四、黒竜
僕が追い求めてきた『希望』が、目の前で壊されようとしている。圧倒的な捕食者の力で蹂躙されかけている。
それなのに、僕の足は地面に縫い止められたまま一ミリも動かない。
陽光に晒されて熱を帯びたはずの身体から、一気に血の気が引いていく。全身の毛穴が粟立ち、呼吸は乱れ、カチカチと前歯が打ち鳴らされる。
身体を操るコントローラーが壊れてしまったみたいだった。脳みそが「動け!」と命じたところで、全く言うことをきいてくれない。
――完全なパニック状態。
今の状況と比べれば、この世界へ飛ばされた直後の方がまだ冷静だった気がする。
当時の僕は“最弱”だった。何一つ情報を持たず、戦うどころか生きる術も知らない、生まれたての赤ん坊みたいな存在だった。
だからこそ、敏感に危険を察知した。
『あの巨大な“鳥”には絶対近づいちゃいけない』
本能が発した警告に従い、僕はすぐさま大樹の下を離れた。
あそこへ引き返せば――神様の実を一日一粒ずつ食べていれば、楽に生き延びられると分かっていながら。
なによりあの場所は僕が転移したポイントだ。ちゃんと調べれば元の世界へ繋がる“道”が見つかったかもしれない。
それほど大事な場所を、僕はあっさり捨てた。あそこへ戻りたいなんて一度も思わなかった。
つまり……僕は、逃げていたのかもしれない。
途中からは『罪人の街』を追いかけるという明確な目標を得たけれど、根底にあったのはまぎれもない恐怖心で……。
「だって、しょうがないだろ。あんなやばいヤツ、逃げるしかないじゃないか……」
気づいてしまった己の弱さに、打ちひしがれる余裕はなかった。
「――グギャルルァ!」
突然の咆哮に、ぐらりと大地が揺れた。
性能を高めすぎた鼓膜が悲鳴を上げる。僕はとっさに耳を押さえ、身を守るべく地に伏せた。
寂れた街道の先に大きな地割れが走り、まばらに生えた木々が倒れる。無垢な鳥たちが一斉に羽ばたき、空の彼方へ消えていく。
キーンという煩わしい耳鳴りの中、瞼が忘れていた瞬きを取り戻す。入り込んだ砂粒を追い出そうと大量の涙が溢れだす。
歪んだ視界の先には、深紅の瞳に苛立ちを滲ませる黒竜の姿があった。
「……アイツ、怒ってる……?」
僕を追い越したとき優雅に羽ばたいていたはずの黒竜は、今や鬱陶しげにバサバサと翼を振っている。
よく見ると、蝙蝠のような形をした翼の先に一本の矢が突き刺さっていた。きっと兵士が放ったものに違いない。黒竜の位置まではかなりの距離があるし、魔術を使って飛ばしたんだろう。
アレは僕がよくやる手口だ。
魔物にターゲットリンクさせるため、あえて行う遠隔攻撃。そして敵を挑発するための行為。
冷静さを失った獣を相手にするのは容易い。視野が狭まり攻撃が単調になる。特に接近戦へ持ち込むには手っ取り早い。
だけど……アイツに対してその作戦は、どうなんだ?
単調な攻撃一つで、あの街ごと破壊し尽くすほどのエネルギーを感じるのは、僕の杞憂なのか?
「っていうか、僕は、どうして――」
気づけば僕は、韋駄天のごとく荒野を駆け抜けていた。
つんのめるような前傾姿勢は、風の抵抗を最小限に止める、この世界で見出した最速の走り方。たった一歩で十メートル以上距離が進む。
繰り出す足はしっかりと大地を踏みしめているというのに、靴底から伝わる感触はやけにふわふわとしていて、まるで雲の上を歩くような気分だった。尖った石を踏んだところでその感覚は変わらない。痛みはとっくに麻痺している。
脳みそが「止まれ!」と命じるのを完全に無視し、僕の身体はまるでブレーキが壊れた車みたいに疾走する。
……最初から結論は出ていたはずだった。
あの竜がとんでもなく強いってことは、遠目に見るだけでも充分過ぎるほど伝わった。咆哮一つで大地震を巻き起こすなんて、完璧ラスボスレベルだろう。
だから、進むべき方向は逆だ。
今ならまだ逃げ出せる。ヤツがあの街を襲っている間に、霧の中へでも隠れればいい。僕はこんなところで死ぬわけにはいかないんだから。
それが一番正しい、賢いやり方だって、分かっているけれど――
逡巡する間にも、迫りくる五番目の『罪人の街』。
僕は黒竜へ向けていた視線を一旦外す。広角レンズの何倍もの精度で、一瞬にして街の全貌が取りこまれる。
五番目の街は、これまでの仮説を大きく裏切るような――強大な城郭都市。
見上げるほど高い城壁が、地平線の彼方まで果てしなく続く。その周囲には堀が巡らされ、街道の突き当たりには跳ね橋が下ろされている。
その橋は長年使われていないのか、板が腐り落ちて大きな穴が開いている。城門となる鉄扉も堅く閉ざされており、中の様子をうかがい知ることはできない。
しかし、状況は聴覚だけで分かった。
風に乗って届くのは――怒号、悲鳴、慟哭。
逃げ出そうとする人々の慌ただしい足音。馬の嘶き。車輪のきしむ音。パニックに陥った群衆が、向こう側の門へと殺到する姿がありありとイメージできる。
それらにプラスして、兵士の掛け声と武器が打ち鳴らされる音が入り混じり、まさに阿鼻叫喚、地獄絵図といった感じだ。
……僕は、その中に混ざろうとしている。自ら死を引き寄せようとしている。
我ながら呆れるけれど、しょうがない。どうしても逃げることができないんだから。
陽花にも「ユウ君ってホントお人好し!」と何度言われたことか。その性分は異世界へ来ても変わらないらしい。
――大丈夫、あのチート竜と直接戦うわけじゃない、避難を手伝うだけだから!
