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第2話 異世界の生活

 まだ賢悟が幼い頃、祖父は厳かに告げた。


「俺が教えるのは武術でも護身術でもない、ただ一つの方法だ」


 当時、小学校低学年に過ぎない賢悟では祖父の言っていることの全ては理解できなかった。だが、祖父がとても大切な物を教えようとしてくれるのだけは、ぼんやりと分かっていた。


「神様を殴る方法を教えてやろう」


 賢悟は、祖父から教わったことがたくさんあった。

 効率的な走り込みや、負荷トレーニングの方法。何を食べれば良質の筋肉を生成できるか。どういう拳の握り方をすればいいのか。喧嘩の方法。野外で安全に眠る方法。たくさん、たくさん賢悟は祖父から習った。


 しかし、その全ては祖父の言っていた通り、一つの拳に集約する。

 一撃必殺ではなく、一撃終幕の拳。

 喧嘩なら、喧嘩を終わらせ。

 抗争なら、抗争を終わらせ。

 戦争なら、戦争を終わらせる。

 ミサイルと経済が世界を回している現代日本で、祖父はそんな魔法みたいな拳の打ち方を、病で伏せるまでずっと賢悟に教え続けた。

 結局、祖父が死ぬまでにその拳を完成することはできなかったけれど。

 賢悟は孤独な人生の中で、その拳を完成させることを目標にして生きてこられた。日々、常人から見れば狂った研鑽を重ねることが出来たのである。


―――では、その成果が全て無駄になってしまったら?



●●●



 賢悟は、まるで陸に上がった魚のような気分だった。


「ぜ、は――ぜっ、ぜっ…………はっ」


 蹴ったはずの地面がスポンジのように柔らかく感じてしまう。気を抜けばすぐに、転倒してしまいそうだった。指先が震える。額から流れる汗が目にかかりそうで鬱陶しい。


「はっ、はっ、はっ――」


 意識していても呼吸が乱れてしまう。

 酸素が頭に回らない。

 賢悟はぼやけた思考で悪態を吐く。なんだこれは、走っているつもりがまるで…………溺れているような気分だ。


「っつあ!?」


 挙句の果て、足をもつれさせて転倒する始末。まだ十キロも走っていないと言うのに、この体たらくとは、さすがの賢悟自身も笑うしかない。


「はっ、はっ、は――――あぁ、マジかー。どんだけ貧弱なんだ、この体は? 筋肉でも腐ってんのかよ?」


 賢悟が行っていたのは、早朝でのジョギングだ。

 まだ周辺の地理に疎く、リリーからの言いつけもあり、賢悟はアルレシアの屋敷の敷地をぐるっと回り続けるというジョギングコースを選んだ。同じ場所を淡々と回り続けるのは、賢悟としてはジョギングの醍醐味が台無しだと思っていたが、慣れない体で、知らない異世界の中を走り回るのは不安だったこともあり、大人しく敷地内で走ることにしたのである。


 最初は、強制的に取り換えられたこの肉体が、どれほどのスペックなのかを軽く測定するつもりでの運動だった。だが、その肉体は……女性であるという点を差し引いても、賢悟の予想以上に貧弱だった。貧弱すぎた。


「まさか、三キロ程度のジョギングで倒れて動けなくなるとは。どんだけ運動不足なんだよ、この肉体は」


 そもそも、賢悟は知る由も無いことだが、元々の体の持ち主であるエリは極端なインドア人間だった。運動するぐらいなら、舌を噛んで死ぬとまで主張するようなひねくれ者である。そんな彼女の肉体が、三キロも走破できたこと自体が奇跡であり、賢悟の精神の強靭さを証明していた。


「ちゃんとジャージも用意してもらったってーのに」


 リリーが物凄く渋ったが、昨日の出来事が尾を引いていたのか、賢悟は意外とすんなりとスカート以外の服を着ることが出来た。異世界なのだから、ひょっとしたら中世ヨーロッパのような服装しかないかと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。


 賢悟が現在住まう世界は、魔法を文明の基軸として用いている。

 そのため、賢悟が住んでいた世界とは色々違う部分が存在するが、大体、進化の先に求める結果は同じだったようで、想像していたよりは齟齬が少ない。

 魔力を原動力とするが、テレビも車も存在する。インターネットは元の世界よりも、全世界での情報網を敷くのが難しく、存在していないらしい。精々、あるとしても電話の代用品ぐらいだった。同様に、服装もほとんど賢悟が元居た世界と変わらず、洋服を主体として文化が流行している。


 もっとも、この異世界には純粋な人間……『ヒューマン』という種族の他にも、『エルフ』や『ドワーフ』、『セリアンスロープ』などと言った種族も存在しているので、サイズや服の様式が千差万別になっているのだが。


