第1話 異世界とメイド
最初に強さを求めた理由は何だっただろうか?
賢悟はそれを思い出せない。
喧嘩に勝ちたかったから?
祖父に認められたかったから?
安っぽい自尊心を満たすため?
賢悟はそれを思い出せない。
強さをはぎ取られてしまった今でも。
●●●
「おはようございます、賢悟様。起きてくださいませ」
淡々とした清涼な声が賢悟の意識を揺らし、覚醒を促す。
「ん、あ……」
二度寝した甲斐もあってか、微睡みが後を引くことなく、賢悟はすんなりと体を起こして意識を覚ますことが出来た。随分と頭もすっきりとした気分の良い起床である。
目を覚ました瞬間、己でない少女の体が見えていなければの話だが。
「…………ジーザス」
寝る前に神を呪ったばかりだというのに、早々に神に助けを求める言葉を吐く賢悟。基本的に賢悟は神の存在を信じていないので、直ぐに助けを求めたり呪ったりするのである。どの道無意味な悪態なのには変わりないが、人間ってこんなものだ。
「賢悟様、お目覚めはいかがでしょうか?」
「近年稀に感じたことのない最悪な気分だぜ…………で」
じろり、と賢悟はベッドの横に居る人物を睨む。そこには、メイド服姿の少女が居た。銀色のショートヘアで、無表情で愛想の欠片も無い少女だった。ついでに、胸も無かった。背丈も、年頃の女子の中でも低い方であろうと一目見ただけで分かる。ただ、容姿だけは賢悟の現在と同じほどに美しかった。特に、宝石を思わせる赤き双眸が。
「お前は誰だ?」
「私はリリー・アルレシア。賢悟様のお世話を言いつけられているメイドで御座います」
銀髪のメイド――リリーは、そう言うと、ぺこりと行儀よくお辞儀をして見せる。
「世話係? つか、お前は俺に何が起こっているか分かってんだよな? 体が違うってのに、俺の名前を言い当てているってことはよぉ?」
「はい、その通りでございます。納得いくかどうかはわかりませんが、主人より誠心誠意、ご説明するように命じられていますので。ですが、まずは着替えの方を――」
「いや、いい」
近づこうとするリリーを手で制し、賢悟は剣呑な口調で言う。
「まずは簡潔に俺の質問に答えてくれ。たった一つだけでいいんだ。答えてくれりゃあ、着替えだろうが、身支度だろうが喜んでやってやる」
「……はい」
賢悟にとって現状は疑問だらけだ。
出来ることなら、質問攻めにして少しでも安心感を得たいと思っている。だが、それより前に、一番肝心な事だけをリリーに問いかけた。
「これはお前らの所為か?」
「はい、そうでございます」
無表情に断言したリリー。
躊躇うことなく、悪びれる様子すらなく、淡々と『賢悟の異常は自分たちの所為である』と認めたのだ。
「そうか」
その答えを聞いて、賢悟は納得した。
だから、リリーという少女は賢悟の名前を知っていて、肉体が変わっていたとしても、己の名前を呼ぶことが出来たのだと。
「わかった、着替える」
「ありがとうございます。さしあたって、まずは洗顔と歯磨きをしていただきたいので、洗面所にご案内いたします」
賢悟はリリーに案内されるまま、部屋を出て洗面所へと歩いていく。
洗面所へ続く途中の廊下もまた、部屋と同じように高級感が漂う物だった。赤いカーペットが敷かれた廊下など、賢悟は生まれて一度も歩いた試しがない。加えて、廊下の途中に掛けられた絵画も、絵の価値がわからない賢悟でも妙な迫力を感じる。
最高級のホテルか、あるいはどこぞの宮殿か、貴族の屋敷だと言われても、いや、そう言われた方が納得する造りだった。
「…………ん?」
「どうかなさいましたか?」
「あー、多分気のせいだと思うんだが、窓の外にこう……赤いドラゴンっぽいのが飛んでいるのが見えたんだが?」
「ええ、今日はドラゴン定期便がやってくる日なので。しかし、レッドドラゴンとは、随分とセキュリティに気を使っている会社ですね」
「おし、気のせいだな、わかった」
賢悟は、自分の体が美少女になっているだけで処理能力の限界に達している。なので、移動中に見た光景は気のせいだと自分を誤魔化すことに。
似たような状況を良く漫画やネット小説などで、暇つぶしに呼んでいたから、賢悟も薄々予想は付いているのだが、まずは一つ一つ片付けていこうと全力で目を逸らしているのである。
「えっと、洗顔フォームは……」
「こちらの最高級エクシクル成分五十パーセントの物をお使いください」
「…………うわ、爽快感と肌のプルプル感がパネェ」
「歯磨き粉はミント、ライチ、ストロベリー、オジジーナと味の種類がありますが、どれにしましょう?」
「ミントで。何だよ、オジジーナって。怖すぎる」
