五十、悪夢
女の子の部屋――それは僕の人生において全く縁のない、まさに夢のような存在だ。
小さい頃はよく陽花の部屋へ遊びに行っていたけれど、小学校の高学年くらいから「ユウ君は来ちゃダメ!」と言われるようになった。
それは「恥ずかしいから」とかそういうんじゃなく、単に足の踏み場もないほど散らかっているから……という残念な事実は、母親同士のネットワークですぐに知らされた。
なんせ陽花の趣味は、ラノベとフィギュアとプラモデル。その三つのキーワードだけで、どんなレイアウトになっているのかはだいたい想像がつく。
「いや、ああいうのは『女の子』って言わないんだ。本物の女の子の部屋は、ピンクでヒラヒラでふわふわなんだ……」
アリスの部屋は、いったいどんな感じなんだろう?
いくら塔の上とはいえ、大事な“お姫様”の部屋だし、広さはあまりなくてもコンパクトに可愛らしく仕上げてあるんじゃなかろうか。
「たぶんオフホワイトのカーペットが敷かれた上に、木製のローテーブルが置かれてて、その脇にはピンクのクッションが二つ、壁際にはアンティーク風のチェストとお揃いのドレッサーがあって、一番奥には天蓋付きのベッドがあって……」
と、めくるめく妄想を繰り広げる間にも、塔の先端が着々と近づいてくる。
月の視えない夜の塔はひどく暗い。視力強化されている僕でさえ、ランタンが欲しいと思うくらいだ。
それでも不安を全く感じないのは、長い螺旋階段の下から吹いてくる風のせい。
ときおり強く吹き抜ける疾風は、僕の黒髪をくすぐりながら上空へと消えていく。まるで心ごと洗われるような清涼感に、思わずため息が漏れる。
あれはきっと風の精霊。
精霊たちは僕がどのあたりまで上ってきたかを、こと細かにアリスへ伝えているのかもしれない。塔へ入って『完全結界』を解いてからあの風が急に強くなったし、彼らもちょっと興奮している気がする。
アリス自身も、そわそわしながら僕を待っているのかも……。
今にもてっぺんから「ユウ!」という声がかかるんじゃないかと、ドキドキしながら階段を上っていくと、突き当たりに天井板を兼ねる鉄の扉が現れた。
そこで一旦立ち止まり、深呼吸をしてクールダウン。
突然この扉がバカッと開いてアリスが落ちてくる……それに巻き込まれて僕も落下するという危険性を考慮し、天井板の真下じゃなく斜め下に立つ。
そして背伸びをしながら、コンコンとノックを二回。
……。
……。
……返事が無い。
もう一歩扉に近づき、ドンドンと強めに叩いてみたものの、やはり返事が無い。
あまり大きな音を立てて神官に気づかれてはマズイ。しょうがなく僕はその扉を開けてみた。
「おーい、アリス? 僕だけど……入るよ?」
分厚い鉄の板を押し上げつつ首から上を覗かせてみると――そこに広がっていたのは、想像していたのと正反対の光景だった。
……何も無い。
質素というレベルを通り越して、侘しいくらいモノが置いていない。むしろ物見の塔の方が、椅子や食料や防寒具が置かれているだけマシだと思える。
視界に映るのは、剥き出しの石の壁に石の床。全てがのっぺりとした灰色の世界。
そして、アリスの気配もない。
「うーん……ここはただの踊り場で、アリスの部屋はもう一フロア上とか?」
軽く首を傾げつつ、僕はその踊り場スペースへ降り立った。当然靴を脱ぐような場所じゃないから土足のままで。
床板となる扉を後ろ手に閉じ、天井をジーッと見つめたところで、平らな石の屋根しか見当たらない。隠し扉のようなものもなさそうだ。
もしや窓から出て行ったんだろうか?
僕はひとまず視線を下げ、直径五メートルほどの円形のフロアをぐるりと見渡して。
「――うぉっ!」
と、三メートルほど後方に飛び跳ねた僕は、背後の石壁に激突。もしここが城壁なら、下へ真っ逆さまだった。
「はぁ……マジびびった……」
扉の蓋が開く向きの逆側に、アリスがいた。
しかし、なんだか様子がおかしい。
白いカーテンのかかった窓の下、固い石の床に両足を投げ出して座り込み、人形のようにくたりと頭を垂れている。
「えっと……アリ、ス……?」
微動だにしないその姿を見て、一瞬心臓が止まりかけたものの……すぐに眠っているだけと気づく。
すかさず僕はアリスの傍へ。念のため顔の前に手をかざして呼吸を確認する。
手のひらに触れる息は、信じられないほど薄く儚い。コレは穏やかな眠りというレベルじゃなく、パソコンのスリープ状態に近い気がする。
そう診断する間にも、床板の隙間から上がってきた疾風はアリスの周囲をぐるぐると渦巻いて、深緑の髪をふわりと持ちあげる。
僕も精霊をサポートするべく肩を揺すってみる。ちょっと調子に乗って、柔らかな頬をつねったりペチペチと叩いたりして。
それでも休眠状態のアリスはノーリアクション。
「うーん、困ったなぁ……まあ邪竜の復活は明日だろうし、起きるまで待つとするか……」
アリスの右隣りに腰かけた僕は、もう一度この室内を見渡してみた。
窓とカーテンを除けば、本当にモノが無い。あるのはアリスの身体一つだけ。
前方へ投げだされた足の先には、たぶんアリスが武器として使っているだろう年代物の杖が一本。ゴブリンと間違えられたとき僕が殴られそうになったアレだ。
鷹の目チームの皆さんは、この部屋の窓もカーテンも普段は閉ざされていると言っていた。
つまり、アリスはここにずっと引き籠っている……?
「なんて、な……まさかそんな訳ないよな」
アリスにとってこの部屋はあくまで『別宅』なんだろう。今は邪竜の動きが活発だから、この塔で寝ずの番をしているだけ。
本当の部屋は、神殿と隣接する元王宮の中にある。
そこはお姫さまに相応しい優雅な空間だ。一流ホテルのスイートルームくらい広くて、内装はピンクでひらひらでふわふわで――
「ん……」
「っと、アリス? 起きたのか?」
僕の声にアリスは反応しなかった。ただ折れそうなほど細いその身体を僕へと持たれかけ、小さな頭をこつんと肩にぶつけてくる。
寝ぼけてるのかな、なんて微笑ましく思いながらその横顔を覗き込んだとき。
可憐な唇が薄らと開かれ、耳朶をくすぐる微かな囁きが届いた。
「ごめ……なさい……」
「……ッ?」
思わず息を呑む僕の目の前で、アリスは伏せていた睫毛を震わせて――つうっと、涙の雫を零した。
暗い闇夜にも拘わらず、その雫は光り輝く透明な宝石となって僕の肩へぽたりと落ちる。
そしてアリスは細い眉を苦しげに寄せながら、再び囁いた。
「……お……さん……」
僕はそのとき何もできなかった。
ただ身を固くして、アリスの小さな身体と『懺悔』を受け止めることしか。
深い眠りに囚われたままのアリスは、ポロポロと水晶のような涙を零しながら、全身全霊で“ある人”へ許しを乞う。
その相手は、アリスの世界には存在しないはずだった。
いや、もしかしたら夢の中でだけ会うことを許される相手なのかもしれない。
アリスの心が忘れてしまっても、魂は覚えているんだろう。彼女を誰よりも深く愛してくれるはずのあの人を。
だからアリスは、何度も何度も呟くのだ。
――お母さん、と。




