八十、妄執
久しぶりの『ぼっち旅』は、魔物じゃなく時間との戦いだった。
こつこつレベリングすることもなく、“アリス”の眠る廃墟の街へ立ち寄ったりもせず、食事や休憩でさえ最小限に抑えて、朝日の昇る方角へと真っ直ぐに突き進む。
走りながら意識したのは、魔力コントロールだ。
今までは全身へ均一に回していた魔力を、ランナーが鍛えるべき腹筋や背筋、脚へと集中させる。少しでも疲れを感じたら、荷袋に詰まった魔石でケアする。大量の魔石がみるみるうちにゴミと化す。
最初はぎくしゃくしていた関節や強張っていた筋肉――せいぜい“ゴブリンレベル”だった走りは変わり、ストロークがしだいに滑らかになっていく。
一昼夜を超えたあたりからは、意識せずとも身体が勝手に動くようになり、もはや自分がロボットなんじゃないかって気分になってくる。車とかバイクに変化するタイプの。
実際、それくらいのスピードは出ていたと思う。
すれ違った魔物が僕をロックオンできず、通り過ぎた後に「ピギャッ!」と悲鳴をあげていたから、車なんかよりもっと速いかもしれない。
かなりドーピングくさいけど、これぞ“チート”って感じで気持ちいい。
「この気持ち良さは、まさにランナーズハイ……っていうかアレだな。RPGのシナリオが中盤まで進んで、船とか乗り物を手に入れたときの感覚。今までちんたら歩いてたのがアホらしくなるような速さだもんなぁ」
出発してから三日目の夜。
五分ほどの小休憩で水分を補給しながら、僕は冗談めいた口調で独りごちた。「そのうち飛行艇も出てきたりして?」なんて……。
独り言にもさほど空しさを感じないのは、やはりあの街で過ごした濃厚な時間のおかげだろう。
物理的な距離ができたところで問題なし。僕は完全なぼっちじゃない、心はちゃんと繋がっているという自信があった。
特にアリスとは、別れ際に一つの約束をしていた。
精霊を通じての『ホットライン』――もしアリスの手に余るような事件が起きたときは、僕へ“虫の知らせ”を届けてもらうと。
『今まで私が困ったときは、精霊に大巫女様のところへ行ってもらっていたの。でもこれからは、ユウにも伝えてくれるようにお願いしてみるわ。……まあ、精霊たちはどの子も気まぐれだし、その情報がどこまで正しいのかは分からないけどね』
と、アリスは苦笑していた。その点に関しては僕もうんうんと同意。
ただ『邪竜に苦戦している』とか、大事な契約者であるアリスの身に危険が迫ったときくらいは、気まぐれな精霊もしっかり動いてくれるはずだ。
ちなみに大巫女様とアリスは、虫の知らせなんて曖昧なモノじゃなく、伝書鳩レベルのやりとりができるらしい。だから、アリスがこの街へ来てからの行動は、大巫女様の指示に沿って進めているとのこと。
……正直、かなり羨ましい。
遠距離で意思疎通できること以上に、アリスからそれだけの信頼を得ているってことが。
たぶん大巫女様は、アリスにとって唯一の家族であり、乾いた孤独を癒す一滴の水だったんだろう。
「これからは、僕がそうなれればいいのに」
見上げた夜空には、一筋の流星。
僕はその星に祈った。一滴だけじゃなく、とめどなく湧き出る泉になれたらいいと。
そのためには、どうしても『未来樹の実』が欲しい。
アリスがあの街の――いや、この世界の守護者というポジションから解放されることが一番の望み。
精霊術師なんて窮屈な枠をぶち壊して、アリスが生きたいように生きられる、平和で穏やかな世界になって欲しい。そんな世界は、きっと他の皆にとっても居心地がいいはずだ。
あとは、僕も不老不死とかじゃなくそこそこの長寿キャラにジョブチェンジしたい。
あと、できれば元の世界とこっちの世界を繋ぐ『道』を作って自由に行き来したい……。