チューブから出してみたら、虹色の輝きを放っていたという、オジジーナ味の歯磨き粉。
賢悟はとりあえず、コンビニで新作の炭酸飲料が出ても冒険せず、グレープ味とかに落ち着く保守タイプなのである。オジジーナなど、もってのほかだ。
「では、髪の手入れをしますので少々お待ちを」
「いや、別にいい」
「髪の手入れをしますので、少々お待ちを」
「…………わかったよ」
リリーにとって賢悟の体の髪を手入れすることは、譲れない何かであるらしい。
髪を丁寧に櫛やら、ドライヤーのような何か(コードやコンセントが見当たらない)で、手入れされている間、賢悟は奇妙な気分になっていた。なにせ、髪の手入れなどはほとんど自分で行い、長くなったら理髪店で適当に短く切るだけのサイクルをしていた男だ。ここまで、誰かに髪を大切に扱われるという体験自体が、初めてなのである。なにせ、普段は髪を長くしていたらこれ幸いと喧嘩の際に掴まれてしまうので。
「お待たせいたしました。では、ドレスの準備を致しますので部屋に戻りましょう」
「…………ドレス?」
「はい」
「…………ドレスかー」
しばらく沈黙した後に、賢悟は力強く言った
「スカートは嫌だ。ジャージで」
「ジャージはございません。スカートの物しかありません」
リリーは無表情であっさりと却下した。
「…………」
「…………」
「せめてデニムとかで」
「スカートしかございません」
結局、部屋に戻るまで二人は言い争っていたが、本当にクローゼットの中にパンツが一つも無いので、賢悟は渋々ドレスを着ることになったという。
●●●
あるファンタジーな世界に、エリ・アルレシアという少女が居た。
エリは見目麗しく、魔術の才能に溢れていたが、その美点を台無しにするほどに性格が最悪だった。仮に邪悪という存在があるのなら、間違いなくエリがそれだろう。
根暗で陰湿で、それでいて世界中を憎悪しているような少女。最悪なことに、才能だけは有り余るほどにあった。そんな少女が世界破壊爆弾のような恐ろしい代物を、己に才覚のままに創り出すのは時間の問題だった。恐らく、エリはどのような環境で育ったとしても、同じように世界を壊そうとするし、己の才覚を邪な方向にしか使おうとしないだろう。
そんな救いようのないクズで邪悪なエリだったが、とある時、『東の魔女』と呼ばれる存在から『お前、世界の害悪だからとりあえず死んでおけよ』と呪いを受けてしまった。呪いの内容は、一年以内に真人間にならなければ絶命するというシンプルかつ凶悪な代物である。
なんとかエリはかけられた呪いを解こうとしたが、三日で諦めた。魔術の天才のエリとはいえど、現代からほとんど失われた呪術……しかも、それを極めた『東の魔女』の呪いを解くことはできないと悟ったのである。ちなみに、真人間になるという選択肢は、一生呼吸するなと言われているのど同じなので、最初から有り得ない。
なので、コロンブスの卵の如く、発想を変えてみたのである。
「肉体が呪われているのなら、その肉体を交換すればいい、ねぇ? んで、その肉体交換にわざわざ俺を選んだ理由は?」
「賢悟様の肉体が、エリ様の魂との適合値が一番高いからです」
半場強制的に黒衣のドレスに着替えさせられた賢悟は、眉を顰めながらリリーから詳しい状況説明を受けていた。
「ちなみに、異世界の住人を選んだ理由は、『東の魔女』からの追撃を失くすためです。もしも肉体交換が魔女に気付かれた場合、今度は魂が腐れ落ちる呪いをかけられるとエリ様は推測していたので」
「…………そりゃまた、ご苦労なことで」
状況説明を受けた結果、賢悟が辿り着いた結論は一つ。
これは完全に拉致であり、加えて、同情が一欠けらも湧かないほど一方的な事情による理不尽を受けたのだと。
「言いたいことは山ほどあるが…………その一年以内に真人間にならないと死ぬ呪いは、まだ継続しているのか? 真人間ってほど上等じゃないのは自覚しているが、少なくとも、お前の主よりはマシな存在だと思うんだが」
「呪いを受けた時の肉体と魂が異なっているので、どれだけ賢悟様が善人であろうが、呪いは解除されません」
「…………残りのタイムリミットは?」
「今日も含めて、後三百四日ほどです」
「ファ●キン」
悪態と共に、賢悟は深く、深く息を吐いた。そうでもしなければ、気でも狂ってしまいそうだったからだ。
「…………つーかよぉ、その『東の魔女』って奴も、随分と杜撰な呪いをかけやがったなぁ、おい。魂で真人間かどうか判別する呪いをかけている癖に、魂の交換が抜け道になっているとか、馬鹿じゃねーの?」
「この場合、エリ様が天才なのです」
リリーはどこか誇らしげに胸を張って説明した。
