三十三、王国
薄闇に包まれる賑やかな街を、僕は獣の速さで駆け抜ける。周囲へアンテナを張り巡らせ、人との邂逅をできるだけ避けながら。
腕の中の子どもは、まだ少年とも呼べないくらい幼い面立ちだった。そして僕の想像よりもずっと細く軽い。まるで空気を運んでいるみたいだ。
背中に刻まれた生々しい傷口には触れないように、なるべく振動を与えずに走るのに、スニーカーが地面を蹴るたびに少年は苦しげなうめき声をあげる。その瞳は固く閉ざされ、汗で濡れた前髪がべったりと額に張りついている。
「待ってろよ、すぐに医者のところへ連れてってやる」
できるなら今すぐ傷を癒してあげたいけれど、僕の特殊な『治癒術』を彼に施していいのか分からない。これほどの大怪我だ、安易に手を出してかえって悪化させてしまったら取り返しがつかない。
最善策は、やはり『治癒術師』の元へ連れていくこと。
でもこの傷を見たら何か感付かれるかもしれない。小さな子どもに鞭を振り回す人物なんて限られているだろうし……。
「まあこれだけ大きな街なんだ、神殿まで行かなくても町医者が何人かいるだろう。とにかく“兄貴分”のアイツと合流して、かかりつけの医者がいるか訊いてみよう」
僕が逡巡する間にも、少年の病状は悪化の一途を辿る。背中からは大量の血液が滴り落ち、青紫になった唇からは泡が吹き出す。四肢が硬直し、痙攣が始まる。
震える痩せた身体を全力で支えながら、僕は初めて大ネズミと戦った日のことを思い出していた。
あのときの僕はもっと酷い状態だった。骨と皮だけになるまでやせ細り、一晩中追いまわされ、皮膚を切り裂かれ生き血を啜られて――それでも決して生きることを諦めなかった。
何度鞭打たれても屈しなかった少年の魂は、たぶん僕と同じだ。
「元気になったら一緒に冒険しよう。お前の兄貴分と一緒にさ。だから……死ぬなよ」
消えゆく命の炎を繋ぎとめるように、僕は少年に語りかけ続けた。
そして申し訳ないと思いつつも、通りがかった民家からシーツを一枚拝借し、少年の身体に巻きつける。
……この先は人目を避けて通れない。あのローブを“おとり”の彼に譲り渡してしまった今、黒髪の僕がこの子を抱えて走るのは目立ち過ぎる。
シーツにくるんだ『荷物』を慎重に持ち上げ、なるべく気配を殺しながら、密やかに迅速に、僕は約束の場所へ急いだ。
そうして辿り着いた大樹の下には、二つの影があった。
一人はおとりを頼んだそばかすの少年。もう一人は彼より背が高く体格のいい少年だ。背中まで伸ばした赤毛をひとくくりに結わえ、腰に立派な長剣を差している。
二人の立ち位置を見ると、それなりに親しい間柄だということが分かる。たぶんそばかすの少年が仲間を呼び寄せたんだろう。
「――黒髪の兄ちゃんッ!」
そばかすの少年は、僕の姿を見るや弾かれたように飛び出してきた。大きな鳶色の瞳は驚愕に満ちている。
例の騒ぎで注意を逸らしたとはいえ、敵は剣を手にした兵士が七人。本当に奪還できるとは思わなかったのかもしれない。
喜びに綻びかけた口元は、すぐさま強く引き結ばれた。僕が抱えている『荷物』から漂う血の匂いに気づいて。
今にも泣き出しそうな彼を視線で制し、ひとまず樹の影のやわらかな土の上に『荷物』をそっと下ろす。
「悪い、裏道を通ってきたら遅くなった。それにコイツの怪我がヤバい。今すぐ医者のところへ連れて行っ」
「――それはダメだ」
口を挟んだのは、長髪の少年だった。
シーツを剥がそうと跪いていた僕は、自然と彼を見上げる形になる。
バチッ、と火花が飛び散るような視線のぶつかり合い。
