四十二、混沌
街のほぼ中心にそびえ立つ、聖都オリエンスのシンボルである物見の塔。
頂上の展望スペースは、大人が三人入れば少し窮屈に感じるくらいの広さで、当然周囲にはしっかりと石垣の柵が組まれている。その高さは僕の胸元まであるし、誤って落ちることはないだろう。
……と分かっていても、やっぱり怖い。
階段を上りながら耐久性はきちんとチェックしたし、風が吹いても揺れないくらいがっしり作られているけれど、怖いものは怖い。
この恐怖心の理由は……柵の上に人が立っているせいだ。
コツコツと踵が鳴るごく普通の木靴を履き、ずるずると引きずるほど裾の長い法衣を着た女の子は、まるでダンスのステップを踏むように、横幅五十センチの石垣の上でくるんとターンして。
「それにしても、驚いたわ。まさかこんなところでユウに会うなんて」
ふわりと広がる純白の法衣と、風にたなびく深緑の髪。
どんよりした空と灰色の塔の中にあって、この色はとても目立つ。なんせ鳩の何倍も大きいし。
もし地上にいるギルマス氏からこの物体が視えていたら……まあ『魔術技師の企業秘密』ってことでごまかそう。
「ねぇ、もしかしてユウはここの兵士さんになるの? これから見張りのお仕事なの?」
「いや、今日はちょっと見学しにきただけ。アリスはどうしてこの場所に?」
「私は雨が上がったから、お散歩でもしようかなって」
「お散歩……」
「神殿の人には、外に出ちゃダメってきつく言われてるから、いつもは姿を隠してるんだけどね。風の精霊が『今日は大丈夫』って、この場所へ誘ってくれたの」
そう言って、石垣の上でまたもや華麗にターンするアリス。どうやらダンスのお相手は風の精霊のようだ。
僕は「そっか」と相槌を打ち、街の景色をぐるりと見やった。
東側はのっぺりとした霧の壁で全く面白みはないけれど、他の方角はかなりの絶景だ。一目見ただけで、この国が美しい緑に包まれた豊かな国だと分かる。
糸のように細い街道を辿った先、南側には『海洋都市クラルス』が、北側には『新王都』らしき大きな街が望める。その道を行き来する馬車の影がありんこのように蠢いている。
「ユウ?」
そして、僕が一番気に入ったのは西の方角だ。
遥か遠く、丸い地平線の先に広がる漆黒のフィールドは、たぶん海だろう。きっと晴れた日には中央大陸まで見渡せるはず。
たださすがにその先のネムスを見るのは無理っぽい……。
「どうしたの、ユウ。ぼーっとして」
……。
……。
……いや、別にアリスのことをスルーしたいわけじゃないんだ。ただちょっとアリスの動きを見てると背筋がゾゾッてするだけで。僕ああいうサーカスとか中国雑技団っぽいの苦手だし。あとさっきお茶飲んだし、ここトイレとか無いし。
「なぁに? 何か面白いものでも見つけたの?」
鈴が鳴るような声で呟き、石垣の上からぴょんと飛び跳ねたアリス。
着地点は僕の隣……ではなく、石垣にかじりついていた僕の頭のすぐ脇だった。
「あの、アリス、さん……?」
「この服ってやっぱり動きにくいわ。いちいち持ち上げなきゃいけないし……」
空中でふよふよ浮かんだままのアリスは、「よいしょ」とめんどくさそうに呟きつつ、ずるずる長い法衣の裾をたくし上げ、にょきっと伸びた二本の足を僕の肩の上へ乗せて……。
……。
……。
――二度目の肩車、キター!
しかも今回は半透明の“エア太もも”じゃない! ぴっちぴちの生肉! 超フレッシュ!
「んー、別に面白いものは何もないわよ?」
「……よく見てください、このまま見続けていれば分かります。僕にはすでに天国が視えます」
「えっ、本当? ユウには天界が視えるの? 女神様はいる?」
「その姿は視えずとも存在はハッキリと感じます。女神は僕のすぐ傍にいるのです。天国とは遠くにあるものではなく身近にあるもの。人の肌に触れてその温もりを感じた刹那、己の心の中に生まれる幸福に満ちた世界こそが“天国”なのです」
「ふぅん。ユウの話ってなんだか新鮮だわ。それも男神様の国の教えなの?」
「いえ、これは僕限定の宗教観であり、名づけるなら『新興宗教ボク教』とでもいうべき……あ」
ぴょんっ。
僕の髪をいじりながら説法を聴いていたアリスが突然飛び上がり、再び石垣の上へ――いや、石垣の向こうへダイブ!