呪いは完全に解読できなかったが、エリは多少なりともその呪いを誤魔化す手段を創り出していたとか。おまけに、異世界間の移動、及び魂の交換を行ったのはエリ自身では無く、エリが召喚した悪魔という存在だった。
「悪魔召喚とは、世界中を探してもまともに使える者が両の指にも達しないほどの、難しい召喚魔術です。エリ様はそれを成功させ、己の魔力全てと引き換えに、悪魔と取引を行ったのです。賢悟様、貴方の体とエリ様の体を取り換えて欲しいと」
「用意周到だったわけか、くそ、失敗すればよかったのに」
無表情ながらも誇らしげなリリーから視線を逸らして、項垂れる賢悟。このままだと、衝動的にリリーの顔面を殴り飛ばしてしまいそうだった。
「くそが、本当に苛立ちが止まらねぇけど、大体、俺がこうなっている理由は分かったよ。ついでに、ここがわけわからんファンタジー世界だってことも、な」
賢悟としては信じたくない限りなのだが、現実として己の体が美少女に入れ替わり、空をドラゴンが飛んでいるところを見れば、嫌でも理解させられてしまう。
「これでも賢悟様の世界と私たちの世界は近似した世界ですよ。相違点は、ただ、『科学』で発展したのか、『魔術』で発展したかだけ」
「大本からして違うじゃねーか」
「ですが、発展方向は似通っているので、この世界にはテレビも車も存在します。比較的早く世界に馴染むことが出来るでしょう」
「んで、大人しく一年後に死ねってか?」
じろりとリリーを睨んで、賢悟は言葉を続ける。
「大体、お前は何でここに居る? お前はどうしてエリ様と一緒に、俺の世界へ行っていない? そうでなくでも、わざわざ拉致した相手の前でご丁寧に説明してくれるだと? なんだ? お前は俺に殺されたがってんのか? あぁ?」
賢悟の言葉も無理はない。
いきなり異なる世界に拉致された上に、肉体は一年も経たずに死んでしまう少女の物。加えて、目の前には拉致の共犯者と思しき人物が目の前で懇切丁寧に、己の犯罪について説明してくれる。この状況で、怒るなという方が無理だ。
「私を殺したい、と仰るならば、どうぞ」
「あん?」
だが、リリーは賢悟の怒りに晒されても、変わらず無表情で言葉を紡ぐ。
「私はエリ様と共に異世界に行くことは許されませんでした。悪魔へ渡す対価が間に合わなかったそうです。なので、エリ様からは『可愛そうな賢悟君の相手をしてあげてよ』と命令されました」
機械仕掛けのように、淡々と賢悟へと告げる。
「なので、私は貴方のメイドです、賢悟様。死ねと命令されれば死にましょう。私を殺したいのならば、どうぞ、私は抵抗しません。それとも、やはり凌辱してから殺しますか? 悲鳴を上げる演技がご希望ですか? それとも痴女のように喘ぎ立てましょうか?」
それはまさしく人形だった。
主の命令を遂行することを至上とする。それ以外の目的は持たず、ただ、機械的に命令を実行するだけの奉仕存在だった。
「…………お前、頭おかしいのか?」
「正気か狂気かの判断は自己では不可能です。どうぞ、賢悟様が判断なさってください」
「…………」
賢悟はしばらく沈黙した。
リリーの異常性に圧倒されたわけでは無い。この程度に頭のおかしい人間だったなら、元の世界でも賢悟はいくらか殴り合ったことがある。沈黙したのは、ただ考えをまとめるためだ。
己が何を為すべきか、考えを形にするためにだ。
「ハサミを貸せ」
沈黙の後、賢悟は開口一番にリリーへそう言った。
「はい、こちらに」
リリーは躊躇うことなく、部屋の引き出しからハサミを取り出して、賢悟へと手渡す。力を込めて突き立てれば、人の喉を破ることも可能なほど、無骨なハサミだった。
「ふん」
ハサミを手渡された賢悟は、ジャキン、ジャキン、と切れ味を確認するように何度も動かし、そして、
「俺のメイドとほざくなら、文句は言うなよ?」
「ええ、もちろんです」
躊躇いなくその鋭い刃を振るった。
ジャキン、と思い切り――――『己の白髪』を切り捨てた。
「…………え?」
呆けたように目を丸くするリリーの目の前で、賢悟は容赦なく己の髪を切り捨てていく。それは散髪というよりも、ただ、無造作に髪を短くしているだけの動作だった。
ジャキン、ジャキン、とハサミが鳴る度、美しい白髪は散るように落ちていく。
「何を、なさっているのですか?」
「見て分かんねぇか? 髪を切ってんだよ。髪が長いとウザったいからな」
リリーの問いかけに、当然だと言わんばかりに賢悟が答えた。
髪が長いから、切る。その思考はリリーのそれよりよっぽど分かり易くて単純である。理に適っていて、止める必要のない当たり前の行為だ。なにせ、己の髪を己が望んで、切っている。それをどうして止める道理があるだろうか?
