九十六、悲劇(後)
ニアさんが語る幼少期のアリスは……正直、今のアリスとさほど変わらなかった。
とにかく天真爛漫で、好奇心旺盛。破天荒なことをしては大巫女様に怒られて凹んで、でもすぐに立ち直ってしまう。
そして――巫女たちの誰よりも、光の精霊に愛される。
そんなアリスと、ぼっち気質なニアさんとの接点はほとんどなかった。
というより、ニアさんはアリスのことを意図的に避けていた、らしい。
「わたくしとあの娘は、相性が悪いのです。出会ったときからずっと……」
「もしかして、喧嘩でもした?」
「いいえ、そのようなことはまったく! あの娘はわたくしの顔も覚えていないと思います。大神殿でともに過ごした時間も短いですし……」
冷静な語り部の仮面が剥がれ、どこかバツが悪そうに呟くニアさん。
その行間から、僕は隠された本音を読み取ってしまう。
――劣等生だったニアさんは、水の精霊の力を見せつけたことで、親代わりである大巫女様から特別な愛情をもらった。“無限の器”候補として期待された。
しかし、後からやって来たアリスにあっさりその座を奪われてしまったとしたら……。
「うん、ニアさんの気持ち、なんとなく分かる気がする」
「……もちろん、辛いばかりではありませんよ? あの娘の力は認めていますし、感謝もしております。ただそれ以上に、罪悪感が」
「罪悪感?」
「わたくしは“罪人”です。何もかもを知りながら、あの娘にすべての責任を押しつけて逃げ出した、できそこないの卑怯者……」
そんなに自分を卑下しなくても、という慰めの言葉は、胸の中で呟くにとどめた。
今の僕は、懺悔を受ける神父様だ。
縋りつくようなニアさんの眼差しを受け止めながら、僕は傾聴に徹する。
「そもそも、水の精霊に好かれる私と“光”を身にまとうあの娘は、相容れない存在でした。……水とは光の届かない地の底から湧き上がるもの。死者が土の中に埋められることでも分かるように、地下という場所は冥府の領域となり、女神の力が及びません。そのため一部の神官には、水の精霊とは死を招く不吉なものという認識があるようです」
なるほど、と僕は頷く。
僕が知っているメジャーな精霊――光、風、炎、植物は、すべて地上に存在する。土の中にあるのは、それこそ木の根っこくらいか。
太陽を『女神の化身』として崇めているこの国で、水の精霊に好かれたニアさんは完全に“異端”だった。
「同じ巫女といえど、契約する精霊によって立場は大きく変わります。もしわたくしが王都を逃げ出さなければ……水の精霊と正式に契約し、そのまま大神殿に留まっていたら、神官たちから『不吉な巫女』として隠避され、地下牢の罪人を看取る役目を担っていたはずです」
悲しげに目を伏せ、うつむいてしまうニアさん。
脳裏を過るのは、ローズさんが捕えられていた神殿の地下牢だ。
死臭漂うあの場所がニアさんに相応しいなんてとうてい思えない。水色の霧に包まれた彼女は、こんなにも綺麗なのに……。
膨れ上がった苛立ちを抑えきれず、僕は問いかけた。
「でも、水は土の中だけじゃなくて地上にもあるだろ? それこそ雨とか霧とか、川も海も。そんな理由で水の精霊を異端視するなんて馬鹿げてる」
「大巫女様もそうおっしゃいました。水の精霊とは、空と大地を行き来し、女神と冥府を繋げるもの――魂の輪廻を担う存在なのだと」
「じゃあ別に、ニアさんが遠慮する必要はないんじゃないの? 堂々としてれば」
「……本当に、そうできればよかったと思います。しかし、未熟なわたくしは過ちを犯し、結局あの場所から逃げ出すことになりました」
「過ち?」
「はい……たぶん当時のわたくしは、限界まで追い詰められていたのだと思います。あの娘が現れて、大巫女様にもっと認められなければならないと焦りを感じて……だから精霊に力を貸してもらえるよう頼みました。『正式な契約を交わすまではいけない』と、きつく言いつけられていたにも拘らず……」
暗く沈んでいく声色。陰りを帯びる銀の瞳。
ニアさんは、道を踏み外していく過去の自分を嘲笑うかのように、冷たく言い放った。
