三十七、過去
「うわ、危なかったなぁ……もうちょっとで本降りになるところだった」
北ギルドの門をくぐると同時、パラパラという雨脚は一気に激しさを増した。
石畳を打ちつける大粒の雨を見やり、僕はふうっと安堵の息を吐く。右手には大事なお宝であるノエルの手を取り、左手には揚げたてホカホカのドーナツを抱えているため、傘を差せない状況だった。
ちなみにこのドーナツ、店主にお願いして作ってもらった『クルミ入りバージョン』だ。
試作品を一口いただいたところ、クルミの歯ごたえと香ばしさが絶妙にマッチして、ワンランク上の美味しさになった。店主も「定番メニューにしたい」と言ってくれたくらいだし、受付のお姉さん方も喜んでくれるに違いない。
……あのセレブ菓子のことはもう忘れよう。僕はあんな素敵なお店には行かなかった。行かなかった。
「あの、ユウ兄……」
キラキラ輝く亜麻色の髪を覆い隠すべく、フードを目深に被ったノエルが、壁際に設置された掲示板を指差した。
ちょうど昼時のせいかギルド内のホールは閑散としていて、掲示板の前には誰もいない。視えるのは、隙間なく貼られた魔物の討伐依頼の用紙と、新聞紙サイズの藁半紙――民間の新聞社が発行している瓦版。
「ん、どうした?」
「あそこ……ユウ兄のこと、出てる」
「えっ」
慌てて駆け寄ると、今朝届いたばかりの瓦版には奇妙な記事が書かれていた。
『ちょっとオカシな“お菓子小僧”現る!』
昨夜、南エリアの広場に謎の怪人“お菓子小僧”が現れた。
ソイツは貴族しか立ち寄らないセレブストリートを、怪しげな格好でうろうろしたあげく、この街で一番の高級菓子を百個購入。その後、広場の物見やぐらの上からそれを惜しげもなくばら撒き、風のように逃げていったらしい。
最後はそのお菓子を拾った市民たちの『喜びの声』が掲載されていた。「ちょーラッキーっす!」みたいな感じで。
犯人に対してかなり好意的なニュアンスの、心温まるほのぼのニュースっぽい記事だったのだが……“お菓子小僧”とやらの似顔絵を見て、僕は首を捻った。
フードのついたローブを羽織った猫背の小男、というあたりまではいいとして、問題は顔の部分だ。
目は細いつり目だし、鼻が逆三角形だし、口からは鋭い二本の牙がにょきっと。
しかも頬からは髭も生えている。ニンゲンの髭じゃなくて、猫みたいなのが三本ずつ。
まあ、なかなか愛嬌があってカワイイ気がしないでもないけれど。
「これ、僕かなぁ」
「ううん……ユウ兄、じゃない。猫の魔物……」
「だよなー。『なお“お菓子小僧”の目撃情報を寄せてくれた市民には、神殿から懸賞金が出されるもよう』か。これって暗にお尋ね者状態ってことだろうな」
「ユウ兄……逃げる?」
「いや、大丈夫だ。別に黒髪だとか具体的なことは出てないしな。つーか、こんなくだらない記事書くくらいなら、神殿の悪行を書いてくれりゃいいのになぁ。ペンは剣より強いはずなのに」
きっと記者の人たちも、神殿の目を恐れているんだろう。その広場で何が起きていたかには一切触れられていない。
死の霧が迫り、自浄作用が働かなくなっているこの街は、もう長くないかもしれない……なんて冷たいことを考えたとき。
「――お菓子小僧、発見!」
「うぎゃッ!」
突然背後から、何者かにガバッと抱きつかれた。
というか、この背中に当たるやわらかな感触は……。
「お姉さん……?」
「ふふっ、早かったね、ユウ君」
足音一つ立てずにそろりと近寄って、僕を羽交い締めにしたのは――受付嬢のお姉さん。
殺気が感じられなかったとはいえ、ゴブリンキングである僕に対して完全に気配を消せるなんて、やはりそうとうな腕前。
そして何より恐ろしいのは、布越しにも伝わるほどに豊かな……ゲフン。
内心ドキドキしまくりな僕に頓着せず、パッと離れたお姉さんは、定番の頭なでなでルートへ。
その姿は相変わらずの麗しさだ。長い赤髪をキリッと結わえ、涼やかな眼を猫のように細めて僕を見下ろしている。
というか、その視線は左手に抱えているドーナツへ。
「今日もイイモノ持ってるじゃない、お菓子小僧君?」
「あのー、その呼び方って……」
「実は、受付の子たちと賭けてたのよ。ユウ君は今日もお菓子を持ってきてくれるかって。そしたらちょうど今朝“お菓子小僧”の記事が出たじゃない? 皆で『ユウ君にぴったりのあだ名だね』って話してたの」
「……スミマセン、これ全部あげますんで、ホントその呼び方は勘弁してください」
女性の勘、恐るべし。
そんなことがギルドの中で噂になって、万が一神殿に報告されたりしたらヤバイ。こっちは叩けば埃が出まくる身体なのだ。
僕がいそいそと紙袋を差し出すと、お姉さんはしっかりそれを受け取って。
「ごめんなさい、もう言わないわ。あんな気持ち悪い魔物と一緒にしちゃ、さすがに可哀想よね!」
