七十五、夢幻
ぽいっ。
と、アリスから無造作に渡された超高級リンゴ飴……もとい、一匹目の邪竜の魔石。
コイツはやはり他の魔石とは別格だ。
尽きることがまったく想像できない、触れているだけで勝手にパワーチャージされてしまうほど膨大な魔力はどろりと濃厚で、飴細工のように熱くとろけながら魂へと絡みつく。
キラキラと溢れ出る真紅の輝きに魅入られた僕は、本能的に舌先が伸び……。
……。
……。
――いやちょっと待て、僕!
さすがにコイツをペロペロするのはマズイ!
いくらアリスの下着という“聖布”によって浄化されたとはいえ、もとは神官長というクソ野郎の部屋に置いてあったものだ。
それに、もしかしたらヤツが毎晩ペロペロしてたかもしれないし……うん、絶対してる。なんか風の精霊さんがそんなことを言ってる気がする。
っていうか、その前に大きな問題が一つ。
「あのー、アリスさん、ちょっとお尋ねしたいことが……」
「なぁに?」
「もしかして、僕のことも臭いって思ってたりする……?」
おずおずと問いかけつつ、僕は足元に置いてある荷袋をチラッと気にした。
この中にはアリスが『ゴミ』と言い切ったリンゴ飴が二個収まっている。つまり臭気は二倍。
ゴブリン生活を脱出して以降、清潔感にはそこそこ気を使っていたというのに、まさかこんなところに臭いの発生源があったとは……!
ビクビクしながら結果を待つ僕に対し、アリスは大きな瞳をぱちくりと瞬かせた後、イタズラっ子みたいにクスッと微笑んで。
「うん、とってもクサイわね。耐えられないくらいよ」
「うっ……」
ちがうんだ、僕がクサイのは僕が持ってるお宝のせいであって僕自身はちょーキレイなんだ! 最近は毎日お風呂に入ってるし、シャンプーだってちゃんとしてるし、当然下半身もきっちりと!
という言い訳を並べようとした刹那。
「それくらい、ユウはすっごく――“いいにおい”」
「へっ?」
「大巫女様ごめんなさい、私もう我慢できませんッ!」
アリスは突然、またたびを見つけた猫みたいにジャンプ!
油断していた僕はそのまま床へ押し倒され、後頭部を強打!
「うう……痛い……」
残念ながら、ありとあらゆる攻撃に備えて肉体を鍛えまくった僕に弱点などなかった。
アリスが見た目と違ってすごく重たくて、今の突進が巨大イノシシレベルの攻撃だとしても平気。これが邪竜なら死んでるけど、イノシシならノープロブレム。それに風の精霊さんがクッションになってくれたっぽいし。
だから、痛いのは身体じゃなくて心だ。
僕は今、カーテンを閉めた薄暗い密室で、憎からず思っている女の子に押し倒されている。壁ドンならぬ『床ドン』されている。
どんなシャンプーも勝てないほど“いいにおい”がする豊かな緑の髪は、ふわりと揺れながら僕の喉元をくすぐる。深い森を思わせるエメラルドの瞳は、確かな熱を孕んで情熱的に煌めいている。
確かにアリスは、僕という存在に興味を持ってくれていると分かる。
なのに……空しい。
ただアリスは無邪気なだけで、まったく“その気”がないんだってことも分かってしまう。風の精霊さんがそう言ってる気がする。子作りの方法を知っているノエルの方がよっぽど大人だって。
いくら手を握っても、身体で触れ合っても――そこに心がなければ意味がない。
「ふぅ……」
小さなため息とともに、僕は一人賢者タイムをスタート。
握りしめたままだった魔石をぽいっと手放し、知らない天井をぼんやりと眺める。
一方、無抵抗の僕からあっさりとマウントポジションを取ったアリスは、花のかんばせをスッと近づけ、その可憐な唇を僕の額へ落とす――と見せかけ、伸び放題の前髪に鼻先をぐりぐりと埋めて。
くんかくんかくんか……。
くんかくんかくんかくんか……。
「……あのー、アリスさん?」
「ダメよ、じっとしてて。ユウには前回さんざん手を触られたんだから、今度は私の番よ」
「いや、別にいいけど……僕のことが臭くないんなら」
「そんなこと思うわけないわ。前にも言ったけれど、ユウって私が大好きな匂いがするの。王都の大神殿に生えてる大きな楡の木の根っ子の匂いよ」
「木の根っ子……うん、もういいや。このまま好きなだけ嗅いでてよ。僕ちょっと仮眠するから」
のっぺりとした天井へ向かって呟いた後、僕は全身の力を抜き、ヨガでいう『山』のポーズへ。
アリスの身体から伝わる温もりと、なでなでスリスリされる心地良さと、襲いくる睡魔に身を任せてそっと目を閉じた。
膝枕という野望は果たせなかったけれど、アリスが掛け布団になってくれるなら、まあ悪くない……。
なんてくだらないことを考えながら、張りつめていた心を解いて、スイッチが切れたみたいに意識を失って――
僕は、夢を見た。
◆
蒼穹。
眩い朝の光が、僕の身体を優しく揺り起こす。
それでも僕は起き上がることができない。四肢を投げ出し、顎を大地につく『腹這い』の姿勢で瞼だけをかすかに持ち上げる。
敏感な鼻先をくすぐるのは、野に咲く花の香り。
そこは青々とした草の茂る野原だった。
朝露に濡れた草の上をウサギが跳ね、小鳥や蝶が楽しげに飛び回るその草原の近くには、魚たちが集う小川がある。小川の先の森からは鹿や猪の足音、ときおりオオカミの遠吠えが響く。
穏やかな自然の歌声の中には、精霊たちの声も混ざる。
精霊とは爪の先ほどの大きさで、背中に羽の生えた不思議な生物。こちらが近づこうとしてもすぐに逃げてしまう。なのに気づけば傍に寄り添っている。
もちろん、ここにはニンゲンもいる。
彼らは常に精霊たちと触れ合っていた。目覚めを促す朝の光、涼を運ぶ風、喉の渇きを癒す水、スープを温める炎――すべてを精霊に頼る代わりに、彼らは無償の愛を与えた。
零れ落ちた愛は新たな生命をうみだし、役目を終えた身体は土へ還る。
連綿と続く魂の輪廻。
そして、生きとし生けるものすべて見守るように、静かに息づく巨大な樹木。
……胸が切ないような、苦しいような、寂しいような、だけどすごく満ち足りた気持ちで、僕はその楽園を眺め続けた。
決して忘れないようにと心に焼き付けた。
深紅の実を鈴なりにつけたその樹の下で――僕は消えゆく世界を見つめていた。