「ある夜のことです。水の精霊に導かれ、暗闇の中を彷徨っていたわたくしは、いつしか冥府の扉の前へたどり着いていました。そして『力が欲しいなら扉の向こうへ行け』と命じられました。……わたくしは行きたくないと訴えたのに、精霊は許してくれなかった。契約を交わしていない精霊の“善意”は、ときに残酷な仕打ちとなることを知りました」
伏せられた長い睫毛が、青白い頬に影を落とす。
僕自身も、精霊の無邪気さや残酷さは良く分かっているつもりだ。神気の霧であやうく死にかけたことを思い出し、胸が締め付けられるように痛む。
それでも、過去を変えることはできない。
幼いニアさんが対峙した、その扉の向こうにあったのは――
「ユウ様にはもうお分かりでしょう? 冥府の扉……それは『後宮』の扉でした。その先に足を踏み入れたわたくしは、過去を思い出してしまったのです。目隠しが解けるように、何もかもを」
これがニアさんを襲った“悲劇”だった。
洗脳が解けたニアさんは、優しい嘘の世界から放り出された。
そして、箱庭を巣立っていった娘たちの末路を――大巫女様でさえ知らない深淵を覗いてしまった。
「水の精霊により気配を消す術をかけられたわたくしは、誰にも気づかれぬまま、陰惨な地獄を歩き回りました。最後にたどり着いたのは、後宮の地下です。そこには死を待つことしかできない、心の病に侵された娘たちが軟禁されていました。かろうじて生き延びられていたのは、彼女たちを慕う光の精霊が寄り添っていたためです。それなのに」
不意に声を途切れさせ、ニアさんは吐き気を堪えるかのように口元を手で覆った。
煌めく水の礫が、心配げに周囲をたゆたう。
水の精霊は、過去にニアさんを追い詰めたことなど覚えていない。覚えていたとしても決して悪気はない。そうさせてしまったのはニアさん自身。
自らが犯した過ちに立ち向かうべく、ニアさんは顔を上げた。
「恐怖に震えるわたくしに、水の精霊は囁いたのです。『光の精霊を奪い取れ』と」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
水の精霊の指示は、瀕死の巫女たちの命綱を奪うこと。つまり「殺せ」ということだ。
「わたくしも、薄々は感じていたのです。精霊たちは、より力の強い巫女との契約を望むことを。そして、魂が死の淵にある相手ならば、わたくしのように未熟な巫女であっても容易く精霊を奪い取れる……」
か細く震える声に重なる、アリスの無邪気な声。
以前耳にした一つの台詞が、頭の中にリフレインする。
『精霊たちは皆、それぞれが好きな相手にくっついているのよ。ユウの髪についている月の精霊さんも、ユウのことが大好きで、ユウを助けてあげたくて今ここにいるの。なのに横から私が『命令』したら、無理やり引き離すことになるでしょう? そんなの絶対ダメよ』
アリスは「精霊を奪われた相手はどうなるのか?」という問いに「ただ寂しくなる」のだと言っていた。いつも傍にいた、親しい友達と離れ離れになるような気分になると。
あと「人と“契約”した精霊を奪ったことはない」とも……。
思わせぶりな台詞の端々から漂う、禁忌の香り。
僕はぴしゃりと頬を叩き、余計な妄想を追いやった。ひとまずアリスの件は横に置いておこう。
「……それで、ニアさんはどうしたの?」
なるべく柔らかな口調で続きを促すと、ニアさんは涙を堪えながら首を横に振った。自身の無実を訴えるかのように。
「あのとき、水の精霊に従っていれば、わたくしは大巫女様や神官たちに認められていたかもしれません。光の精霊と契約し、人々の命を救う『治癒術師』として生きていくこともできたはずです。でも、どうしても無理でした。わたくしはただ真実に怯え、水の精霊に縋りつき、大神殿を逃げ出すことしかできませんでした……」
心の奥に隠し続けてきた、パンドラの箱を開いてしまったのだろう。ニアさんの瞳が溢れてきた涙で潤む。
新たな真珠が生み出されかけたそのとき、横から辛辣な声がかかった。
「――そこで終わりか?」