自分にそう言い聞かせながら、辿りついた街の城壁。
間近に見るその壁は、大量の魔石を費やして造り上げたと一目で分かる、重厚なものだった。
高さは約二十メートル。これだけあれば、巨大トカゲが後ろ足で立ち上がったとしても届かない。もちろん、僕が飛び越えるのもさすがに不可能だ。
次に下を眺める。長雨が続いたせいか、幅十メートルほどの深い堀にはたっぷりと水が湛えられている。
僕は腐った跳ね橋を、助走もつけずに軽々と飛び越えた。ただその先に立ちはだかるアーチ型の鉄扉は、素手で押したところでびくともしない。
「しょうがない、最後の手段だ」
荷袋から魔石を一つ取り出すと、僕は腰に挿した剣を引き抜いた。
魔石を強く握り締めながら、掲げた長剣を鉄扉の隙間へ向けて振り下ろす!
――ガキィンッ!
膨大な魔力を注ぎ込む『超強化』の魔術に耐えきれず、真っ二つに折れる鋼の刃。弾き飛ばされた切っ先は堀へ落ち、力なく水底へ沈んでいく。
迷いの霧でともに戦った頼りになる相棒は、最後に僕の願いを叶えてくれた。
一秒後、ギギギ……という耳障りな音をあげながら、両開きの扉が内側へと傾ぎ始めた。待ち切れずに蹴り飛ばすと、砕けた閂が鈍い音を立てて地へと落ちる。ついでに役目を終えた剣の柄も放り出す。
足元から響いた、ガチャンという金属音。
それを掻き消すほどの、大きなどよめきが湧きあがった。
発生源は百メートルほど先にある『第二の城壁』のさらに奥。市民が暮らす街の中だ。
と同時、天空へぐわりと立ち上る――炎の柱。
火元にいるのは当然黒竜だ。大きく裂けた口から炎を吐き出しては、深紅の瞳に愉悦を滲ませ、逃げ惑う虫けらをあざ笑うかのようにぐるぐると旋回している。
「くそッ……水!」
叫ぶと同時、僕は強烈な目眩に襲われた。一気に魔力を消費したことによる『魔術酔い』だ。
それでも魔石を放すわけにはいかない。絶対に。
握り締めた魔石がみるみるうちに色を失っていく。ぶち壊した城門の向こうからは、凄まじい勢いで水の柱が立ち上る。
大量の水はぐんぐんと空を昇り、中天で一塊りの水球になった後、地上を目指して落ちていく。
「――炎を消せ!」
未熟な魔術師である僕の命令にも、水球は忠実に応えた。赤々と燃える火柱は一斉にかき消え、細い煙がたなびくのみとなった。
ふうっ……と一息つく。
水の魔術を使う際は、空気中から純粋な水を生み出すより、近くにある水を利用した方が遥かに効率がいい。この戦法はトカゲに襲われて池に落ちたときに気づいたから、その点だけはあのクソトカゲに感謝するべきかもしれない……。
なんて、ぼんやりと考えていた僕の足元に、ふっと暗い影が差した。
ようやく僕は、自分の置かれた状況に気づく。サーッと血の気が引いていく。
慌てて周囲を見渡すと、視界に映るのは第二の城門へ続く道と、小さな検問所。それらの施設も使われなくなって久しいようだ。
たぶん僕が壊した門は、この街にとって『開かずの扉』だったんだろう。この方角には捨ててきた街と、魔物が跋扈する『迷いの霧』しかないし。
だから、僕の周囲には誰もいない。
住人たちの声や足音は、この門から遠ざかる方向へと移っていく。こっちへ近づくのはよほど肝が据わった一握りの兵士のみ。それでも二重の城壁の外までは現れない。
大勢の人が暮らす、『生きている街』へ辿りついておきながら、未だに僕は“ソロプレイヤー”のままだった。
「ホント、何やってんだろう、僕……」
見上げた空には、小山のごとき黒竜の姿があった。
水球をまともに食らったのか、黒光りする鱗から水滴をしたたらせている。全身から溢れでる魔力が瘴気となり、赤黒い靄となって立ち上る。
漆黒の翼を大きく横へ広げ、空中で“仁王立ち”した黒竜は、眼下の虫けらを冷たく見据えた。
激しい憎悪を孕んだ、氷の刃のごとき眼差しを浴びたのは……当然、僕だった。