三十六、境界
十二歳、というのは微妙な年齢だ。
向こうの世界なら、小学六年か中学一年。ランドセルを背負っているかどうかの違いは大きい。
もし小学生なら、それは女の子といっても限りなく『子ども』に近い。極端な話、リリアちゃんと同じカテゴリーに入る。
特にノエルは他の子に比べて小柄で華奢で、男と大差ない胸……ゲフン。
つまり、ノエルとのお風呂は僕にとって“ノーカウント”だ。
正直、つるっと滑った後のことはさっぱり記憶にない。たぶん頭を床にぶつけたせいだと思う。
ただ記憶がないながらも「下半身は自分でしっかり洗うように」と的確な指示を出し、ずるずると這いずって浴室を出て、手早く着替えて脱衣場の扉の前で仁王立ちし、武蔵坊弁慶のごとく他の兵士たちを追い払い続けていた……気がする。
そして、ノエルがお風呂を出て着替え終わったら、すかさず旅人のローブを被せてお姫様抱っこして、誰にも見られないようにゴブリンダッシュ!
……という紳士的なステップを踏んだ後、僕はニンゲンの女の子に生まれ変わったノエルと対峙した。
場所は兵舎一階奥の応接室。四畳半ほどの室内に、ソファとローテーブルがあるだけのシンプルな部屋だ。
明かり取りの窓は無く、テーブルの上にランタンが置かれている。分厚い壁は防音に優れた結界魔石付きで、主に密談用スペースとして重宝されているらしい。
そして現在、革張りのソファに僕とノエルは並んで腰かけている。三十センチほどの隙間を空けて。
「……」
「……」
基本ノエルは無口だから、僕の方から話しかけないと会話が発生しない。
夜勤を終えた隊長は、今ひとっ風呂浴びているところだ。誰かが邪魔したせいでお風呂は大混雑だし、もうしばらくかかるだろう。
なんとなく手持無沙汰になった僕は、シュレディンガーを呼びよせてみた。
……別に薄暗い密室でノエルと二人きりというシチュエーションが気まずいってわけではない。けっして。
しかし、こんなときに限ってシュレディンガーは役に立たない。僕にじゃれついてカタカタ言うこともせっせと掃除をすることもなく、部屋の隅で大人しくしている。これじゃただの木箱だ。
幻想的なランタンの灯りを見つめて、はぁっとため息を吐いたとき。
「ユウ兄……頭、大丈夫?」
右隣りに腰かけたノエルが、心配そうに眉根を寄せて僕を見上げてきた。
ピーリングで一皮むけた亜麻色の髪は、光輝くような美しさ。鳶色の瞳は軽く潤み、薔薇の花弁のように赤い唇もまだしっとりと濡れている。鼻先までを覆う邪魔な前髪はサイドへ流して耳にかけてあるから、お人形のような面立ちがより際立つ。
僕は視線をあさっての方向へむけたまま、ドキドキしつつ答えた。
「お、おぅ。ノエルものぼせなかったか?」
「ん……ちょっと、顔が熱い、かな」
小さく呟いて、ほんのりピンクに染まった頬を手のひらで押さえるノエル。
羽織っている旅人のローブは、袖口を折り返してもぶかぶかだ。指先がちょこんと覗く感じが可愛らしい。
その下には男物のチュニックとズボン。
兵舎に常備してあるもので一番小さいサイズにも拘わらず、ノエルが着るとワンピースになるほどデカイ。しかも襟ぐりが大きくて屈むと中が見え……ゲフン。
ということで、街へ出てちゃんとした服を買うまで、ノエルにはローブを脱がないよう指示してある。風呂上りのノエルにとっては暑苦しいだろうけれど、僕の鼻の粘膜のために我慢してもらおう。
「しかし、隊長が来たら驚くだろうなぁ。まさかノエルがこんな風に変身するなんて思ってないだろうし」