王子の挑発により、ニアさんは再び奮起。
手の甲で目元をグイッと拭い、先ほどまでとは一転、穏やかな笑みを取り戻して。
「王都を出たわたくしは、闇に隠れ、霧に隠れながら真っ直ぐ東へ――『聖都オリエンス』へ向かって旅を始めました。ユウ様は、なぜわたくしがこの街を目指したのかお分かりになりますか?」
突然のクイズに、僕は思いついたことをポロッと。
「未来樹?」
「えっ?」
「あっ……」
ヤバイ、と思ったときにはもう後の祭り。
王子が黒い笑みを浮かべながら「後で詳しく聞かせてもらおう」と囁く。ちょー怖い……。
「え、えぇと……わたくしがこの街を目指したのは、ここが『罪人の街』と呼ばれていたからです。母の命を奪い、姉妹を見捨てて一人逃げ出したわたくしには、相応しい場所ではないかと」
「ふーん。罪人の街、ね」
普通の市民や移民たちからすれば、それは『どんな罪も許される天国』という意味になる。
ニアさんにとっては、罪人に相応しい『死に場所』という意味。
対して、僕の見出した答えは――精霊術師を生贄に捧げる街。
「……すべては、女神様の思し召しってヤツか」
今、この街は異常だ。
無限の器であるアリス、その候補だったニアさん、偶発的に精霊術師となったノエルとマルコさん。
さらに一月後には、大巫女様までもがやってくる。
見えない糸に操られるように、続々と集まってくる精霊術師。これは女神の策略以外の何物でもない。
女神は“愛娘”たちに、いったい何をさせようというのか……。
思考の海へ沈んでいく僕の耳に、ニアさんの切なげな声が届いた。
「しかし、いくら水の精霊に守られようとも、所詮わたくしは世間知らずの小娘でしかありませんでした。旅は想像以上に厳しく、わたくしは道の途中で力尽きて倒れました。そして『できそこない』の身になるのですが……」
「ああ、最初に言ってた話だよね。それってどういうこと?」
「一言でいうなら、精霊との癒着、もしくは融合でしょうか」
「契約、とは違うんだね?」
「はい。疲れ果てた心は死を願うのに、精霊はこの身を護り続けようと抗う……精霊と正式な契約をしないままそのような関係が続くうちに、わたくしの魂は精霊と溶け合い、自分の意思では死ぬことができなくなりました。精霊の力はわたくしの命を繋ぎとめるためだけに費やされ、簡単な治癒術すら使えなくなってしまったのです」
「あー、マルコさんと同じパターンか……」
でも、ニアさんが『できそこない』って言うと反論したくなるけど、マルコさんなら納得。
と、若干鬼っぽいことを考えているうちに、ストーリーは着々と進んでいく。
旅の途中で行き倒れになったニアさんは、奴隷商に捕まってしまった。
精霊と同化し、光り輝く銀髪を持つ美少女だなんて、奴隷業界でもめったに見かけない『お宝』だ。
顧客は高値をつけて落札するものの、残念ながら精霊の加護が発動し、いかがわしい行為に及ぶことができない。
ニアさんはあちこちに転売され、最終的には望みどおり聖都オリエンスの貴族に買われることになった。
しかし、街の手前でいきなり堀へ突き落とされて大ピンチ!
そこに飛び込んだ正義のヒーローがこの僕!
……。
……。
「……なんか僕、余計なことをしたような気がする。ニアさんを護ってるのは水の精霊なんだし、堀の水くらい簡単に操って、自力で脱出できたんじゃ」
「いいえ! ユウ様が助けてくださらなければ、わたくしは溺れ死んでいました」
「え、なんで?」
「精霊との癒着が弱まったからです」
「というと?」
「あのとき、わたくしは希望を抱きました。どのような過去があろうとも、この街では罪を赦され、普通の市民になれると聞かされて……その希望は、死を願うわたくしの魂を救うのと同時に、肉体をこの世につなぎ止めようとする精霊の力も弱めました。つまり、わたくしは泥水の中で死ぬ運命でした」
「そっか、それなら飛び込んで良かった」
「はい、ユウ様は命の恩人です!」
明るく言い放ち、パッと花開くように微笑んだニアさんは、女神でも巫女でもなく、ただの可愛らしい女の子に見えた。