細面ながら整った面立ちの少年は、切れ長の眼に怒気を孕みながら、僕の持ち込んだ『荷物』を見据えた。
ぐったりと横たわる少年の、手首に付けられた重たい枷――そこに彫り込まれた百合の花の紋章を。
「神殿に目をつけられたんだ。もぐりの町医者だってその手錠を見りゃ匙を投げるさ。それ以前に――コイツは掟を破った。もう俺たちの家族じゃない」
「兄貴!」
そばかすの少年を軽く押しやり、長髪の少年は僕へ向かって冷笑を落とす。
「どこの貴族様か知らねぇが、とんだ御足労だったな。今言ったように、ソイツはもう俺らとは一切関係ない赤の他人だ。どこへでも捨てて行ってくれて構わない」
冷たく言い放ち、踵を返す長髪の少年。
そばかすの少年が必死でしがみつくも、あっさりと振り払われる。年齢も体格も違う“リーダー”に勝てるはずがない。
それなのに、何度倒されても追い縋り、土にまみれながら懇願する。
「アイツはヤツらの金なんて盗ってない! 確かに昼間は、露店から物を盗もうとしたって……だけど『もう二度とやらない』って、本気で反省してたのは兄貴だって知ってんだろ!」
「そのときとは、状況が変わったんだ」
「それにアイツがそんなことをしたのは、全部家族のためじゃないか! チビが熱出して、薬代が無いからって……なのに、どうして……ッ」
「本当に、分かんねぇのか?」
凍てつく氷のような口調に、そばかすの少年がヒュッと息を呑む。そして縋りついていた腕を離し、ずるずるとその場にへたり込む。
二人の会話はそれで終わった。
横で傍観していた僕でさえも、真実に気づいてしまった。
……彼らには金がない。医者へかかるのは本当に大変なことなんだろう。
目の前で二人の人間が溺れかけているとしても、助けられるのは一人だけ。リーダーである長髪の少年は、より幼い方を選んだ。それだけのことだ。
号泣する弟分を置き去りに、暗がりの中へ歩き去る彼は、決して振り返らなかった。
それでも僕には分かった。彼もきっと涙を流していると……。
「――なあ、コイツを助けたいか?」
そう呟いたのは確かに自分だったのに、驚くほど大人びた声が出た。まるで隊長の声みたいな、心ごと包み込むような優しい音色。
力無く俯いていたそばかすの少年が、自分の頭に置かれた温かな手のひらに気づく。そしてポロポロと涙を零しながら僕を見上げる。
気まぐれに手を差し伸べてくれた、どこぞの貴族の坊ちゃんを。
「ッ……で、でも、いくら金を積んだって、ダメなんだ……兄貴が言ったみたいに、この街の医者は、神殿のヤツらには……」
「この手錠のことか? こんなものは壊しちまえばいい」
――グシャリ。
クルミの殻を潰すように、僕は鉄の輪を握りつぶしていた。手のひらが少し赤くなったけれど問題なし。中の『実』が傷ついたりもしていない。
溜めこんでいた怒りがようやく発散できて、少しだけ胸がスッとする。
「え、えっ、なんで、手錠、壊れて……」
驚きのあまり、そばかすの少年の涙がぴたりと止まる。
あまり驚かせすぎて悲鳴を上げられたりするとマズイ。僕はにっこりと微笑みながら、ずっと隠してきた秘密を告げた。
「僕の正体を教えてあげよう。実は僕、ニンゲンじゃないんだ。『魔物』なんだよ」
「……まもの……」
「だからね、こんなこともできる。いいかい、よく見ててくれよ?」
僕は荷袋から魔石を一つ取り出すと、自分の頬に当ててスッと横へ滑らせた。
鏡を見なくても、目の前の少年の顔を見れば何が起きたかは分かる。昼間ウサギの角でやられた切り傷が、一瞬で消えてしまったのだと。