「――アリスッ?」
「鳩よ! 鳩さんが来たわ!」
石垣の奥から、キャッとはしゃぐ声が聴こえた。
三秒後、あやうくチビりかけた僕の元へ、ふわふわと空を泳ぐようにして戻ってきたアリス。
純白の法衣と同じ色だから分かりにくいものの、腕の中には確かに一羽の鳩がいる。アリスのことが精霊術師だと分かるのか、丸い目をとろんとさせ、尖ったくちばしを胸へすりすりしている。
ソイツの足にくくられた手紙を開いてみれば、
『何やってんだ?』
というギルマス氏からのツッコミが。僕はハッと目が覚める。
……そうだ、悟りを開いている場合じゃない。
兵士の皆さんを追い出してここへ昇らせてもらったというのに、何も成果がないなんて申し訳なさすぎる。
しかし、せっかくアリスが傍にいるのに魔石を取り出してごそごそするのはもったいない。謎の生命体である『精霊術師』について、少しでも情報を得ておかねば。
「あのさ、僕アリスに訊きたいことが……」
「くるっくー!」
「ふふっ、可愛い子……あっ、こら、その中に入っちゃダメよ! きゃっ、くすぐったい!」
アリスの腕から抜け出し、法衣の中にするんと入り込んだ鳩が、分厚いカーテンの向こうでばっさばっさと暴れ回る。
もしやあの中からイイニオイでもするんだろうか。するんだろうな……。
「あっ! ……もぅ、本当にキミはいたずらっ子ね。早くご主人様のもとに帰りなさい!」
「くるっくー……」
若干しょんぼりした感じで返事をした鳩が、名残惜しそうにこっちを振り返りながらパタパタと飛び立っていく。そして法衣の裾をぎゅっと掴んだアリスは、ほんのりと頬を赤らめながら僕を上目遣いにみやって。
「ユウ、ちょっとあっち向いてて。コレなおさなきゃ……」
「ん、どうしたんだ? 鳩につつかれてで怪我でもしたのか?」
「違うの。つつかれたんじゃなくて、紐を引っ張られたのよ」
「紐……」
僕はゆっくりと後ろを向いた。
美しい緑の風景は消え、真っ白い霧の壁と対峙する。大地から天空へと繋がる分厚い壁は、意思を持つかのように妖しく蠢いている。
――あの霧の名は、混沌。
混沌とは、今まさに僕が立っている場所でもある。ここは天国と表裏一体の世界。僕がもし理性を手放したなら、心はあの霧に囚われてしまうだろう。
しかし、紐か……。
この世界において下着とは、腰の部分を紐で結ぶ短パン状のものだ。ある意味下着というよりスパッツ的な感覚に近い。
だがよくよく考えてみれば、僕は『肩車』のとき首周りにごわつく布の存在を感じなかった。
つまり、アリスの言う『紐』とは。
「二ヶ所、か……?」
「うん。待ってね、あともう一ヶ所……」
「そっか……」
白い霧の中に、じわりと広がる黒いシミのようなものが映った。アレはきっと僕の心の“闇”だ。
この心が凍てつく闇に支配されたとき、僕は本物の魔物へと変化する。
そう、今すぐ首を後ろへ捻じ曲げ、二本の紐に護られた“聖地”を目指し――
「ん?」
霧の中に、黒いシミ……?
僕は己の頬をバシッと叩き、カオスな精神世界から辛うじて脱出。次は両目が赤く染まるほど力を入れてゴシゴシと擦り、霧の壁の奥をジーッと見つめる。
それでも黒いシミは消えない。僕の妄想じゃなく、確かに存在すると分かる。
「……なあ、アリス。アレ見て欲しいんだけど」
「なぁに?」
「あの霧の中の、ちょっと上の方……」
「んー、別に面白いものは何もないわよ?」
無事に紐を結び終えたアリスが、エメラルドの瞳を限界まで細めながら霧の中を見やる。しかしその目には単なる白い壁としか映っていないようだ。
アレが視えるのは――じわじわと形作られていく、巨大なコウモリ状の影が視えるのは、僕だけだ。
「これも神様のお導きってヤツなのかなぁ……」
最初にチラッと見たときは全く気づかなかった。
もし鳩が飛んで来なければ……そしてアリスの法衣の中で暴れなければ、僕はこんなにも集中して霧の中を見つめることはなかった。
はぁっと重いため息を漏らし、僕はアリスに頭を下げる。
「ゴメン、アリス。今度は僕の方が用事できた」
「えっ……そうなの。いろいろ話したかったのに、残念」
そう言って、可憐な唇をタコのように尖らせるアリス。恨みがましいジト目は、お気に入りの玩具を取り上げられた子どものようだ。
張り詰めていた心がふっと緩んだ瞬間――僕はとてつもなく大胆な提案をしていた。
「この間の約束、守るよ。次は僕の方から会いに行く」
「えっ、いつ? 今夜?」
不機嫌そうな半開きの瞳が、パッと見開かれた。エメラルドの瞳をキラキラ輝かせて、アリスが僕の腕を掴む。
時間まで指定してくるなんて予想外。ノエルを越えるがっつきっぷりに、思わず苦笑が漏れる。
「うん、分かった。今夜遊びに行くよ。夕方に人と会う約束があるから、たぶん行けるとしても夜中になるけど、いい?」
「大丈夫よ、頑張って起きてるわ!」
「じゃあどこに行けばいいか教えて」
「あそこ!」
そう言ってアリスが指差したのは、ここから南西方向の斜め下。物見の塔と張り合うように天へと伸びる、神殿の塔の先端だった。
高さはこの塔の半分近くあるだろうか。よく見るとてっぺんに小さな窓がある。
どうやらアリスはあそこから飛んで来たらしい。開きっぱなしの窓の縁では、白いカーテンがはたはたとはためいている。
視界をズームアウトすると、高い塀に囲まれた神殿全体が映し出される。
ドーム球場くらいありそうな敷地の中と外には、番犬として雇われている多数の兵士たち。
一般の信徒や怪我人が訪れるのは、あくまで正門すぐの外庭に建てられた『下神殿』で、塔がそびえる『上神殿』はさらに分厚い壁の先にある。
……。
……。
……僕は「事情によってはドタキャンする可能性もあります」と保険をかけておいた。




