六十六、右腕
夜の民。
この街を訪れた直後、王子がぽつりと漏らした一言がずっと心に引っかかっていた。
――なぜ王子は、禁句である『ネムス語』を口にしたのか?
そもそもネムス人は、王子が生まれるより遥か昔に鎖国を宣言し、西大陸へ閉じこもったままだという。それ以来、この東大陸においてネムス人の話はタブー。
条件だけ考えれば、王子がネムス語を発する理由は見あたらない。
でも、もしも西大陸から逃れたネムス人がいたとしたら?
王子は密かにネムス人と交流を持っているのでは……?
その人物のことを王子は『夜の民』と呼び、迫害されないよう匿う代わりに自分の仕事を手伝わせている。例えば王子が表立って動けないような案件を――逃げ出した精霊術師を探させたり、奴隷商人への根回しをさせたりしていた、とか?
……この仮説が正しいとすれば、僕と鉢合わせしたときのリアクションにも納得がいく。
王子にとって新たなネムス人――新たな“魔術技師”の来訪はきっと想定外だったに違いない。
実際あのとき王子は心底驚いていた。思わずネムス語を漏らしてしまうほどに。
ただ、僕の方に王子と敵対する意図がなかったこと、そもそも僕がこの街のことを何も知らないと察したから、あの場はすんなりと逃がしてもらえた。
というか、あえて僕のことを隊長に託したのかもしれない。
魔術技師の力は、権力と結びつきやすい。心の清らかさという枷に縛られた精霊術師と違って、魔術技師の能力は善悪を問わないし、むしろニンゲンの欲望を叶えるためにあるとも言える。
さらにやっかいなことに、魔術技師を『隷属』させることは誰にもできない。権力者が何かを強要しようとしたところで、あっさり逃げられてしまう。
だからこそ王子は善良な隊長を『お目付け役』に選んだ。僕が隊長にほだされ、この街の人たちを助けようと自発的に動けば御の字なんてことを考えて……さすがにそれは深読みしすぎだろうか?
まあ、あの時は王子もいっぱいいっぱいで、僕の方にかまっている余裕がなかった、という気がしないでもない。
逆に言うと、これからが王子のターン。
幸か不幸か、僕はアクセ屋のお姉さんと出会ってしまった。そして彼女を助け出すというミッションを通じて、王子との切れかけたパイプもしっかり繋がった。
この展開が王子の策略じゃないとしたら、もう運命としか言いようがない。
しかも、僕が密かに『救いの神』と呼んでいた人物が、王子の右腕的なポジションかもしれないって……。
仮説を検証するべく、僕は目の前でにこやかに微笑む男をジッと見つめながら尋ねた。
「あの、お兄さんは王子とどういう関係なんですか?」
「クロだ」
「クロ?」
「俺のことは“クロ”と呼んでくれ。最初は別の名前があったんだが、いつの間にか『お前はクロいから』ってそう呼ばれるようになった。まあ俺としてもこのあだ名は気に入ってんだけどな。つーかお前の黒髪はキラキラして綺麗だなぁ。触ってみてもいいか? いいよな?」
「はぁ……」
「よっしゃ!」
ワシワシワシワシ……。
美味しそうな餌を前に、辛抱たまらんといった顔をしたクロさんがグルーミングを開始。僕は「まあいつものことだし」とスルーする。
いや、よく考えてみると、初対面の相手にここまで踏み込まれたのは初めてかもしれない。
でも別に悪い気はしない。
クロさんは本当に嬉しそうっていうか、初孫を見るお爺ちゃんみたいな空気を醸し出してるし……それほど『仲間』に飢えていたんだと分かるから。
「うっわ、すげーサラサラ! これ何で洗ってんだ?」
「普通の石けんですよ。固形の」
「でもあれ使うと髪の毛ゴワゴワになるだろ?」
「ああ、たぶんそれは僕が使ってるお風呂の水が純水だから――普通の水と違って余計なモノが混ざってない、綺麗な水だからだと思います」
「ん、どういうことだ? うちの井戸水もちゃんと飲める綺麗な水だぞ?」
「えっと、井戸水って綺麗に見えても、すごく小さい不純物が混ざってるんです。もちろんその不純物は、飲んでも大丈夫なただの鉱物なんですけど。その鉱物と石けんって相性が悪いんですよ。石けんの油と鉱物が結合して髪に残って、それがゴワゴワの原因になるんです」
「へぇー。そいつは知らなかった。じゃあ、その純水ってどこで手に入んの?」
「別にどこでも手に入りますよ。“魔術”で生み出した水は、全て純水ですから」
まばゆい朝日の降り注ぐ中、トンカンという小気味よい音をバックミュージックに、初対面のお兄さんから頭を撫でられつつシャンプーの豆知識を披露する僕。
……うん、なんかおかしい。
もしや僕は上手く“質問”をはぐらかされたんだろうか。『質問返し』と『話題逸らし』の必殺コンボで。
つまり、この人は王子と同じくらいのクセモノ……?