訳の分からない『魔物』の力を見せつけられ、極度の混乱状態に陥りながらも、そばかすの少年は一番大事なことを見失わなかった。
小さな手を固く握り締め、涙混じりの震える声で、囁く。
「お願い……その力で、アイツを、助けて」
「うん、僕もそうしてやりたいんだけどさ、この力を『普通のニンゲン』に使うのは初めてなんだよ。もし上手くいかなかったら、この子は本当に死んでしまう。もし生き延びたとしても、魔物になってしまうかもしれない……」
重たい手枷を消し去ったとはいえ、病状は何も変わらない。今にも呼吸を止めてしまいそうな、青褪めた少年の横顔を見つめながら――僕は一つの選択を迫られていた。
……たぶん僕は、この場に『精霊術師』を呼び出すことができる。
アリスへの気持ちをありったけ込めた『告白』の言葉を、この夜風に乗せて解き放てば、すぐに彼女は現れるだろう。「もう、次はユウが来てって言ったのに!」と唇を尖らせて。
そして、奇跡の光であっという間に傷を治してしまう。
だけどアリスは気づくだろう。少年の受けた傷を見て、この街に理不尽な暴力がはびこっていると。
しかもそこに神殿が関わっている……その事実を知ったとき、アリスの心がどうなってしまうのか、僕には想像すらできない。
傷ついたアリスが精霊術を失おうものなら、それこそ取り返しがつかない。この街の強力な守り手がいなくなり、全市民を危険に晒すことになる。
目の前で息絶えようとしている一人の少年と、アリスの心とを天秤にかけた結果……僕はアリスを選んだ。
なのに胸が苦しい。失敗するのが怖い。
僕は医者なんかじゃない、ただの高校生だ。他人の命を預かるなんて荷が重すぎる……。
横たわる少年に触れることができず、魔石を握り締めたまま立ち尽くしていた僕の耳に、再び小さな声が届いた。
「オレの身体を使ってください」
へたり込んでいたそばかすの少年は、いつの間にか立ち上がっていた。そして、涙に濡れた瞳を真っ直ぐ僕に向けて。
「この身体で、力を試してみてください。オレは『黒髪の悪魔』になってもかまわない」
きっぱりとそう告げるや、彼は自らの左手に噛みついた。僕が止める間もないくらい素早く、一瞬たりとも迷わずに。
犬歯が食い込んだ人差し指から、真っ赤な血が流れ落ちる。
痛みを感じていないはずはないのに、少年は僕に笑いかけてみせる。誇り高い『冒険者』の顔で。
「ったく、バカなヤツ……」
思わず苦笑を漏らしつつ、僕は薄汚れた小さな手を取った。そして生まれたばかりの傷口へ魔石を軽く押しつける。
内部に入り込んだ異物を水で洗い流し、皮膚の奥の細い血管へと血小板を集める。血管の傷が塞がれた後、線維芽細胞を増殖させる。
いつもよりスムーズにイメージできたのは、昼間に『魔物の再生』を見ていたおかげだろう。
魔石を何度か往復させていくうちに、抉れた肉は盛り上がり、切れた皮膚には薄皮が張られ……痛々しい噛み傷は、薄い跡を残すだけで綺麗に無くなった。
「あ……ホントに治った……痛くない」
「これでお前は僕の仲間だ。栄えある“ゴブリン王国”の、一番目の家来だぞ!」
緊張をほぐすべく軽口を叩き、そばかすの少年をさらなる混乱に陥らせた後、僕は『手術』へと着手した。
月明かりが煌々と照らす中、可愛い手下にジッと見つめられながらの大仕事は、なんとか成功。
固く閉ざされていた瞼をゆっくりと持ち上げた『二番目の家来』は、邪悪な笑みを浮かべた魔物の僕に向かって、確かにこう囁いた。
――ありがとう、オガミサマ……と。