「お疲れ様です、賢悟様」


 賢悟が庭先で大の字に仰向けになっていると、リリーがいつの間にか傍に来ていた。その手には、タオルと、ドリンクボトルが用意されてある。


「エリ様には以前から運動不足を指摘していたのですが、中々出不精でして」

「出不精ってレベルじゃねーぞ、この体。腐ってやがる」

「さすがに腐ってはいませんよ」


 賢悟は気合いを入れて体を起こし、タオルとドリンクボトルを受け取る。


「ふぅ、サンキューな、リリー。自分で用意しようと思っていたが、まだあの広い屋敷に慣れなくてよ」

「いえ、そのためのメイドですから。というか、主が率先して動かないでください。まず、メイドに言いつけるのが基本でございます」

「自分で出来ることを、わざわざ他人に言いつけるのか? めんどくせーから、却下で」


 元高校生男子としては、賢悟は明らかに平均的な者たちよりも自分のことは自分でやっていた。掃除や洗濯、ゴミ出し……食事まで全て。さすがに学費や生活費は六割ほど両親からの補助があったが、それ以外はほとんど自分の事は自分でやっていたのである。

 そんな生活に慣れた賢悟にとって、自分の生活を手助けするメイドのような存在は、違和感でしかないのだった。


「んぐんぐんぐ……ぷはっ…………っておい、なにじろじろ見てんだよ? つか、近い」

「いえ、なんでもありません。ただ……エリ様の汗の匂いが新鮮で」

「離れろ、今すぐに」


 おまけにメイドであるリリーが、若干変態疑惑があるので、傍に居られたら落ち着かない。


「シャワー浴びてくるわ」

「ご案内しますか?」

「必要ない、昨日教えられたし……大体、『体が思い出してきた』からな」


 乳酸の貯まった体に喝を入れて立ち上がり、さっさと歩き始める賢悟。

 確かに、疲労の度合いはひどいが、これ以上の最悪なバッドコンディションで喧嘩をした時がある賢悟にとっては、誰かの手を借りるほどでは無い。


「……了解しました」


 リリーは賢悟の背中を、無表情で見送った。

 その横顔がどこか寂しげだったのは、本人すら気づいていない。



●●●



 賢悟は幼い頃、修業と称して冷水のシャワーを着衣のまま浴びた経験がある。

 今思い返しても、阿保らしい出来事だったが、その後、祖父が「どうせなら本物を体験しようではないか」とリアル滝行に連れていかれたので軽くトラウマだ。

 それ以来、賢悟はどうにも冷水のシャワーを敬遠する傾向にあり、よほどの猛暑でなければ熱いシャワーを好むようになった。

 どうやら、それは肉体が入れ替わった現在でも、変わらないらしい。


「…………はぁーあ」


 適温よりも少し高めの温度のシャワーが、賢悟の頭から降り注ぐ。

 降り注いだ湯は、なだらかに賢悟の体の括れをなぞり、足元へと流れて行った。

 白雪のような肌は熱の所為か、若干赤く火照っており、人形染みた美しさを持つその体に現実感を付与する。

 エリの肉体は、未成長の少女として最上と呼んでも過言では無い美しさを宿していた。

 シミ一つない肌に、絶妙なプロポーション。加えて、神様が贔屓して作り上げたのではないかと思うほど、エリの容貌は冷たく、美しい。それは、乱雑に切りそろえられたショートヘアでも、損なう所がまるでない。逆に、その隙こそが好ましく思えてしまう。


 まるで雪女だ、と賢悟は思った。

 男なら誰しも、この体と触れ合うためならば、魂ごと凍らされても本望と思ってしまうような、そんな危うい美貌だと。


「くそっ、あぁ、ちくしょう…………」


 だが、賢悟としては、その体に対して興奮や嬉しさは一欠けらも覚えなかった。男として、この裸体を見ているのならともかく、この美しい少女の肉体は自分自身なのだ。そう、脳が認識しているのだ。

 賢悟はナルシストではない。故に、自分の体には興奮を覚えない。

 むしろ、思わず悪態を吐いてしまうほどに、気持ち悪さを感じていた。

 なにせ男だったはずの賢悟が、女の体に入れられているのだ。説明を受けた今でも、理解を拒絶したくなる狂気的な現象であり、全身を掻き毟りたくなるほどの冒涜感を覚えている。

 それほどまでに自分では無い体、というのは違和感の対象なのだ。


 フィクションでよくある、体が取り替えられたり、女性に変化してしまうようなコメディがある。賢悟も暇つぶしで何作か読んだことがあったが、まさか、そんなフィクションと同じ出来事が起こるとは思わなかったし、それがこんなにも辛いとは思わなかった。元から変身願望も持っていない賢悟なら、尚更である。


「マジクソだなぁ、おい」


 改めて理不尽な待遇に関して悪態を吐くが、それでも、初日よりは苛立ちが少なくなっていた。いつまでも文句を言ったところで状況が改善されるわけでもあるまいし、それならば、せめて前向きに行動した方がマシだと割り切ったからだ。

