九十二、覚醒
ちゃぷん、とぷん……。
静寂に包まれる地下室に響く、微かな水音――それを生み出している人物は、まるで本物の人魚姫のようだった。
水球の中をたゆたう長い銀糸の髪。ゆらりと揺れる純白のワンピース。
今にも折れそうなほど細く白い手で、自らの膝を抱えて眠りにつくその様は、母親のお腹にいる赤子を彷彿とさせる。
どうして水の中で呼吸できるのか、そもそもこの水球は何なのか、なんて考えるまでもない。
彼女は人ならぬ者――精霊術師だから。
「人魚姫……いや、水の女神ウンディーネか……」
僕が出会ったときも、彼女は水に濡れていた。薄汚い泥水の中で溺れかけていた。
でも今はそうじゃない。
彼女を包む水は、彼女を守るために寄り添っているのだと分かる。
キラキラと光輝く水の膜からは、何人たりとも触れることを許さないという、水の精霊の意思を感じる……。
「この結界には、俺でさえ近づけん。コイツが自然と目覚めるのを待つしかない」
僕の思考を察したのか、背後から王子が声をかけてきた。
ポンと肩を叩かれて、フリーズしていた僕はようやく解凍。はぁっと大きく息を吐く。
そのため息に、老騎士とローズさんのため息が重なる。それだけで二人が彼女の身を心から案じていると分かる。
僕は気合いを入れるべく頬をピシャリと叩き、しゃんと背筋を伸ばして王子へ向き合った。
さまざまな疑問はひとまず後回し。まずは課せられた役目を――治癒術師として行動しなければ。
「いったい彼女に何があったんですか? なぜ彼女はこんなバリアで身を守らなきゃならない状況に?」
「ニアだ」
「へっ?」
「ニア。コイツの名前だ。俺が名づけた」
「はぁ」
「どうせなら名前で呼んでやってくれ」
「じゃあ……なぜニアさんは」
バシャッ!
突然響いた大きな水音に、ビクッと身震いする僕。とっさに水球を見やるも、そこには穏やかな眠りにつくニアさんがいるだけだ。
「……あの、なんか今、巨大な水槽の中でアロワナが跳ねたような音がしましたけど」
動揺のあまり目を泳がせると、硬直する老騎士とローズさんの姿が映った。動じていないのは王子のみ。
三人の視線を浴びた王子は、涼やかな瞳をキラリと輝かせると、親指を立てた手をクイッと水球へ向けて。
「もう一回だ」
「え」
「もう一回、コイツの名前を呼んでみろ」
「に、ニアさん?」
ビチャッ!
今度は水滴が飛んできた。どうやら僕の声に反応したアロワナが暴れて、水槽にヒビが入ったらしい。中に詰まっている水がぴゅーっと放射線状に飛んで、そこに小さな虹ができている。
……うん、まったく意味が分からない。
ぽーっと呆ける僕に対し、なぜか王子は満面の笑み。僕の頭をワシワシと撫でてくるその表情は、あたかも飼い犬の調教に成功したご主人様のようだ。
「いいぞ、坊。この調子で頼む」
「えっ、いいんですか? 本当に?」
「日暮れまでに帰らなきゃいけないんだろ? 時間は有効に使った方がいい」
「はぁ……分かりました、じゃあ遠慮なく」
ニアさんニアさんニアさんニアさん、とぶつぶつ呟く僕の声が、見えない刃となって強固な水槽をザクザク斬りつける。中のアロワナさんもビクンビクン反応して、最後は「うーん」と苦しげなうめき声をあげて。
――バキャッ!
と、水槽が割れた。
ダバッと溢れ出た謎の水は、キラキラ輝く光になってあっという間に蒸発。
魔法が消え、お魚からニンゲンに戻ったニアさんは、冷たい石の床に突っ伏したままピクリとも動かない。水球のキラキラ加工がなくなったその身体はあまりにも細く頼りなく、青ざめた肌からはまったく生気を感じない。
そんなニアさんを冷たく見下ろして、王子はボソッと一言。
「死んだな」
「ちょ、なっ……!」
「――喝!」
ブォンッ!
老騎士の短い叫び声に合わせて、強い熱風が吹きつけた。王子はサッと横っ飛びし、小柄な僕の背後に身を隠す。
「なにが『死んだな』ですか! 殿下はお嬢様の命をなんだと思っているのです!」
「あー、ハイハイ、スミマセンデシタ」
「ユウ殿、バカ殿下には構わず、どうかお嬢様を診てやってください。私と殿下はしばし席を外させていただきます」
ビシッと言い放った老騎士は、僕の背中にひっついた王子の首根っこを掴んで外へ引きずっていく。「アタシも行くわ! ニアちゃんの代わりに一発殴っとく!」とローズさんも退室。
パタン、とドアが閉められ、残されたのは僕と水死体もどきのニアさんのみ。
心細さを覚えつつも、僕は与えられた役目を果たそうと、勇気を振り絞って彼女に近づいた。
「えっと……ニアさん?」
「ん……」
もぞりと身じろぎしたニアさんの姿を見て、僕はガッツポーズ。
――よかった、死んでない!