僕の心にもやっとした疑惑が芽吹きかけたとき。
「――おっと、こんなところで油売ってる場合じゃないな。ユウ君、ひとまずこっちへ」
ひょいっと荷物のように抱え上げられ、僕はまたもや大きく息を飲む。
この細い身体のどこにこんな力があるんだろう。一応僕もそこそこ体重はあると思うんだけど……。
それ以前に、クロさんの動きはかなり人間離れしている。
僕より早く通行人の気配をキャッチできる耳と目、すぐさま動ける俊敏さ。
丸一年、魔物相手に修業した程度じゃとうてい及ばない身体能力の高さは、まさしくゴブリンを超えたオーガレベルだ。
いや、オーガっていうか、むしろこのキャラは……。
「ああ、そっか。クロさんは“忍者”なんだ」
「ん? 何の話だ?」
「いえ、なんでもありません」
小脇に抱えられたまま荷物のように運ばれた僕は、路地裏の廃屋に隠されていた幌馬車にポイッと放り込まれた。
かなり年代物の、そこらの商人から払い下げられたようなボロい馬車にもかかわらず、内装は小ざっぱりしていて至極快適。床には柔らかな絨毯が敷かれ、大きな姿見や衣装ダンスも置いてある。いかにも貴人を乗せていることをカモフラージュするかのようなつくりだ。
御者台に飛び乗ったクロさんは「念のためフードを被っとけよ」と指示するや、速やかに馬車を走らせた。手慣れた動きと、見た目を裏切る乗り心地の良さに、僕はついうとうとしてしまう。
隊長をはじめとして、今まで僕はたくさんの“イイヒト”に出会ってきたけれど、こんなにリラックスできることはなかった。いつだって僕は野生の獣みたいに気を張っていた。
――僕にはやるべきことがある。だから死ぬわけにはいかない、絶対に。
だけど、本当はとても疲れていた。こうしてゆっくりと眠りたかった。
そういえば、あのときも同じことを考えた気がする。アリスと出会って、膝枕で眠ったとき……。
「おいユウ君、着いたぞ」
ペチペチと頬を叩かれ、反射的にガバッと跳ね起きる。
まどろみに落ちていたのは十五分くらいだろうか。幌の向こうからは賑やかな街の喧騒が響いている。荒々しい言葉遣いからすると、どうやらまだ南エリアの中にいるようだ。
たぶんこの近くに、バジルが匿われている“真のアジト”があるんだろう。
しかし、どこへ連れて行かれるのか確認もせず本気で寝入ってしまうとは……フードも外れちゃってるし、思いっきりヨダレ垂れてるし……。
口元を拭いつつ「スミマセン」と頭を下げると、クロさんは笑いながら僕の頭をくしゃりと撫でた。別にアリスに膝枕されていたわけじゃないのに、あのときと同じくらい気恥ずかしい。
「悪いけど、この先は歩いて行かなきゃいけないんだ。つまり“素”を出すわけにはいかないってことだ。分かったかい?」
「ッ、はい!」
いかにも交渉ごとに慣れた、油断のならない商家の息子といった口調で囁かれ、僕は緩んだ心を引き締めなおす。
そして再びフードをしっかり被ろうとしたところ。
「その必要はない。キミが被るのはこっちだ」
ポスン。
ナチュラルに頭部へ乗せられたモノを見て、僕はピキッとフリーズした。動揺のあまり言葉が出てこない。正面に置かれた姿見が悲しい現実を映し出す。
縋るような思いでクロさんを見やると、蕩けるような笑みとともに「似合ってるよ、ユウちゃん」と……。
……。
……。
……僕が被らされたモノは、サラサラした栗毛ロングのカツラだった。