 違和感は拭えない。

 加えて、寿命は残り約十か月だ。

 真っ白な体に、呪いとして刻まれた真紅の痣。

 心臓を中心として咲いた、赤い薔薇を象っている呪いの痣が無くならない限り、賢悟には妥協すら許されない。


「…………やってやるさ」


 本来の肉体とは比べることすらできない、小さく、華奢な拳。それでも、絶望に挫けそうになる心を奮い立たせて、賢悟は握った。


「まー、それはそれとして、さっさと朝飯っと」


 シャワーを終えた賢悟はさっくりと気分を切り替えて浴室を出る。負の感情は奮起するにはうってつけだが、いつまでも引きずると精神的にも肉体的にも体に悪いので、賢悟はさっさと切り上げることにしているのだ。


「…………用意した着替えと違う」


 もっとも、いつの間にか、フリフリとした黒のワンピースに着替えをすり替えられていた時には、負の感情が再燃してしまったが。


「後で一度くらい、あのメイド殴った方がいいかなぁ……今の体は女だし。女が女を殴っても問題ないだろうさ」


 祖父からは女は大事にしろと教えられていたが、世の中には女であろうがクズは多い。賢悟の体を入れ替えたエリという存在がいい例だ。故に、賢悟は祖父の教えに対して『ケースバイケース』という柔軟な思想を取り入れて対応している。

 要するに、殴る理由がある時は女だろうが殴る主義だ。


「顔はやめておくとして、ボディ、ボディ…………柔らかい部分を狙って……」


 しゅっ、しゅっ、と軽くシャドーをしながら廊下を歩いていた賢悟だったが、ふと、背後から声が掛けられた。


「おはよう、エリ…………今日はちゃんと朝に起きてきたんだな」

「…………」


 賢悟は無言で振り返って、声の主を確認する。

 そこには、白髪に精悍な体つきをした中年の男性が立っていた。服装はシャツにジーンズとごく普通の物だが、逞しい体や容貌はまるで、彫刻家が象った英雄の石像が、動き出したかのようだった。

 ジン・アルレシア。

 エリの実の父親にして、アルレシアという名の大財閥の総帥である。

 僅か一代にして小さな商家だったアルレシアを、貴族でないにも関わらず王家にすら影響力を及ぼすほどにまで急速に成長させた、天才にして英傑。

 そして、父親としては落第と評しても甘すぎる男だ。


 ――――そのように、情報が、賢悟の脳裏に浮かび上がった。


「魔力の件は残念だったが、お前の頭脳が失われたわけではない。まだアルレシアを継ぐ価値がお前にはある」

「…………」


 ジンの言葉に、賢悟は無言で応じる。

 そうするべきとリリーに予め言い含められていたし、この肉体の記憶も、そうした方がいいと証明していた。


「だから、その…………」


 賢悟が無言でジンを見つめていると、ジンは気まずそうに目を逸らした。娘の視線から、逃げるように。

 だから、賢悟は何も言わずに背を向けて、その場を立ち去ろうとする。その背中に、ジンの慌てたような声が掛けられた。


「…………たまには、一緒に朝食を取らないか?」


 絞り出したような一言だった。

 だが、その言葉を言うには手遅れ過ぎた。既にエリの魂はこの場にはなく、賢悟には応える義理も無い。

 一代にして事業を立ち上げ、大財閥にまで育て上げた稀代の英傑。

 けれど、それは即ち骨の髄まで仕事人間だったということであり、エリがこの年になるまで、事業が落ち着くまで、碌に家族を構うことなく勤め上げたという証明だった。

 父親のいない誕生日。

 父親のいない入学式に、卒業式。

授業参観? そんなの、親が居ないのがエリという少女の人生ではテンプレだった。

 だが、それでもまだマシな方だった。なにせ、母親の方は――――


「馬鹿らしい」


 一言、ジンに対してでも、エリに対してでもなく呟いて、賢悟は歩みを進めた。

 エリという少女はクズだ。救いようがないほど邪悪であり、恐らく、環境が変わっても、そこは変わらない。真っ当な両親に育てられてもあの邪悪は対して変わりが無かっただろうと、エリ自身の肉体の記憶がそう告げている。

 だとしても、賢悟は思ってしまったのだ。

 もしも、もっと真っ当な家族に囲まれていたら、ここまでひどくはならなかったのではないかと。

 そんな風に同情してしまった自身を馬鹿らしく思ったのだ。


「…………両親、か」


 賢悟はふと、元の世界に居る両親を思う。だが、懐旧よりも先に苦々しい思い出が先行して仕方ないので、その思考は一瞬にして切り捨てられた。

 結局のところ、親のひどさを競うのであれば、賢悟にはエリについて何も言うことが出来なかったのである。


「どの世界も変わらねぇな」


 奇しくも、それを実感できたのはエリとの共感であることが皮肉だった。

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[一言] ほほう、このメイド……後で忠誠の方向が変わりそうな気がする(゜ω゜)
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