「うーん、さすがにお願い三つは欲張りすぎかな? でも童話なんかだと、だいたい三つまで聞いてくれるもんなっ」
……なんて考えていた僕は、甘かった。甘すぎた。
◆
ぼっち旅を始めてからちょうど半月後。
ありえないほどのハイペースで進み続けた僕は、ようやく一番目の“罪人の街”へ到着した、のだが。
「あれ……なんか、身体がだるい……?」
快調に飛ばしてきたツケが回ってきたんだろうか。
崩れかけた街の城壁を乗り越え、一つ目の“墓標”である鉄球の脇を通り過ぎた直後。恒例となった『砂嵐』の最中で、僕の身体はいきなり電池切れを起こした。
全身を襲う倦怠感。鍛え上げたはずの足がもつれる。石ころを乗り越えることさえままならない。
まるで足首に重たい鉄の鎖が絡みついているかのように、重い。
「なんだよ、休憩時間にはまだ早いっつーの……」
明らかな異常事態にもかかわらず、そのときの僕は何も感じなかった。原因を考えることすら億劫だった。
だって、ゴールは目と鼻の先なんだ。この砂嵐を越えたすぐ先にある。
目の前にゴールテープが見えてるっていうのに、ここで立ち止まるランナーはいない。どうせ休むならゴールに着いた後でいい。
そんな常識を掲げ、重たい身体を引きずりながら進んでいると、次の異変は目にきた。周囲の景色がじわりと濁り始めたのだ。
砂が入ったせいかと両目をゴシゴシ擦っても霞みは取れない。むしろ悪化する。
しょうがなくそのまま目隠し状態で歩みを進めると、今度はきゅうっと肺胞が潰されるような痛みを覚えた。
ようやく僕は、頭の片隅で打ち鳴らされている警鐘に気づく。この状況は危険だと。
それでも、前のめりになった身体は止まらない。
「ちくしょー……なんなんだよ、これ……あと少しなのに……」
はぁはぁと荒い息をつきながら、なんとか前に進もうとするものの、なめくじみたいなスピードにしかならない。しだいに視界が歪み、眩暈と耳鳴りがひどくなる。
まさにRPGの毒沼を歩いている気分だった。
一歩ごとに生命力をガツンと削られる。魔石で治癒しようとしても、原因がはっきりしないせいか効果はない。
数分後、毒沼みたいな砂嵐の中央で立ち止まったまま、僕は一歩も動けなくなってしまった。
もはや両足で立っていることすら苦しい。
このままじゃ、ずぶずぶと底なし沼に落ちていくだけと分かっていながら、何もできない。
身じろぎするだけで意識が遠のく。命の炎が揺らいでしまう。
「なんでだよ……僕は、死なないんじゃ、なかったのかッ?」
――ザワリ。
それは悲痛な慟哭をも掻き消すほどの、不気味な耳鳴りだった。
僕の問いかけに応えるような、慢心を嘲笑うような……心を狂わせるおぞましいノイズ。
その奥に、僕は一つの“悪意”を見つけた。
キャラキャラ、という鈴が鳴るような音。虫の羽音よりもずっと小さい、たぶん僕の耳じゃなきゃ聴こえないボリュームの声。
たぶん、あの声の主は――
「……精、霊……?」
ぐらりと傾きかけた身体を必死で支え、僕は胸元を掻き毟るように掴んだ。それが今できる最善の策だと本能がジャッジして。
力加減のきかない僕の右手が、丈夫な綿のチュニックを斜めに引き裂く。むきだしになった肌に鋭い爪痕を残しながらも、僕は欲しかったモノを掴んだ。
握りしめた右手の中にあるのは――アリスの指輪。
指輪の表面から体内へすうっと涼風が吹き込み、身体に酸素が回った気がした。今にも途切れそうだった意識もわずかに戻ってくる。
「ヤバイ……マジで、死ぬ……」
ニセモノの全能感はとっくに消え失せていた。ゴールへの妄執も。
代わりに『溺れる猿が藁をもつかむ』なんてフレーズが頭の中にループする。これは陽花が良く口ずさんでいた曲だ。