「隊長さん……怒る?」
「怒らないよ。たぶんビックリするだけ。ただノエルの『古傷』を直接見せるのはやめておこうか」
一応ノエルが着ていた服は捨てずに取ってある。
洗濯したところでボロボロだし、それ以前に背中の部分がズタズタに切り裂かれているからもう処分するしかないんだけど、神殿の兵士にやられた証拠として使えそうだなと。あと血塗れのシーツもある。
それを見せてヤツらの悪行を訴えれば、別にノエルの肌を晒さなくても、隊長たちは分かってくれるはず……。
そう力説したところで、ノエル自身にはピンと来ないようで。
「別にボク、傷見せるの、気にしないよ……?」
「いや、万が一ってことがある。隊長にも“アリス愛好家”の血が流れているとも限らないし」
と、親バカモードになった僕が失礼極まりない発言をしたとき、ゴンゴンとドアが強く叩かれた。噂をすれば何とやら。
「待たせたな、坊主。今朝は妙に風呂が混んでて……っと……?」
タオルを首にかけ、ブロンズの髪からポタポタと水滴を垂らしながら入ってきた隊長は――案の定、僕の隣に腰かけるノエルを見てピキッと固まった。
例の疑惑を検証するべく、僕は隊長の表情をジッと観察する。
僕の宝物であるノエルに対して邪な感情を抱いていないか……そわそわしたり頬を赤らめたり突然プロポーズしたりしないか、と。
しかし隊長のリアクションは、ドキドキじゃなくビクビクというか、なぜか恐ろしい魔物でも見たような感じで。
「そのちみっこいのは、もしや……いや、まさか……」
ドアの前から一歩も動かず、震えながらノエルを凝視する隊長。チュニックの肩へポタポタ垂れる水滴には、濡れ髪のしずくだけじゃなく隊長の冷や汗も混じっていそうだ。
……そういえば、隊長のこんな姿を一度だけ見たことがある。
あれは確か、アリスの指輪を見せたとき。よほど『神殿』が苦手なのか、隊長は小さな指輪一つを恐れてジリジリと後ずさっていた。
今の隊長も丸っきり同じだ。
ノエルの方はといえば、特に隊長のことを怖がっている様子はない。むしろ僕と同じく、怯える隊長の姿を不思議そうに眺めている。
「隊長、どうしたんですか? ひとまず座ってください」
「あっ、ああ、そうだな……これはオレの目が老眼だってことなのかもしれん……何か目に良いモノを食べなければ……」
何やらぶつぶつと呟きながら、隊長が僕らの対面のソファに腰かけた。相変わらずノエルを恐れているようで、目線が全く噛み合わない。
不可解に思いつつも、僕は本題へ。
「昨日は理由も訊かずに泊めていただいて、どうもありがとうございました。隊長が邪竜の件で忙しいのは分かってるんですが、報告しておきたいことがありまして……」
そう言って僕が、荷袋の中に詰めた『証拠品』を取り出そうと屈みこむと。
「タイチョウ=サン……」
やたらカタコトっぽい言い回しで、ノエルが隊長に声をかけた。
ビクッとしすぎてソファから転げ落ちる隊長。それを汚れと見なしたのか、隅っこにいたシュレディンガーがガタッと。
奇妙な空気に包まれる中、一人涼しい顔をしたノエルが動いた。
音もなくスッと立ち上がり、ローテーブルを越えて床にへたり込む隊長の隣へ。そしてほっそりとした指先を伸ばし、隊長の頬にそっと触れる。
その瞬間、僕は脳天から雷が落ちたようなショックを受けた。
――まさか、ノエルの方が、隊長に……?
確かに隊長は強くてカッコ良くて優しくて僕も大好きだし一応独身だしなんの問題もな……いや、問題だらけだろ常識的に考えて!