「…………おやめください」
だが、それでもなおリリーは賢悟へ制止の言葉を投げかけた。
「あぁん? なんでだよ? 文句は言わないんじゃねーのか?」
「髪を切りたいと仰るのなら、私がやらせて頂きます。賢悟様がやるより、綺麗に散髪することが可能で――」
「うるさい、黙れ」
ジャキン、とハサミを鳴らして賢悟はリリーの言葉を切り捨てる。
「お前は俺のメイドなんだろ? だったら主人のやることに口を出すなよ。別に、お前を殺そうとしているわけじゃねーんだ。ただ、自分の髪を自分で切るだけだ。多少不格好になろうが、俺は全然構わない…………わかったか?」
「…………っ」
初めて、リリーの無表情が揺らいだ。
無機質だったはずの瞳に、不安と怯えの色が彩られる。
「おいおい、なんだよ、それは? なんだか不満そうだなぁ、おい。お前の主人はお前と、この体を捨てたんだろ? どっちも俺の物になったんだろ? お前らが望んで、俺に押し付けたんだろうが」
だから、と言葉を次いで賢悟はハサミを構える。
鋭い刃を、己の手の甲へと突き立てんと、ハサミを持った右手を大きく振り上げた。
「お前が丁寧に世話をしているこの髪も」
そして、一切の躊躇いすら感じさせず、賢悟は刃を振り下ろす。
「この気持ち悪い体もな!」
「――やめて!」
ハサミの刃が手の甲に突き立てられる直前、飛びかかるようにしてリリーが賢悟の右腕を抑え込んだ。
「やめて……やめて、ください」
震える声でリリーが懇願する。
がっちりと、賢悟の右腕を離さないようにしっかりと抱き付いた状態で、縋るように声を張り上げた。
「なんでもしますから、どうか……どうか、その体を傷つけないでください……」
それは機械仕掛けの人形でも、無表情メイドでもなく、一人の少女としての懇願だった。仮面をかなぐり捨てて、大事な人の体を守ろうとする、愚かなまでに従順な少女の姿だった。
「お願い、します……」
リリーは両頬を流れる熱い滴も構わず、何度も言葉を繰り返す。
「お願いします、どうか、どうか……」
祈るように、呟く。
「…………ちっ」
何度目の懇願だっただろうか? 賢悟は収まらない苛立ちを隠さず舌打ちをし、けれど、右腕から力を抜いて、ハサミを手放した。からん、とハサミが床に落ちる硬質な音が、部屋に響く。
「だったら、最初からそう言えよ。無感情ぶって、誤魔化すな」
「…………はい」
賢悟は最低で最悪の気分だった。
こんなクソみたいな気分は、おぎゃあと生まれてから初めてかもしれない。それほどまでに、賢悟は今の状況が気に入らなかった。
何も抵抗できずに、相手の思うがままにされた自分。
自分勝手な理由で、タイムリミットの差し迫った体を押し付けた少女。
主に捨てられ、なおも主の肉体に拘って泣くメイド。
全てが、最悪だった。
「ったく、マジでクソだなぁ、おい」
それでも、這い上がるしかないのである。死にたくなければ、動くしかない。
「仕方ない…………やるしかねぇよな、まったく」
「うぅ……」
「あぁもう、泣くな! はいはい、俺は悪くないが、意地悪が過ぎたな! こんちくしょう! これだから、女の涙は嫌いなんだ!」
だからまず、メイドの頬を流れる涙を拭うことから始めることにした。
今、賢悟に出来るのは精々、それぐらいしかなかったのだから。