と、明るく笑い飛ばした。
気持ち悪い魔物である僕が壁に頭をめり込ませていると、お姉さんは僕の背中にくっついているちみっこいのを発見。
とたんに年上らしい落ちつきを取り戻したお姉さんは、ロングスカートの裾に手を添えながら、優雅なしぐさでその場にしゃがみこんで。
「あなたがノエルちゃんね。あの脳筋バカ息子――じゃなくて、北門の隊長から聞いてるわ。ようこそ北ギルドへ」
「ん……」
「まだ脳筋のオッサンたちは訓練場で暴れてるから、お茶でもしながら待ちましょうね」
ニッコリと微笑まれたノエルが、頬を赤らめてコクコクと頷く。僕の右手をギュッとしていた手はするんと離れ、お姉さんの元へ。
……なんだかこんなことが前もあった気がする。やはり僕ごときの父性愛じゃ、母性愛溢れる女性には勝てないということか。
空っぽになった両手をワキワキさせながら、僕らは人気のないロビーを突っ切って二階フロアへ。そのまま寄り道せずに進んで例の『結界通路』を通らされる。
二度目の僕はさておき、初めてのノエルは苦しがるんじゃないかと思ったけれど、意外と平気そうな顔をしていた。フードからはみ出した横髪は相変わらずキラキラしているし、もしかしたら精霊にサポートしてもらっているのかもしれない。
そうして辿りついた『黒煙の地獄』ことギルドマスター室。
お姉さんが言った通り、そこにはまだ誰もいなかった。前回と違って、窓が開いていて空気はキレイだし、吸殻はちゃんと捨てられているし、床にゴミも落ちていない。
快適な空間で、僕らはお姉さんが淹れてくれた香り高い紅茶を飲み、揚げたての美味しいドーナツを摘まみながら『決闘中』の二人を待つ。
その間、会話の主導権を握ったのはやはりお姉さんだった。「話したくないことは話さなくていいからね」と前置きした上で、ソファの隣にちょこんと腰かけたノエルを優しく見つめて。
「それじゃ、ノエルちゃんは中央大陸で生まれて、お父さんと二人でこの街に来たのね?」
「ん……でも、お父さん、すぐに死んじゃった……」
「そうなの。それは辛かったわね……その後どうしたの?」
「道で寝てたら、バジル兄に踏んづけられた……それで、家族に入れてもらった」
「そう、イイ人と知り合えたのね。それで?」
「ボク、魔力ないから……家事したり、チビのめんどう見たりしてた……」
といった感じで、途切れることなく続く会話のキャッチボール。さすが接客業のプロだけある。
一晩を共にした僕でさえ知らない、ノエルの過去が着々と暴かれて行き――
「そしたら、一昨日の夜、チビが熱出して……すごく苦しそうで、ボクお金稼がなきゃと思って」
「うんうん、それで?」
「だけどボク、魔力もないし、何もできないから、娼館に行った……」
「うんうん……えっ?」
「――なッ?」
ガタッ!
思わず立ち上がった僕を、泣きそうな顔で見上げるノエル。お姉さんの視線がノエルを庇うように動き、その細い肩を優しく抱き寄せる。
僕はそんな風に動けなかった。
頭にカーッと血が上る。このままじゃノエルを泣かせてしまう気がしたのに、どうしても自分を止められない。
「お、お前、娼館ってとこがどんな場所だか、分かってんのかッ?」
「ん……分かってるよ、ユウ兄」
溢れそうになる涙を堪えながら、しっかりと頷くノエル。
くらり、と強い目眩を覚え、僕はこめかみを押さえた。
雑多なあの街の底辺で生きてきたノエル。子どもの作り方を知ってるくらいだ、娼館の意味を知らないわけがない。
僕だってちゃんと分かってる。そこで働く人たちを差別したり否定するつもりはない。
だけど、ノエルはまだ十二歳だ。
精霊に好かれるくらい無垢な女の子が、どうして――
「でもダメだった。働かせてもらえなかった……」
「えっ」
「娼館のおじさんは、『磨けば光る』って……でも、お客さんに止められた……『ここはお前みたいなガキの来るところじゃない』って。ここで働くには、もみ心地が大事って……」
――お客さん、グッジョブ!
真っ昼間から娼館にいて小さい子にそんなこと言ってる時点で人として終わってる気がしないでもないけど、最高にグッジョブだ! 僕にとっては救いの神様だ!
と、心の中でガッツポーズをした僕に、ノエルはぼそっと。
「でもボク、どうしても、今すぐお金が欲しいって言った……そしたら、貸してくれるって……」
「ん? そのお客さんが?」
「うん……ただその人、お金使ったばかりで手持ちがないから、“お店”のモノを持って行っていいって……店番の人には、後で説明するから大丈夫って……」
「そっか……そういうことだったのか」
僕は窓の向こうの雨雲を眺めながら、心に誓った。
次に南へ行くときは、アクセ屋のバカ兄貴――いや『救いの神様』をとことん接待しよう、と。