今の僕は荒れ狂う大海原に身一つで飛び込んだ、まぬけな猿だ。
もしくは、初めて船を手に入れてはしゃいで、装備もろくに整えず危険な外海へ漕ぎ出してしまったRPG初心者。
いずれにせよ、ここで倒れたらもう二度と立ち上がれない……そう感じた。
誰にも知られず、墓標も立てられず、独りきりで朽ち果てることになると。
もしそうなったとしても、きっと皆は僕のことを信じ続けてくれるんだろう。『まあ“魔術技師”のやることだからしょうがない、アイツはちょっと遠くへ行っただけで、またひょっこり帰ってくるだろ』って笑いながら。
そして永遠に近い月日が流れても……あの塔の上で、アリスは僕を待っていてくれるんだ。
「頼む、アリス……あと少しだけ、力を貸して……」
朦朧とする意識の中で呼びかけた“アリス”は、指輪の持ち主の少女だった。
痩せ細ったその姿に、緑の瞳の可憐な少女が重なる。
アリスは困ったような笑みを浮かべて、沈みゆく太陽の方角を示唆した。「早く戻って」と言うように。
指輪から伝わる力を糧に、一歩、二歩と後退する。
身体を蝕んでいた“毒素”が少しずつ抜けていく。
気づけば呼吸は楽になり、白く霞んでいた視界もクリアになり……一番目の“罪人の街”の城壁へたどり着いたときには、全てが嘘みたいに楽になっていた。
それでも魂に刻み付けられた恐怖が、僕の身体をカタカタと震わせる。
僕を死の淵へと追いやったモノは、確かにそこにある。結果的に生き延びたものの、それはただラッキーだっただけ。
なのに僕は誤解してしまった。『死なない』ってことを、僕自身が強くなれたんだと勘違いして……かなりの無茶をした。
「ありがとう、アリス。今回はキミに助けられたんだな」
こわばった右手の指を一本ずつ開き、中から小さな指輪を取り出す。僕の小指にも入らないほど細い指輪は、あたかも役目を果たしたかのように黒くくすんでいた。
その黒ずみを見たとき、僕は『クエスト失敗』のわけを知った。
砂嵐の陰には、僕にとって最悪の罠が潜んでいたのだ。
「そっか……アレは、もう一つの“死の霧”か」
思い出すのは、一年前のこと。
聖都オリエンスを目指す旅の途中、僕は二つの霧を越えてきた。
一つ目は草原との境目にあった霧、そして二つ目は魔物たちの住む霧。
今回僕を追い詰めたのは、一つ目の霧だ。
魔物どころか小さな虫の一匹すら拒絶するあの霧に、真の名をつけるなら――『神気の霧』。
あまりにも清らかすぎる空気は、生物にとって最強の毒になる。
「未来樹は、瘴気と神気、二つの霧に守られてるってことか……そりゃ誰もたどり着けないわけだ」
ハハッ、という乾いた笑いとともに、胸の中へどろりとした暗い感情が溢れてくる。
僕は甘かった。
僕は未来樹に拒絶されたんだ。
行きは通れても帰りは通れない一方通行の霧は、まるで浄水器のろ過膜のよう。今の僕は『異物』として跳ね返されてしまった。
あのときと今との違いは、一つしかない。
「……魔力、か」
もう一度、黒ずんでしまった指輪を見つめる。これは僕の中の魔力を吸い取った証。
余剰魔力が一切ない『Fランク』の僕でさえこうなるってことは、この霧を普通のニンゲンが通り抜けるのは百パーセント不可能。
唯一の例外は、過去の僕だ。
魔力なんてものが一切存在しない世界から飛ばされてきた、赤ん坊みたいにまっさらなニンゲンならたぶん通れる。
もしくは。
「精霊術師……いや、それでも無理だろうな。この霧を越えられるのは、もっと特別な――」
“無限の器”。
その言葉が閃いた瞬間、僕は遠く離れた王都にいる、一人の人物とシンクロした。
彼女の存在意義を――無限の器を造るべく、千年もの時を費やしてきた“妄執”のわけを、確かに感じ取っていた。




