。
まるで、これが正しい在り方であると祝福するように。
レベッカの眩しいまでの生き様に照らされて。
賢悟はゆっくりと微睡むように意識を沈ませた。