コンマ一秒の間に冷静なジャッジを下した僕が、隊長からノエルを引き離すべく立ち上がったとき。
「この傷、痛い……?」
心配そうな声で呟いたノエル。
案じているのは隊長の頬に走った傷。それこそ数十年前の古傷だ。
ノエルの無垢な眼差しに魅入られた隊長が、どこか夢心地といった口調で答える。
「ああ、だいぶ古い傷なんだが、未だに疼く……だがこの痛みは、オレが“あの男”を越えられていないという証で」
「ここに、炎の精霊がいる……」
「――ッ?」
大きく息を呑む隊長。当然僕もフリーズ。
ノエルは隊長の傷を見つめながら「どうして?」と語りかけて……一つの結論を引き出した。
「嫌がらせ、だって……」
「は?」
「炎の精霊が『ゴメンナサイ』って、言ってる……この傷があると、女の人が怖がって近づかない……これは呪い、かも……?」
困ったように眉根を寄せるノエルと、口から魂が飛び出したかのように呆ける隊長。
そして僕は、ついに見てしまった。
暗く狭いこの部屋で、ランタンの明かりを凌駕するほど強く光り輝くノエルの髪が――風のない密室にも拘わらず、何かに遊ばれるようにふわりと舞い上がるのを。
「ちょっと待て、落ちつけ、僕……ッ」
バクバクと激しく動く心臓を押さえつつ、僕は冷静に考えた。
確かにノエルは魔力を持たない『Fランク』。カテゴリー的にはリリアちゃんと同じ『子ども』だ。
無垢な子どもには、ごく普通に精霊の姿が視えるという。
だけど、その境界線はいったいどこなんだ?
十二歳の女の子が、精霊とナチュラルに会話できたり、精霊っぽい何かがあのキラキラした髪にまとわりついているのは、さすがにオカシイんじゃ……。
「あのー、ノエルさん、つかぬことをおききしますが」
「ユウ兄……なに?」
「子どもの作り方、知ってる?」
……。
……。
――いったい何を言ってるんだ、僕は!
もっとマトモな確認方法があるだろう! これじゃただのセクハラだ!
ていうか、もしもノエルが僕の思ってるあの存在だとしたら、このセクハラ発言で心を穢してしまった可能性も微レ存――!
焦りのあまりだくだくと冷や汗を流す僕を見て、ノエルは大きな瞳をぱちくりと瞬かせ、軽く小首を傾げて。
「ユウ兄……ボクと、子ども作りたいの?」
――知ってたッ?
「もしかして、ボクに頼みたい『大事な仕事』って……それ?」
――なんか話が飛躍してるッ?
「うん……いいよ。ユウ兄なら……」
――なにそれプロポーズッ?
気づけば僕の目の前にノエルがいた。髪や肌や瞳や唇や、全身をキラキラと輝かせた麗しい乙女が、僕の身体へふわりとしなだれかかり――
「助けて隊長ッ!」
可憐な乙女の魔手から逃げるように飛び出し、僕は隊長の逞しい腕に縋りつく。
……はずが。
僕の身体はあっさりと振り払われた。全身から瘴気の靄を立ち上らせた隊長は、ズイッとノエルの前へ。
「おい、ちみっこいの! 今言ったことは本当かッ? オレはずっとあの男に、あのクソオヤジに『呪い』をかけられてたっていうのかッ!」
「ん……精霊は、そう言ってるけど……」
「殺す! 今すぐぬっ殺す!」
「隊長、落ちついて! 誰か、誰か助けてください――!」
悪鬼のごとき形相で暴れまくる隊長を背後から羽交い締めにし、僕が叫んだ刹那。
――ヒュンッ!
部屋の隅から飛んできた木箱が、隊長の額に激突!
バタンと後ろに倒れる巨躯!
その下敷きになった僕は後頭部を殴打!
「うう……痛い……」
ぐったりした隊長の身体を押し退け、僕はかろうじて自力で脱出。すかさず近寄ってきたノエルが、「頭、大丈夫?」となでなでしてくれる。
その瞬間、僕は全てを理解した。
ノエルに触れられただけで、痛みが嘘のように消えていく……これは“奇跡”以外のなにものでもないと。