っていうか、そもそも僕は無理やりここへ拉致されて、ただ彼女の名前を呼んだだけだ! なのに殺人未遂とか意味不明すぎる!
「ニアさん、起きてください。早く健康になってください。そうしないと僕のメンタルが持ちません」
恐る恐る手を伸ばし、僕は彼女の肩をツンツンと突いた。
するとニアさんは、目を閉じたまま唇を尖らせ、コロンと寝返りをうった。僕から離れる方向へ。
ツンツン、コロン。
ツンツン、コロン。
……なんか可愛いぞ、この人。
さっきは水の女神と見紛うほど神々しかったというのに、今のニアさんは「あと五分……」と訴える寝坊助の女の子にしか見えない。
実際、ニアさんは僕が思っていたよりずっと若いみたいだ。
初対面のときは奴隷扱いでボロボロだったし、今より痩せていたからよけい老け込んで見えたんだろう。ローズさんも「ニアちゃん」と呼んでいたし、もしかしたらまだ十代なのかも。
十代の女の子が――しかも精霊術師という無垢な乙女が、あのヘンタイ王子を相手にするのはさすがに荷が重すぎる。
「ニアさん、起きて。早くしないと王子が戻ってきて、またいじめられますよ?」
ビクン。
僕の声は、二度寝の欲求に勝ったようだ。
ニアさんは昼寝から無理やり起こされた猫みたいにギュッと四肢を硬直させた後、両手を持ち上げてふわぁっとアクビをして。
「んー……ご主人様……」
……。
……。
なんだか今、聞き捨てならない言葉を耳にしたような……。
フリーズする僕の前で、まだ寝惚け眼のニアさんが仰向けの姿勢からゆっくりと上半身を起こす。そしてもぞもぞと手足を動かし、めくれてしまったワンピースの裾を引っ張る。
アリスと同じく王都の大神殿出身であるニアさんも、足を露出するのは「はしたない」と大巫女様に怒られて育ったんだろうか。
それとも、別の誰かに躾けられた、とか……。
若干嫌な予感に苛まれつつも、僕は役目を全うしようと気合いを入れ直す。
――そうだ、今の僕に求められているのは『治癒術師』。ニアさんの身体に異常がないかを確認しなければならない。
「ニアさん、目は覚めましたか?」
「ハイ、おはようございます、ご主人様」
ハッキリとそう言い放ち、三つ指をついてスッと頭を下げるニアさん。日本人形のごとき清楚な面立ちと、やわらかな物腰はまさに深窓のご令嬢。
なのに、そこはかとなくエロい気がしてしまうのはやはり僕の心が穢れているせいなのか……。
ていうか『ご主人様』って……。
いや、そのことはひとまず置いておこう。スルースキル発動!
「あの、僕のこと分かります? 以前ニアさんが堀に落ちたときに、ちょっとだけ顔合わせたんですけど」
「もちろん分かりますわ、ご主人様」
「うっ……」
ダメだ、スルースキルが通用しない!
なぜだ? なぜご主人様なんだ?
これはチート翻訳機能の誤作動なのか? 本当は『貴殿』みたいな丁寧語なのに間違って伝わってるとか?
それとも、もしや王子が「ご主人様」と呼ばせている、とか……?
もしこの仮説が正しいとしたら、真性のヘンタイの称号は彼に譲らねばなるまい。そういえばさっき、ニアさんの名づけ親だと言っていたし、ご主人様と呼ぶよう調教している可能性は充分ありうる。
僕は気を取り直し、ニッコリと微笑んで。
「えっと、僕のことは『ご主人様』なんて呼ばなくていいんですよ? 僕の名前はユウといいます。だから普通に『ユウさん』とか『ユウ君』あたりで」
ただし、呼び捨てにするのはアリスだけの特権……なんてアホなことを考えかけた僕は、すぐさま非情な現実に引き戻される。
「ご無理をおっしゃらないでください。他の方ならばいざ知らず、わたくしがご主人様のことをお名前でお呼びするなど、おこがましくてできませんわ」
「……それって、僕がニアさんの“ご主人様”ってこと?」
「はい」
「王子じゃなくて?」
「まあ、あの方がわたくしの主だなんて、ありえません! わたくしのご主人様は、貴方……ユウ様、です……」
蚊の鳴くような声で僕の名を囁くや、ポッと頬を赤らめるニアさん。ふうっと力が抜けてその場にへたり込む僕。
……どうやら異世界チート魔術師な僕の物語に、『奴隷ハーレム』のタグが加わったようです。
※大変お待たせいたしました。ちょっとしたお知らせがありますので、よろしければ活動報告をご覧くださいませ。




